藤堂高虎

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腐女子の脳内の理想の高虎。もちろん実物とは全く異なる
「私より30cm以上も背が高いのか!」
藤堂高虎 について、Hyde

藤堂 高虎(とうどう たかとら、弘治2年1月6日1556年2月16日) - 寛永7年10月5日1630年11月9日))は戦国時代のサムライ一級建築士である。何度も主君を代えたことから裏切り者の代名詞のように扱われ言われ無き誹謗中傷を受けているが、その当て擦りの大半は処世が下手で人に顎で使われるばかりの凡愚の俗人共が彼の鮮やかな処世術に対する嫉妬によるものである。世渡り下手な馬鹿の象徴であるサラリーマンからは特に憎悪と嫉妬を向けられており、サラリーマンの嫌いな戦国武将ランキングでは10年連続で一位の座に輝いている。

人物[編集]

藤堂家は元々有力な土豪であったが、先代や先々代がローン地獄やサラ金、賭博などを重ねた挙句に没落し、高虎の父の代には一農民にまで落魄れていた。しかし、高虎の大車輪の活躍によって大いに隆盛し、最終的には津藩の藩主として近世に名を残すことに成功した。

六尺三寸(190cm)をゆうに越す巨漢であり、戦場でもその巨体さが顕著に目立ち敵の標的にされ、屋内では天井に度々頭をぶつけることが多かった。背丈が高いことは良い事のように解釈されるが、大男ゆえに不便なことも多かったと本人は述懐している。某156cmの男など、身長が足りない男達にとっては厭味としか思えない発言である。

浅井長政から徳川家康に至るまで7度も主君を変えたことから、「武士は二君に仕えず」を信条とするサムライ達からは変節漢、裏切り者として唾棄されたが、そもそも忠孝の概念が重視されるようになったのは身分制度が厳格化された江戸時代であり、下剋上の風潮が蔓延する戦国の世では鞍替えなど日常茶飯事の如く盛行していた。高虎が仕官するとその主君は選手生命を失うとか、更に言えば高虎が主君を変えたわけでなく、殆どの場合主君の方が勝手に自滅したのである(浅井長政、阿閉貞征など)。主君が没落したり信頼におけない人物であった場合、自らが生き残るため新たな君主を求めるのは至極当然のことである。その当然の摂理を無視して人々が何故高虎を糾弾するのかと言えば、「外様の分際で家康から譜代並に優遇された」「背が高かった」など、彼の優れた器量・輝かしい業績に対する嫉みに依拠するところが大きい。何が何でも高虎を貶めたい一部の狭隘な人間達は、主君を何度も変えたという一点に高虎の瑕疵を見つけ、それを誇張、指弾することで高虎に悪党の烙印を押したのだ。

老獪で薄情な変節漢という人物像は高虎という人物を縁取る輪郭のごく一部分が誇張されたいわば虚像である。出世してから若い頃無銭飲食した団子屋の主人に恩返ししたり、九州征伐で宮部継潤の危機を救ったり、長らく奉仕していた豊臣秀長が没した際は菩提を弔うべく出家するなど、義理人情に溢れるエピソードも多く伝わっている。

藤堂家は高虎の業績によって幕府から優遇されたが、幕末、土壇場で官軍に鞍替えし、幕府軍を攻撃した。高虎が糾弾されるのはこの間抜けな子孫の不始末のせいでもある。この時人々は「藩祖・高虎の寝返り癖が藩全体によく染み付いている」と非難したようだが、子供の不品行で親の躾が非難されるならまだしも、200年前以上の先祖の行為が指弾されるのはお門違いである。そもそも世渡り上手な高虎は土壇場に追い込まれてやっと敵に寝返るなどというみっともない真似はしておらず、真に問題となるのは「高虎の主君クラッシャーっぷりが世紀をまたいで発動した」という点であろう。

築城の達人としても有名で、現代まで連綿と伝わる壮麗な城郭の内いくつかは彼の築城したものが多い。徳川家康は彼の築城の手腕を遺憾なく発揮させるため、わざと何度も高虎の所領を移転させ、その度に城郭の普請を行わせていた。高虎からすればたまったものではないが、本人はむしろ喜んでいたようである。

高虎は築城のために石垣を積み上げるのは好んだが、人が自分の命を石垣として積み上げる殉死は酷く嫌悪しており、殉死を禁止していた。

歴代主君[編集]

  • 浅井長政 - 高虎が始めに仕えた主君。織田信長との同盟を破棄して武田信玄と連携して信長を倒そうとするが、直前になって信玄が病死したため、織田軍の全戦力と戦うことになり、自滅
  • 磯野員昌 - 3番目に仕えた主君で高虎が仕えていた浅井長政の家臣。長政が信長に敗北したため、信長にひれ伏してうまいこと取り入れられるが、後に信長の機嫌を損ねて所領を没収され追放
  • 津田信澄 - 4番目に仕えた(略)。信長にとても気に入られていたが、本能寺の変で明智光秀の内通を疑われて信長の家臣の手にかかり殺害
  • 豊臣秀長 - 5番目に仕え(略)。ここに来てやっと高虎にも運が向いてきて、秀長の元では幾つもの武勲を上げて一万石の大名になる。良い主君だったが最後は城内で病死
  • 豊臣秀保 - 6番目(略)。もっとも若い主君だったが、謎の変死を遂げる。

関連項目[編集]