茨木長隆

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茨木 長隆(いばらき ながたか)は、細川晴元の腰巾着の一人。摂津国の有力土豪の一人で、三好元長に抜擢されたことで栄達した。しかし長隆は恩を忘れてその元長を晴元と共にないがしろにしたり排斥を画策するなど散々に苦しめ、戦死に追いやった。また、一揆を煽動し、京都を血で血を洗う生き地獄にしたA級戦犯の一人でもある。

人物[編集]

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長隆登場の時代背景[編集]

16世紀初頭の畿内は、応仁の乱によって秩序体型が崩壊し、有力守護や豪族らが割拠して権力を奪い合い、混乱を極めていた。そんな中、政敵の畠山氏を退けて台頭してきたのが細川京兆家であったが、後継問題で揉めた上に、その権力抗争で畿内に幾度も戦火を巻き起こしていた。

1527年には、その抗争の中心人物であった細川晴元はまだ若年だったが、天敵の細川高国との抗争に勝利。高国を幕権の中心から遠ざけた。

ただ、父の代から高国と争ってた晴元には、それまでに喪失してた人材の補充も出来てなかった。そこで晴元の配下であり、人材確保の為に奔走してた三好元長により目を付けられたのが、摂津の豪族茨木氏の当主長隆であった。奉行人に抜擢された長隆は、その才覚を発揮して出世、晴元の側近として重用されるようになるが、いつしか恩人である元長を凌ぐ権勢を獲得し、デカイ面で晴元連盟の中核を闊歩するようになった。

晴元派の内輪揉めと、外敵[編集]

更に、元長が丹波の豪族柳本賢治波多野種通らと対立し、柳本や波多野が細川晴元に元長を讒訴して排斥する運動を起こすと、こともあろうに長隆は柳本や波多野に荷担して元長を糾弾し、憤慨した元長は領国阿波に帰ってしまった。

その元長の帰国に反応したのが、都を追われて雌伏していた、あの細川高国。播磨あたりで捲土重来を期して、手始めに刺客を放って柳本賢治を暗殺するなど、晴元の戦力を削いだ上で、合戦を仕掛けてきたのである。

長隆も賢治同様刺客を差し向けられたらしいが、逃げ脚が速かったので凶刃の回避に成功した。ちなみに長隆が刺客に襲われたのは、賢治が刺客に殺されるより以前で、長隆は賢治の下にも刺客が向けられていることを知っていたようだが、「自分さえ逃げられればどうでもいいや」と思っていたのか、あえて見殺しにした。このように、長隆は仮にも武士を名乗るにはあまりにも不甲斐なく、信義に反した行動も多かったが、こんな人物だからこそ混迷の戦国の世で台頭できた。

窮地[編集]

意外に強そうだという高国の逆襲に、晴元や長隆ら連盟の首脳陣は皆狼狽した。落ちぶれたとは言え、未だ高国は名目上の管領であるため、いくら晴元連盟が武力で勝っていても“賊軍”と扱われる恐れがあり、非常に厄介である。もし京都で復権されれば、晴元連盟はホントの“賊軍”に成り下がっちゃう訳で、味方の離反に繋がりかねない。そこで頼みの軍事力ですら逆転されようものなら、再逆転なんて絶望的である。

半泣きの晴元からの命令とはいえ、積極荷担で排斥させた元長の四国まで赴き、平身低頭して帰参を哀訴せねばならない長隆。身勝手に冷遇しておきながら、あまりに情けない。それでも元長の連盟復帰を成功させた。ただし、抜擢してやった恩を仇で返した長隆に含むところが当然あった元長からは、「帰参して欲しければ俺のAssを舐めろ」などと侮辱的な要求を突きつけられたようだ。表面上は元長の承諾を取りつけ、円滑に解決したのだが、そんな事を他人に言える訳がない。内心では、元長への憎悪を一層、駆り立てた。

高国との決戦は、元長の奮戦で半年近い膠着化に持ち込むと、高国派だった赤松政村の裏切りを促して晴元らの圧勝に終わった。『大物崩れ』と呼ばれる この合戦で、かつては畿内で絶大な力を振るった高国は、挟撃された混乱の本陣から、ほうほうのていで遁走した挙句、尼崎の商家にて壷の中に隠れていたところ、町の子供に自身の篭もってた壷の中に小便をぶっ掛けられたのに驚いて飛び上がったところを発見されてしまい、捕縛されて腹を切らされるという無様な最期を遂げた。なお、この合戦で長隆が活躍したという痕跡は特に見られない。

再度の内輪揉め[編集]

摂津の国人から台頭した長隆は、同じ摂津の土豪達を統率、管轄する役目を担当していた。その摂津の土豪達は徹底的な状況主義者で、風向き次第で裏切りも平気でやらかす節操のない連中であり、コイツらが裏切り行為をやらかせば、統率している長隆が譴責される羽目に陥る。そもそも晴元を慕って味方となったというより、「高国のアホの下じゃ、やってらんねー!!」と飛び出してきたバカ共である。そこで「こっちもアホやん」と足元見られりゃ、再び離反されかねない。先の『大物崩れ』だって勝ったとは言え、裏切り癖のあってアクの強い摂津の豪族たちには、離反など好き勝手されても不思議はなかった。そんなバカ共の統御責務を負わされた為に艱難辛苦を味わったという長隆からは、現代にも繋がる中間管理職の悲哀が伝わってくる。

長年の敵であった高国を滅ぼした晴元が正式な管領に就任したことにより、ようやく『単なる連盟』から『正規の政権』に昇格した晴元たち。しかし、高国憎しの一点で同調しただけの連盟だったんで、それぞれの主義や利害には違いがあって当たり前。共通の外敵が居なくなった途端、そんな連合政権の基盤には たちまちヒビが入り、問題を再び噴出させている。

『長隆ら摂津の国人(摂津派)と、元長ら阿波の国人(阿波派)という対立の顕在化』である。かつて元長と対立した柳本賢治にしてもそうだが、畿内の豪族達は、晴元の直属軍とも言える古参の元長ら阿波の豪族に対して基本的に田舎者扱いして見下す風潮があり、両派の険悪化を招く一因にも成っていた。

そんな中、『大物崩れ』の戦功によって台頭した河内の守護代木沢長政が、守護畠山義尭と仲違いして合戦騒ぎとなるが、晴元が木沢に肩入れした一方、義尭・元長がこれに反撥したことで政権上層部を割ったのが、状況の深刻化に繋がった。このドサクサに紛れ、かつて対立した柳本賢治の遺児を殺害した元長の行為も、晴元の怒りの炎に油を注いでおり、両者は一触即発の様相を呈した。

摂津派の親玉であった長隆は、元長を敵視、蔑視する摂津の豪族一同からこの機に乗じて元長を粛清するよう炊きつけられる。何より、晴元のイエスマンだったので、部下から催促されずとも唯々諾々と晴元に追従。やがて晴元と腰巾着たち、それらと対峙する義尭・元長らの全面戦争に及ぶ。

謀略と、その余波[編集]

畠山と木沢の主従戦争で、抗争の幕が上がる。畠山の上意討ちへの加担により、邪魔者の木沢を血祭りに挙げれば、少しでも政権内での敵対者を減らせるという元長。すると当然、籠城の木沢から泣きつかれる晴元派。

しかし、長隆にしろ摂津衆にしろ所詮、元長を妬んで嫌っている連中の集まりである。決戦『大物崩れ』ではクソの役にも立たなかった烏合の衆なのだから、元長を相手に正面きって戦う分の悪さを重々承知しており、盟主の晴元なんて最初からビビリまくっていた。

ここで一計を案じたのが、本願寺との人脈を有してたという長隆。
『法華宗の象徴のような三好元長との対決なんだから、一向宗は こちらの要請に応じるんじゃね?』なんて希望的観測である。それが珍しく当たる。裏工作による援軍要請を承諾した本願寺の証如が飛ばした檄に、3万近い衆徒が集まった。衆徒の凄まじい猛攻に畠山、三好の軍勢は壊滅し、義尭は討死。肝心の元長は和泉の顕本寺に逃げ帰るも切腹した。まさに計画通り。ただし間接的であっても長隆は、恩人を殺したも同然である。

ただ、事はこれだけに収まらなかった。勝ち戦に増長した本願寺の衆徒は、『何なら他宗派もヤッちまおう!!』と他国へも転進。大和では鹿を食い荒らすなど暴走して、手当たり次第に権力者達に襲いかかった。それに呼応する形で農民らも蜂起し、畿内は阿鼻叫喚の巷と化した。全ては、衆徒の怖さを見誤って安易に頼った長隆が やらかしたことであった。

当然のことながら、『己はアホか!!』と先程まで褒めちぎってた晴元から追及された発案者。そこで追い詰められた長隆は「毒をもって毒を制す」作戦を考案した。その作戦とは、武装した日蓮宗の門徒を中核とし、畿内で規模の大きい軍事力を保有していた「法華一揆」の連中を煽動し、一向一揆と潰し合わせることだった。長隆の策略は、一向一揆の力を沈静化させるという多大な成果を実らせたが、一方で畿内で民衆同士が殺戮するという大惨事を齎した。またこれに付随する形で掠奪も横行し、畿内は悲惨なほどに荒廃した。全部、浅はかな長隆のサル知恵のせいである。

凋落期[編集]

長隆があれこれ策略を巡らせ、辛うじて保持した晴元政権だが、その後は坂道を転げ落ちるように衰退した。政権内部から台頭する者に睨みを効かせたい晴元が、そいつらを粛清した結果、政権全体の弱体化に繋がってたのである。

長隆と同様に謀略家ながら、ハンパ無いやり方から“鬼畜”呼ばわりされてた木沢長政を危険視。終いには発狂して晴元に噛み付いちゃったんで見限り、1542年には皆でフルボッコの末、自爆同然の最期に追い込んだ。他にも、元長の遺子三好長慶を抑制しようと試みる。ところが、この長慶に政権離脱されたのが痛恨事だった。1549年の『江口の合戦』で、長慶に敵対し続けていた三好宗三なんかに肩入れした為に大敗、晴元政権は事実上崩壊した。

衰亡してゆく晴元政権の窮地なのに、その智謀を発揮して巻き返しを計った形跡は特に無いという長隆。愚にもつかない姑息な策を弄しては失敗し、晴元から譴責されるばかりであった。そんなカス策ばかりでは、以前の一向一揆扇動の献策だって長隆独自の発案だったのか、怪しいくらいである。

長慶にとっては亡父元長の恩を仇で返した上に、討滅させた仇敵であり、自身にとっても長年の確執相手である長隆は、仇討ちリストの上位にランクされる一人であった。当然、ただでは済まないものと思われたが、どういう訳か、助命された。

この後、晴元にも愛想を尽かされ、その後は史料にも姿を見せずすっかりフェードアウトしてしまう。没年すら不明だが、おそらく路上で野垂れ死んだに違いない。賢い長慶は、こうした惨めな末路を見越して、使い物に成らない長隆を助命したのかもしれない。

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