葛藤

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葛藤(かっとう)とは、にまつわる説話の事である。また、それを連想させる感情を指す場合もある。

使用方法[編集]

(紙の)辞書を引いても、例によって分かりにくい説明しか載っていない。感覚的に捉えると、何かしら対立していて、どちらか片方しか選ばない、又は選ばれないという状態について使われる事が多い。よく「矛盾」と使い方を混同されるが、「矛盾」は論理学の用語に対して、こちらは心理学の分野で多用される。

例えば、「今日の夕食をラーメンにするかカレーにするか」は葛藤であり、「今日の夕食はラーメンであり、カレーである」は矛盾である。何故ならカレーとラーメンは恐ろしく食べ合わせが悪い上に明らかに炭水化物過多であり、よほどの過剰食欲保持者でない限り一度に食べる事は無い。故に論理的に考察すれば、「今日の夕食」がラーメンであると同時にカレーであるというのはありえない。これが矛盾である。また、「今日の夕食」がラーメンになるかカレーになるかは完全に人間の心の動きに関連する問題であり、こちらは葛藤を用いるのが適切である。

起源[編集]

ここからは、葛藤という言葉ができた由来を解説していく。

序幕[編集]

太古の昔、葛と藤という植物が地上に同時に生まれた。葛と藤はどちらも蔓を伸ばしていく事で生きていくスタイルの植物だった。ここから既に、葛と藤とは共生関係に無かった事が窺える。だが、この時代の葛は秋、藤は春と、生息する季節が分かたれていたため、平和な時が流れていた。

事が起こったのはいわゆる運命の何とやらが原因である。ここでは問題の発端であるトリックスター的犯人に詳しく触れる事はせず、ただ彼の(いつもの)気まぐれによって全ての歯車が狂った、という事にだけ言及しておく。

始まり[編集]

ある年、上述の誰かさんの手によりその暑さが抑えられ、夏は程良く涼しくなった。それは秋に最盛期を迎える葛にとっては嬉しい誤算であった。生物の性に従い、葛はいつもより早くから花を咲かせ、生命の神秘の行為に励む事になった。帳尻を合わせるためなのか、冬が例年より早く訪れたが、通常より非常に多くの子作りをできた葛は十分だとばかりに枯れ、種が芽を出す事を夢見ながら眠りに就いた。

事件の幕開けはその次の春の事だった。寒さを凌ぎ、待ってましたとばかりに藤が芽吹く季節だ。だが今回は一つだけ異常があった。春が例年より涼しかったのである。一時は騒然となった藤だが、よく見てみると涼しいとは言っても、自分達が繁栄するのに支障を来たすようなレベルではなかったため、単なる誤差として見做された。

だがここで問題が生じる。葛である。葛は前年の夏にハッスルし過ぎ、その結果撒き散らされた種は次の秋までその生命力を抑える事を強いられていた。思春期に入った中学生の若さを強制的にシャットダウンしようとする事を想像して欲しい。いかにこれが不安定な状況だったかお分かり頂けるだろう。そのような状態に、例年より気温の低い、葛にとっては快適な気候の春がやってきたのである。火を点けられた火薬が爆発するように、葛の溢れる精力はここぞとばかりに爆発した。


蜜月とその崩壊[編集]

この春の藤と葛は異常な勢いで繁茂していった。しかし、当初彼らは何も気にしていなかった。むしろ同じ蔓性植物という事で親近感を抱き、友情さえ芽生えた程である。彼らは急速に仲を深めていった。その先に何が待っているとも知らずに。

何かがおかしいと彼らが気付き始めたのは、彼らが芽の状態から育っていき、蔓を伸ばすような時期になってからだった。両者の中でも成長の早い者達が、蔓を巻き付ける場所を争い、死傷者が出たのである。この知らせは、蜜月の最中であった藤、葛両陣営を瞬く間に駆け抜けた。しかし互いに信頼関係を構築していた両者共に、何かの間違いだろうという見方が多数であった。

これが崩れ出したのが、本格的に芽が蔓を出す頃合いである。両者にとって致命的な問題が、浮き彫りになった。

確かに葛も藤も、共に蔓性植物ではある。しかし決定的に異なる点がある。それは巻く方向だ。藤は右巻きであり、そして葛は左巻きであった。

少し考えれば誰でも分かるが、一本の支柱に巻く向きの違う蔓が絡み合うと、必ずどこかでぶつかってしまう。つまり藤と葛は、互いに共存する事は最初から出来ない運命だったのだ。今までは生息時期が違ったためにお互い気付かず、またそれで何の問題も生じなかったのに、運命の悪戯はそこに無用な衝突を生み出したのである。なまじ両者とも親密な関係を築いてしまっていたがために、その苦しみはより深く、辛いものとなったのは言うまでもない。これは掛け値なく、一つの悲劇である。

もし、出会い方が違っていたら。もし、同じ蔓を巻く植物でなかったら。もし、季節がそのままであったなら。もし、蔓を巻く方向が同じだったなら。もし、個体数がずっと少なかったら。

しかし全ては起こってしまった。疑いようもない、これは悲劇である。

どちらかが、その生存を諦めなければならない。けれども、それはそう簡単な話ではない。周知の通り、おしなべて生物とは自らを存続させようという使命を負っている。葛も藤も例外ではない。つまり成長を捨てるという事は、生命の本能に抗うという事を意味する。そんな決断が容易であるはずがない。だが、自らを通せば友の命は潰える事になる。自分の本能を貫こうと思えば、自分の友情、ひいては良心さえも踏み躙らなければならないのだ。双方にとって、この選択がどれほど苦しいものだったかは想像に難くない。

結末[編集]

結論から言えば、自分の使命を曲げたのは葛の方であった。葛は藤の下を去った。藤は友を失くした事への悲しみと、犠牲となった葛への謝罪から、常に頭を垂れ続ける事にした。藤の花が垂れ下がっているのはこのためだという。また、葛が10メートル以上も蔓を伸ばすのは、遥か遠い昔の思い出を探しているからだという説も存在する。

当然の解決だったのか?[編集]

では、最初から葛がその身を犠牲にすれば良かったのだろうか?確かにその季節は春であり、本来ならば藤の時節である。折れるべきは葛であるという理屈は正しいのかもしれない。しかし繰り返しているように、事はそのような簡単な問題では無かったのである。自分に課せられた本能の命令を放棄した葛も、また短い関係ではあったものの無二の親友を喪った藤も、どれほど心を痛めただろうか。どれほど悩み、苦しみ抜いたのだろうか。我々には想像する事しかできない。だが、想像する事はできる。余程他人の気持ちが理解できない者でない限り、その感情がその心に想起される事だろう。このやるせない感情を、この物語の主役に因んで葛藤と呼ぶ事になった。

関連項目[編集]