蕭衍

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「蕭衍」の項目を執筆しています。
見た目はあまり仏教徒っぽくない。

蕭衍(しょうえん)とは、中国の南朝の初代皇帝。諡は「武帝」だが中国に武帝は山ほどいるので特に「梁の武帝」と称される。皇帝でありながら生涯を仏教修行に捧げたことから、皇帝菩薩修行大好き皇帝とも呼ばれる。

即位まで[編集]

蕭衍は斉王朝の蕭氏の一族で、文武の才能に長けて将来の大器と目されていた。やがて雍州刺史となったが、当時の皇帝蕭宝巻は暴政を行って人々を苦しめていた。蕭衍は反乱を起こしてこれを誅殺すると、その弟の蕭宝融(和帝)を擁立、しかし彼は満足せず、これを好機として和帝に禅譲を迫り、斉王朝を滅ぼして梁朝を成立させた。その後例によって和帝はこっそり抹殺されるが、(同族間で革命が行われたこと以外は)ここまではいつもの南朝皇帝だった

修行大好き皇帝[編集]

武帝の治世の前半は、特に変わったこともなく穏やかな日々が続いていた。だが、平和な日々の中で武帝は刺激を求めてしまう。そしてその刺激の源泉を、武帝は当時広まりつつあった仏教に求めた。武帝の仏教への傾倒は日に日に大きくなり、ここから皇帝菩薩として修行に身を捧げる彼の人生が始まったのである。「菩薩」とは仏の修行中の姿を指す言葉である。つまり彼は修行が大好きなのであった。

彼の修行のなかでも最も極端なものに捨て身の修行と称して寺院に身体を捧げるというものがあった。その後家臣が莫大な金額(税金)をはたいて皇帝を買い戻すのだが、こういう「修行」が何度も繰り返されたせいでせっかく安定していた国家財政が逼迫してきた。財政が逼迫すると、それを補うために税金がどんどん高くなっていく。こうして国民全体が彼の「修行」に付き合わされることになった。

武帝「修行するぞ修行するぞ国民みんなで修行するぞ」

こうして国家も国民も金欠になり、ただ寺院僧侶だけが儲かるというシステムが初めて作り上げられたが、修行は修行でも国民だけが苦行をするはめになってしまった。とはいえこれは極端な例で、武帝は菜食のような普通の修行もちゃんとしていたのである。

また、武帝の仏教信仰は政策の上にも影響を及ぼしている。南北朝時代、とりわけ南朝というのは貴族の社会で、武帝も当初は、貴族を要職に据えて政権を運営していた。しかし、仏教を信仰すればするほど、このような身分制度に疑問が現れてきた。かつて仏陀がカースト制を否定したことに倣って、武帝も次第に寒門(下級門閥)出身者を重用するようになっていた。その代表が朱异という人で、彼は平家物語の冒頭部分にも取り上げられている有名人である。

皇帝菩薩と皇帝如来[編集]

南北朝時代は、本来一人しか存在しないはずの中華皇帝が南北に二人存在する時代であったが、梁の武帝の時代には、仏様もまた、南北に二人存在していたのである。一人は梁の武帝「皇帝菩薩」、そしてもう一人は北魏の「皇帝如来」であった。

そのころ、北魏にも仏教は広まっていたが、武帝の仏教信仰とはだいぶ様相が異なっていた。北魏の仏教は一言で皇帝如来と言い表される。同じ仏でも菩薩が修行中の身であるのに対し、如来とは解脱を完遂した姿を指している。北魏の皇帝はわざわざ歴代皇帝の姿を模した巨大な仏像(曇曜五窟)をつくって、皇帝が既に如来であることを世の中に誇示した。早い話が皇帝は偉い如来様で、素晴らしい徳を備えているのだからみんな従えというのである。しかものその皇帝仏像の中には、かつて仏教を大弾圧した皇帝(北魏の太武帝)さえ含まれているのだから都合のいい話である。そこには武帝の「皇帝菩薩」に見られるような仏教への真摯な態度は失われ、ただ皇帝権威を高めるための手段として利用された感さえあった。武帝の「皇帝菩薩」は他称だが、北魏の「皇帝如来」はほとんど自称に近い。

こうしてみると武帝はあくまで「修行大好き皇帝」であって自分を完成された如来などとは思っていない。菜食を堅持し、経典の注釈書を自ら作成するほど、彼の仏教への信仰はひたむきなものであり、むしろ生涯を修行に捧げることが彼の望みだったようである。

解脱への道[編集]

仏教修行に明け暮れた武帝は、もはや並大抵の修行では満足できなくなってしまったらしい。ちょうどその時、東魏侯景というドSが住んでいた。これを聞きつけた武帝は、彼をわざわざ自国に招いてみっちり折檻してもらおうと考えた。この侯景の招聘には前述の朱异が尽力している。ちなみに、この時侯景の取り合いで東魏との間に一時争いが生じた。

武帝「我に七難八苦を与えたまえ!」
侯景「おっす!まかせとけ」

侯景は大軍を動員して武帝を台城に監禁したので、さすがの家臣も彼を取り戻すことは出来なかった。最高の環境の中で、武帝は一身に修行に打ち込んだ。食を拒み続けて、ついに捨て身の修行を完遂した武帝は、齢86歳にして解脱し天に昇った。その偉大なる生涯は朝鮮半島や日本にも伝わり、彼は高名な仏教徒として名を馳せることとなった。

仏教伝播の立役者[編集]

現代ではあまり知られていないが、この武帝こそが、東アジアにおける仏教伝播の大功労者であった。それは彼が熱心に修行したからでも、仏典の注釈書を著したからでもない。全体的に短命な人間が多い中華皇帝の中にあって86歳の長寿を全うし、在位48年という大記録を打ちたてたからに他ならない。同時期、日本には朝鮮半島を通じて仏教が伝えられるが(仏教公伝)、この時格好の宣伝材料になったのが、武帝が仏の功徳によって長寿を得たという事実であった。こうして長寿を願う人々から仏教の教えは魅力的なものとして受け入れられ、勢力を急速に拡大させていった。その一方で、道教の「不老不死」の理想が根強く残る中国大陸では、仏教はしばしば迫害され、その勢力範囲も小規模なものに留まった。

ところで、日本の記紀を紐解くと、初代天皇の神武天皇日本書紀で127歳)をはじめ、上代の天皇の寿命が異常なほど長いことが指摘されている。これは仏教が伝来して崇仏論争が起こった時、梁の武帝を持ちだして仏教を広めようとする崇仏派に対抗して、廃仏派が古代の大王たちの寿命を意図的に引き伸ばしたせいであるというのが、学会の通説となっている。

関連項目[編集]


Upsidedownmainpage.jpg 執筆コンテスト
本項は第33回執筆コンテストに出品されました。