藤原京

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藤原京(ふじわらきょう)とは、飛鳥時代の日本に置かれた都である。日本において条坊制を持つ最初の都城とされる。

あらまし[編集]

白村江の戦いで敗れた日本は唐のような立派な国家体制を整えようと考えた。その一環として都を移すこととなり、持統天皇4年(690年)に新京が着工され、4年後に完成した。唐の都をモデルとし、条坊制が敷かれている。見た目だけじゃダメ、というわけでこの時期には律令編纂などの制度改革が盛んに行われることとなった。和銅3年(710年)、平城京に遷都した。

宮殿[編集]

碁盤目上の街路など中国風の都市づくりを目指して、周礼の記述を基に宮殿を都の中心に置いた。しかし、このような都づくりは現実の中国の都では決して見られない設定だった。中国の皇帝は専制君主なのに、宮殿はそれに相応しく中央に置かれていなかった。

これを基にして、「藤原京は間違っていた。より中国風の都市を目指して平城京への遷都が行われた」という説が存在する。だが、中国の現実の王都のことを飛鳥の官僚たちがまったく知らなかったというのは、残存していない資料は初めから存在しなかったと考える現代の文献学者の思い込みで、飛鳥の官僚がこの説を聞いたら笑い転げるに違いない。

しかし、王宮が中央にあるのは日本オリジナルの工夫と主張すると、天皇がより専制君主にみえてくる。そういえば、周礼は儒学の経典の一つだ。そのため、「持統天皇は中国よりも中国的な宮殿を造った」ことになり、中国からの自立を唱えたい勢力のお気に召さない事態となっている。

歴史教科書のタブー[編集]

藤原京時代は短いながら、日本が律要国家としての体制を整えていく重要な時期であったが、なにより気にかかるのはその名称ではないだろうか。「藤原」の名はその四半世紀前に中臣鎌足が授かり、後に日本史の一大勢力となる「藤原氏」と同一である。ここまで歴史を学んだ者なら「藤原氏と藤原京は何か関係があるのか」と疑問に思うのは当然であろう。

しかし何故か、学校教育における歴史教科書、特に小中学校の教科書では、この誰もが抱く疑問に答えようとせず、華麗にスルーした上で闇の中に葬っている。直前に藤原鎌足という重要人物が取り上げられ、子どもたちの記憶もまだ鮮明であるにもかかわらず、である。そのため、子どもたちの多くが「藤原氏が君臨していたから藤原京」「藤原氏が作った都だから藤原京」といった曖昧かついい加減な憶測を持ったまま、歴史教育を終え、そのうち何割かは一生、正しい知識を教わること無く、その生涯を終えることとなるのである。それが単に歴史教科書の怠慢なのか、あえて子どもたちに間違った知識を吹き込もうとしているのか、それとも何かを隠しているからなのか、様々な憶測が飛び交っているが未だ定説と呼べるものはない。

「藤原」が奈良県橿原市付近の地名であり、「藤原氏」と「藤原京」が共にその地名に由来すること、よって「藤原氏」と「藤原京」の間には直接の関係は無いこと[1]、さらに言えば「藤原京」は歴史学の用語であり当時は「新益京」(あらましのみやこ)と呼ばれていたこと、といった真実は、歴史教科書のタブーとして、(特に小中学校の教科書では)決して触れられることはないのである。

なお、藤原四家の一つである藤原京家も藤原京との関係を匂わせるものがあるが、藤原京家が四家の中で最もマイナーで奈良時代以降一度も歴史の表舞台に立たなかったため、藤原京と違いこちらは誰も気にしない[2]ようである。

脚注[編集]

  1. ^ 当時の藤原氏は数ある氏族の一つに過ぎず、大勢力として政界を牛耳るようになるのはもう少し後の時代の話である。藤原不比等は天上で「この時代から藤原の天下だったと思い込ませてくれてありがとう」とほくそ笑んでいるに違いない。
  2. ^ 愛の兜の武将が藤原京家の子孫を自称しているが、大名になれなかった時点でその実情は知れている。

関連項目[編集]

Wikipedia
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