藤原玄明

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藤原 玄明(ふじわら の はるあき、? - 940年3月27日?)は、平安時代中期の武将藤原鎌足不比等父子の末裔で、藤原南家出身である。父は藤原玄上(「はるうら」、864~933年、中納言・藤原諸葛の子)で、母は鹿島氏。兄は常陸介・玄茂。子は伊佐連国である。別称は「伊佐玄明」。

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桁外れな獰猛残虐至上者[編集]

『将門記』で悪評高き玄明。

将門記』によれば、玄明は常陸国霞ヶ浦にいた武家貴族(軍事貴族とも)であり、「自分勝手で、気に入らないものは処刑し、思うがままに暴虐に振る舞い、民百姓に害を加えた」というヤツで、おそらくデブ董卓松永弾正に匹敵する残酷な人物だろう。

933年、父が亡くなると、はとこ藤原維幾が常陸介(国司)となった。自己中心な玄明はこれに不満を持ち「軟弱な維幾が常陸介とは絶対に許せんぞ!!亡き親父とこの俺が就くべき官職だったのだ!!」と激怒し、税金を納めずに縄張り拡大をした。これをきいた維幾は激怒した。ついに玄明は839年1月のある深夜に維幾の屋敷に襲撃した。ところが玄明の悪評は有名で、警戒した維幾の反撃にあって敗れ去ったのである。

逃げる途中で、玄明一行は各村落を襲いかかり、善良な郷民を斬り殺し、食料やなどを奪い、挙句に村落を焼き払って立ち去る外道にも劣る行為をしたのである。

こんなときにアイヌの王族の血を引き、“平氏(実際は俘囚平氏=坂東平氏)”と自称した平将門京都藤原忠平から「蝦夷(アイヌ)の血を引く坂東の検非違使を要求せずに、さっさと坂東に帰って、野良でも精をだせ!」と馬鹿にされ、坂東に戻り、皇族系の常陸大掾の平国香(高盛)を惨殺し、その子の陸奥介・平貞盛は前述の維幾を頼り、将門を討つ準備をしていた。

実は玄明は貞盛とその弟の繁盛に撃退されたのだった。そこで玄明は将門を頼ったのである。将門の叔父の良文(村岡五郎)と兄の将持と弟の将平らが玄明を手厚く迎えたのであった。これをきいた維幾は激怒し自ら将門の屋敷に詰問し「玄明はわが一族の疫病神である。さっさと引き渡してもらいたい!」と叫んだ。ところが将門は「当屋敷に玄明なる者はおりません。さっさとお引き取り願いましょうか」ととぼけたのである。これを聞いた維幾はますます顔を紅潮し「嘘つけ!ちゃんと情報は聞いてるんだ。この蝦夷の貉めが!」といって恫喝した。

そのとき、将門の弟の将平が維幾を目掛けてK1なみのキックを喰らわせたのである。「兄貴のいうことは絶対だ。さっさと帰れ!この“麻呂野郎”が」と叫んで、維幾らを追い払ったのである。

悲惨な最期[編集]

この時点で将門は朝廷に対して謀反を起こす決意を固めたのである。約一ヶ月後に将門は玄明を道案内にして、維幾の本拠地である常陸国府に夜襲したのである。多勢の将門軍に驚愕した維幾はあっさりと生け捕りにされた。そして、身の程知らずにも“新皇”と自称し、「関東独立国」の皇帝となったのである。

一方、維幾の子・工藤為憲は貞盛兄弟とともに下野国藤原秀郷(藤原北家出身。母は毛野姓鳥取氏)を頼ったのである。秀郷の妻が貞盛の姉だったのである。秀郷はこのことを藤原惣領家の関白の忠平に知らせた。これをきいた忠平は「なに~!あの蝦夷貉の将門が天子と自称したじゃと?」と激怒し、一族の藤原忠文を征夷大将軍に任命し、皇族の六孫王を副将にして、将門を討伐した。

そのころ、玄明は将門によって、関白/摂政に任じられて、好き放題にに対してピー…禁則事項ですしたのである。そのため周りの恨みを買ったのである。

同時に秀郷たちも、軍勢を集めて将門・玄明らを襲撃したのである。将門一行の悪評がすさまじいので、離反する者が多く、あっさりと将門と玄明は討ち取られ、その首はディプレイの上に晒された。玄明の兄の常陸介・玄茂と将門の兄・将持と弟・将平も殺害された。維幾は息子の為憲に救助された。


だが、生き残った叔父の良文は将門の子・相馬将国とその兄の将頼と玄明の子・伊佐連国とともに、本拠地の相模国に逃亡したのである。

玄明の子孫[編集]

ほとぼりが覚めたころに、連国は郷里の常陸に帰った。その子の為賢筑紫国箱崎で、大宰権帥藤原隆家道長の甥)に従い、「刀伊の入寇」(満州族の襲来)で功績を残し、同真壁郡伊佐荘中村の地名をとって「伊佐氏」と称した。

子の安周をはじめ、定任、実宗、季孝、家周、光隆を経て、光隆の子の朝宗鎌倉頼朝に従い、藤原泰衡を討伐した戦功で、奥羽伊達郡を賜まった。代々、奥州探題をつとめ、子孫に伊達政宗が登場した。

伊達氏が、公家貴族の魚名流藤原山蔭の末裔だというのは真っ赤なであり、信じてはならない。

一方、『姓氏』(樋口清之/丹羽基二)によると、朝宗の叔父・智源(光隆の末弟)は真壁郡または下野国芳賀郡柴田郷を拠点として「柴田氏」と称した。その子の心光をはじめとして、昌光、恒清、孝忠、明光を経て、その子の政綱が足利尊氏に従って、戦功をたてて、尾張国の一部を賜った。政綱の子の満盛、賢盛、長恒、孝盛、時盛、長房、重長、勝行を経て、戦国時代柴田勝家(父の名は未詳)は勝行の孫という。