藤原信長

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藤原信長。

藤原信長(ふじわらののぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代前期の公卿である。正二位・右大臣

経歴[編集]

永禄11年(1568年)叙爵。その後元亀元年(1570年)正四位下に進み、天正2年(1574年)従三位・参議に任ぜられる。天正3年(1575年)右近衛大将を兼任する。天正4年(1576年)正三位、次いで内大臣に任命され、右近衛大将如元。天正5年(1577年)従二位、右大臣。右近衛大将如元。天正6年(1578年)正二位に昇るも、右大臣・右近衛大将を辞任し隠居した。天正10年(1582年)、京の寺院に滞在中、火災により死去。死後、従一位・太政大臣を贈られた。

「藤原」は苗字ではなく本姓であり、そのため「ふじわら の のぶなが」が正しい読みとなる。右大臣に至っていることから、清華家クラスの家格を持つ公家であると思われるが、そうだとしても異例のスピードで出世を遂げていることから、相当に有能な人物であったことが伺われる。[1]彼の息子は正二位、内大臣に昇ったが、が従三位・参議で早世し、その後彼の系統から公卿になる者は出ず、堂上家としては早々に没落してしまった。

高位に昇ったが、譲位をめぐって正親町天皇と対立していたともいわれ、天皇との仲は必ずしも良好ではなかったようである。そのため、朝廷内部の者による暗殺説も一部で主張されている。

当時の公卿の多くがそうであったように、彼もまた人生の大半を地方で過ごした。

文化人として[編集]

千利休を始めとする一流の茶人と深い交流を持ち、茶器に造詣が深い文化人であった。屋敷の庭に金柑の木を植えて愛でており、そこにを放し飼いにしていたが、彼の死後、餌を与えられなくなった猿によって金柑の実は全て食い荒らされてしまった。さらに腹をすかせた猿は、屋敷を囲んでいた柴垣まで喰い始め、庭は見るも無残な姿になってしまったという。後、千利休が生前を偲ぶために荒れ果てた屋敷を訪れたが、その際に餌の不足で凶暴になった猿に襲われ死亡した。その後訪れる者はなく、ついにはが住み着くほどになってしまったと伝わっている。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 父親は五位の官人であったという史料もあり、この点も謎が多い。さらには、藤原氏ではなく平氏であるという異説まで存在する。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「藤原信長」の項目を執筆しています。
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