致死的退屈症

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索
Upsidedownmainpage.jpg 執筆コンテスト
本項は第16回執筆コンテストに出品されました。

致死的退屈症(まっっったくおもしろくない)とは、アンサイクロペディアのそこかしこで散見される最も治癒しがたい病気である。なお、アンサイクロペディアで散見されるということは、もちろんウィキペディアのほうがひどい。とてつもなくひどい

しかし、世間一般にウィキペディアならたとえ退屈だとしてもいいじゃないかという意見もあるかもしれないが、それを通り越して、すでにウィキペディアだろうがなんだろうが、ひどいものはひどいという境地に達している。

この記事では、運が悪いと死ぬことすらある退屈菌に冒された連中の(はらわた)をぶちまけることで、「ああなってはいけない」「その道に進んではいけない」「それじゃまるでウィキペディアンだろ」、といった内容の警句をアンサイクロペディアに伝える。ウィキペディアを手本とすることで。

概要[編集]

多くの人が誤解していることだけれど退屈とは死にいたる病である。致死的退屈症の致死という言葉は伊達ではない。正確に言うと、退屈を消化できない連中が退屈にすらプレッシャーを感じて押しつぶされるという、書いている方もワケが分からない事実が、致死的退屈症を発症させる退屈菌に冒されたキャリアから散見される。

孔子の言う「小人閑居して不善を為す」という言葉は、退屈でやることもなくなったから何か悪いことでもやろうかという、ごく一般的な死へ至る旅路の光景を描写している。さらに言えば、退屈や余暇から有益なことを生み出そうなどというたわけた精神の持ち主が世界中から寄り集まったのが、ウィキペディアである。

率先して不善を為してやろうと、虎視眈々と牙を研ぐアンサイクロペディアとはまったくもって好対照である。

ウィキペディアの惨状[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「Wikipedia:井戸端」の項目を執筆しています。

そもそも退屈とはいったいなんでできているか。その説明を簡単にするために、ウィキペディアへのリンクを一つ用意したいと思う。右にあるリンク先にあるのは、一般的に「井戸端」と呼ばているウィキペディアンたちの議論の場である。中身はしごく真っ当な議論であり、一つ一つの話題に参加者たちが真剣に取り組んでいることは明々白々。いたって何の問題もないように見える。

しかし、実際にマジメに読んでみれば退屈というものがいったい何で出来ているかがよく分かる。また、マジメに読まなくても、長大な記事を読むにつれ、徐々に心がプレッシャーで押しつぶされそうになるのが分かるだろう。実際、一つ一つの問題がウィキペディアのルールに精通した人によって理路整然と語られており、不明な点を質問した人とのちゃんとした会話や、真っ当な意見に対する多くの賛同、さらに一部の批判的な意見にも、根気強く、粘り強く対応している様が見て取れる。しかし、全ての質問と回答において、残念なことに、決定的に欠けているものがある。

初見の人間を誘導する力。もしくは意識。

まぁ、基本的にはウィキペディアのルールについての話し合いの場である以上、ルールの隅から隅まで、システムの端から端まで頭に叩き込んだ人々による初心者に対する機械的な誘導が根幹にあるため、ニンゲンカンケイに疲れないためには必須な行動であり、積み重ねてきた経験による行動である以上、なんら問題はない。

なんら問題はない。・・・けれど、いかんせん、ウィキペディアに興味のきょの字も持ちゃしない連中が、あんな文章読んだら何を言ってるんだかさっぱり分からなくなる。これは否定しがたい事実である。そして多くの人間がその胸中に感ずるのは、自分の知らない学問の専門書をそらんじているような、もしくは、自分のまだ食べたことのない国の料理を前にして、さぁどうぞめしあがれと促されるような、そんな不安感である。

未知というものが与えるプレッシャーよりも、機知であるはずのものがワケが分からなくなっていくプレッシャーのほうが、初心者が誘導されやすい。読めるけれど分からない専門書や、食べられることしか分からない料理、そして日本語であるはずなのに、心が理解を拒否してくる「同じような表現しかできやしねえ未熟なWiki文法」といった、落とし穴は、これからも多くの被害者を生み出し続ける。

そして退屈とは、そんな不安感からの逃避である。

脳内[編集]

不安感を回避する人間の脳の働きとは、人の本能に理解しがたい何か拒否する機能が備わっている証明でもある。それはいい。当たり前。どうってことない。問題は、そういった人体の働きをまったく無視して文章を書く、もしくは記事を作成することは、すなわちアンサイクロペディアにおける罪悪である。理解できない文章を延々と垂れ流し続けることで、人間を退屈させる。少なくとも、ユーモアとジョークを根幹とするサイトでは死刑、もしくは確実に追放とされてもおかしくはない。

てゆうか、普通にやっている。

それが出来ないウィキペディアで何が起こっているかは、想像にお任せする

しかし、ウィキペディアでもアンサイクロペディアでも、そういった脳内の安全弁を自らの意思で取っ払って、理解しがたい何かに挑む連中がいる。読んでるだけで満足できなかくなった、もしくは元から創造することに拒否反応を示さなかった連中が、退屈な文章からの逃避を決行した事例は幾つも存在する。退屈に直結するクソ面白くなく、その上、読み手を不安にさせる記事に命がけで挑みかかり、面白い記事に改変させる。そんな伝説的な事例は確かに存在するのである。

けれど、表現者としてはここまで来て、ようやくスタートラインと言える。

が、その結果として、井戸端において人々を退屈の海に放り投げて溺死さそうとするんだから手錬れのウィキペディアンというものはは始末に終えない。あわせて、初見の人間から不安を取り除こうとせず、退屈菌をばら撒くだけのアンサイクロペディアンの皮をかぶった何かもまた困ったものである。

元ネタ[編集]

せっかくなので、元ネタをお聞きください。

退屈の中身[編集]

なお、ウィキペディアの井戸端や、多くの記事にあふれている「脳が拒否する何か」もしくは「不安感の根本」とは、まず第一に「ろくでもない分量」。次に「かみ合わない会話」。そして最後に「大量すぎる専門用語」。この三点が複雑に絡み合って、とてつもなく巨大な理解しがたい何かを形成している。さらにそのほかにも「荒らし」や、「権力闘争」といった見るからに不快な気分を催すスパイスが散見され、読む側の目の前には橋のない川が滔々と流れることになる。

それはすなわち、この急流を泳ぎきって向こう岸にたどり着いた人間だけがウィキペディアンの仲間入りを果たせるという実に簡単な選別の方法である。それを乗り越えて、多くのウィキペディアンが優良利用者となり、管理者になっていくのでしょう。

まったく知りませんが

しかし、その急流に飲み込まれて溺れていった連中の数と、急流を前にしてさっさと帰った連中の多さは100倍では効かないでしょう。それもまた、ウィキペディアというものの縮図でもあるわけで。

結局のところ、読む人間のことを考えずに、常在する利用者たちのみを対象にページが形成され、日々その壁をうず高く積み上げる様は、もはや井戸端などと呼ぶべきではなく、むしろ殺生石の側で、瘴気を感じることもできない連中が、喧々囂々の議論が為されている。そんなレベルである。とりあえず、「鳥も動物も一般利用者さえも近づいたら死ぬ」。あの場所はもう呪われてしまった。もしくは腐海に沈んだとみたほうが妥当である。そして、ウィキペディアで散見される腐海の毒は、アンサイクロペディアにもその胞子を飛ばしている。

ここでネタばらし[編集]

ここまで何の疑問も持たずに読んできた皆さん、お疲れ様です。いきなり、この項目から読むリズムを転調させます。わっかりやすく言うと、口語文にします。

というのも、上記の文章には、アンサイクロぺディア的に退屈に直結するいくつかの要素を仕込んだからで、中でも「マニアすぎるネタ」や「いじりすぎた言い回し」なんかは一発で分かりますね。さらには「自分勝手な決めつけ」をそこかしこに配置し、読み手のことを置き去りにしたまま、

「やっべ、面白そうなことが書いてあるのに、ぜんっぜんわからねえ」

もしくは「いや、分かるけど、うん、分かるけど、ここでそれを書くかぁ?!」とかいう、

マニアックな話すぎて読み手がわけがわからなくなる→知らんことを延々と語られる不安感からの逃避→退屈という、これまたアンサイクロペディアにはよおおおおおおおおくある、ありすぎる、読み手を退屈させる方程式をそのままなぞっとります

・・・もっとも橋のない川大・爆・笑されたら、それはそれで怖いけどね。

なお、分量については、この記事全体を悪化させる恐れがあるため、適度な調整を入れています。ネタ的な話で言えば、殺生石関連で、ウィキペディアに巣食う九尾の狐ならぬ九尾のジミー・ウェールズぐらいまでは、普通にネタとして攻撃できる範囲内に貼りますが、文章が長くなるのでぶった切ってます。

あわせて、井戸端うんぬんの文章の総意については、なんら問題はありません。一切合財悪意である以上、なんら問題はありません。なんら

以上、いきなりの口語文終了。

アンサイクロペディアにおける井戸端[編集]

ウィキペディアを説明した以上、アンサイクロペディアにも切り込まないといけない。

もっとも、上記にあげた三つのアンサイクロペディアにおける退屈は、あくまで「ちゃんとした文章が書ける」という前提に基づいたものである。そのレベルに満たない記事の退屈さは、これまたまったく世界が違う話である。

そのため、この項目ではまず、面白い面白くない以前の、文章としてちゃんとなっているかを焦点に話を進める。取り上げるのは、井戸端と同じく「分量」、そして、かみ合わない「ネタ」。最後に「自分だけの世界」の三点である。そして、これら全てにおいて井戸端と共通する不安感の源、初見殺しが見え隠れしている。

分量[編集]

まず、分量について、アンサイクロペディアの初版投稿時に2000バイトを切っている記事が、初見の人間を満足させるなんてことはまずない。1000バイトを切っている段階で、多くの人間が読むことすら放棄。もし、このレベルの面白い記事、もしくは削除を免れた記事を書けたとしたら、アンサイクロペディア的には大威張りできる。それぐらいに難しい。ということはすなわち、見た事も聞いたこともない投稿者が1000キロバイトを切る記事を書いても、ほとんど誰も読んでいません。むしろ、読みません。しかし、多くのアンサイクロペディア初心者たちは、投稿さえすれば、アンサイクロペディアに来た人間全員が自分の記事を読むなどとクソたわけた妄想に取り付かれている場合が多い。そして、たかが原稿用紙1~2枚しか埋めることのできない才能をなるたけひけらかそう認めさせようと100バイトに満たない加筆をチマチマ繰り返す。

いつものよくあるドツボですね。毎日の光景です。

それで記事も本人も生き残れるんなら世の中は苦労しない。1000バイトから2000バイトの記事に足りないものは、基本的に文章の長さではなく「項目」の数であり、項目の数というものはすなわち「ネタ」の料理する技術の数、もしくはネタの入った引き出しの数、さらに言えば、ネタからネタを派生させることのできる本人の力量である。

そして、ネタ自体が足りなかったり、それを料理する技術に欠け、力量不足のアンサイクロペディア初心者を待っているものは、アンサイクロペディアに巣食う笑いに餓えた餓鬼たち。彼らにとって構成や多くのネタを挟む余地のない短文なぞは、まさに歯牙にもかけない、歯糞にもなりはしない、すなわち、まったく笑えない記事でしかない。もしここがウィキペディアであったならば、そんな記事だとしても「真実」その一言で安全と命が保障されるのだろう。

けれど、残念ながらここはアンサイクロペディアである。残念であること以上に、うれしいことに「Here is Uncyclopedia・・・Oh,Shit!God Damn!Fuck!Bitch!Nuts!

かくて哀れなる短い記事たちはNRVICU、ひどい時には即時削除を貼られたまま地獄へ落ちるのである。・・・大きく訂正。よく考えるとアンサイクロペディアの方が地獄でした。哀れなる記事たちは、さして面白くもない現実社会へと放り出されるのである。

幸せなアンサイクロペディアでは、クソ短い記事しか書けない致死的退屈症患者が死ぬことはありません。人も面白くもない記事も死にません。ただ、創造主たる書き手のプライドと存在感、そしてこんなクソサイトに関わった無益な時間でのみ、即死します。即死させます。

実に平和な光景ですね。

ネタ[編集]

面白いネタは世界中にいつでもどんなときでも転がっている。これは紛れもない事実である。しかし、それをひとたび文章にして、初見の人間に見せよう、読ませようとしたとき、果たしてそれが読むに耐えうるレベルの存在になるかといえば、かなり微妙である。むしろ、ネタの面白さというものが100点満点のうち1~50点まであるとすれば、書く側の技術は-50点から50点までと幅広く存在し、どんなに面白いネタであっても、書き手の技術如何であっという間にマイナスの領域に突入してしまうからである。

そして、残念なことに致死的退屈症患者とは、ネタうんぬん以前に、技術そのものを持たない場合が多い。多すぎる。日本語をマトモに書けない段階で、どんな面白いネタを記事にしたとしても、それは退屈な時間消耗機でしかない。あわせて、アンサイクロペディアに徘徊する笑いの餓鬼たちは、平凡なネタになんぞ見向きもしない。面白いかどうか以前に満足できるかどうかをまず記事のバイト数で判断し、入った後は記事の項目数で書き手のレベルを確認。そして最初の一文で、書き手の日本語能力を吟味して、ようやく記事を読もうとする。

その上で、少しでも笑えないと判断したら、即座に読むことを放棄する。

実に、精神衛生上正しい行為である。面白くないものは面白くない。結局のところ、現在のアンサイクロペディアでは、残念ながらネタ本来の面白さで勝負できる傾向がほとんどない。そもそも、誰でも知っている面白い記事が生き残れた時代は過ぎ去り、今は誰も知らない記事か、もしくは誰でも知っているけれど、切り口は新しい記事、何よりも、記事の体裁をしていなければ、すなわち記事ではない。

ネタと技術とWiki文法の常識の三点を持たなければ、そもそも、退屈と思わせる以前に死に到っている。

実に実に、精神衛生上正しい姿ですね。

技術[編集]

ネタの話になったついでに、口語文で少し脱線。・・・少しじゃなくても気にするな。

とりあえず、素材選びの方法については幾つも存在しているのだけれど、書く技術については、むしろアンサイクロペディアに書き込む段階でレベルが打ち止めである場合が多い。そもそも、本人の書く技術が向上したとしても、それが読んでいて分かることはまずない。

・・・大きく訂正。書く技術が向上することが分かる場合がある。けれど、本人のレベルアップが分かるレベルの書く技術というものは、句読点の打ち方てにをはの使い方レベルの話である。すなわち、日本語うんぬんやら、Wiki文法の話である。文章を書く際に重要となる、「文章の構成」や「ネタの仕込み」、さらには記事を見返しながらの「細部の手直し」といった、笑わせる技術ではなく、読ませるために絶対に必要な技術をアンサイクロペディア初心者の記事を読んでいて感じることはまずない・・・いや、少ない

あわせて、アンサイクロペディア的に手錬れと見られる第一歩は、「どっからそんなネタ仕込んでんねん」と読む側を呆れさすところから始まることも、いちおー明記。いっちおー。

自分だけの世界[編集]

この項目はいきなし口語文を使用して哲学的な話から始める。覚悟しやがれこんちくしょうめ。

自分というものが何をもって出来ているかは、各人それぞれで考えてくれ。とりあえず、自分の世界てえものが、どんな外周で固められているかってえと、他人の世界である。あったりめえだんなこたあ。

で、自分だけの世界てえものと自分の世界てえものの違いはってえと、自分の世界には、他人が入れる。むしろ、入る余裕がある。入らせる場所がある。けれど、自分だけの世界には、その余裕がない。「だけ」という言葉の持つ意味はそういうこった。むしろ、往々にして他者が入りたくない。特に、そこに「」がからむと、余計に入る気がしない。「狂気」だったらなおさらだ。

しかし、往々にしてそんな記事に入らざるを得なくなった場合、多くの人間が嫌で嫌で仕方がないと感じる。もっとも、この嫌悪感は不安感と違い、致死的退屈症にはつながらない。むしろ、もっとひどい意識につながる。

殺意、という。

アンサイクロペディアの記事を読んでいて、記事を書いた側ではなく、記事の対象にまで殺意が及ぶようなことがあれば、それは書き手にとっても、記事にとっても不幸な話である。ウィキペディアにはそういった記事が大量に存在する。特に、単に対象を調べたいだけの人間にとって、5万バイトを越える記事を作成するような連中は、愛に狂った寄生虫と見ていい。

そんな連中が増えれば増えるほど、作品自体が倒れる。作り手も倒れる。日本語版ウィキペディアすら倒れそうになっている。このような症状は、致死的退屈症の変異した病気であり、別名「致死的ウィキペディア症」と呼ぶ。

致死的ウィキペディア症[編集]

致死的ウィキペディア症については簡潔に述べるにとどめる。

初心者を世界からはじき出すには、莫大な情報を与えるに限る。愛があればそれを消化するのも簡単なわけだけれど、愛ではなく興味を持ってくる人間にとって、その莫大な情報は5%の有益な情報と95%のクソで出来ている。

日本語版ウィキペディアにある多くの記事のうち、長文になればなるほど、その記事の95%は紛れもないクソで出来ている。愛にまみれたクソで出来ている。

作品に興味を持った人間を逃亡させる、大変に有効な方法である。

治療法[編集]

この文章には、拙いながら、致死的退屈症を避ける意味での「技術」、「経験則」のいくつかを埋め込んでいる。もし、Wiki文法で文章が書けるようになったのならば、以下に述べるいくつかの技術を文章内に埋め込んで、読み手の心に不安感を抱かせないような文章を書いてみるといいかもしれない。ただし、書き手が狂ったと思われる可能性が高いため、「転調」だけは手を出さないこと。

  1. 構成・・・記事をいくつかに分割し、読みやすいように組み立てること。
  2. 仕込み・・・記事の中でネタ振りをして、記事内でそれを拾うこと。
  3. 比較・・・アンサイクロペディアに対するウィキペディアのように「例示」をすることで、読み手の意識を記事に集中させること。
  4. Wikiシステム・・・外部リンクや太字など、Wikiというプログラムに存在している技術を有効利用すること。
  5. 転調・・・書き手の持つ文章のリズムをわざと崩すこと。そうすることで、読み手の意識がリセットされるので、そこからまた文章を組み立てなおすこと。
  6. 重ね・・・語彙、もしくは短文を重ねて書くことで、オチを強調すること。
  7. 飛ばし・・・マニアックなネタ、難しい話をところどころに仕込むことで、逆に飽きさせないこと。
  8. 嫌がらせ・・・こういう話を、わざわざ長文の一番最後のほうに書き込むこと。
  9. しつこさ・・・しかも、こういう話をわざわざ繰り返すこと。
  10. 知るかボケェ・・・いくつか回収できていないネタや伏線を無視すること。
  11. 知るかクソッタレ・・・実は致死的退屈症ってのは、ミヒャエル・エンデの名作「モモ」に出てくる病気のことなのだけれど、ガン無視すること。
  12. 過ぎたるは・・・上記の技術をてんこ盛りにした結果、逆に文章が飛び跳ねすぎ、読んでて飽きること。
  13. 及ばざるがごとし・・・記事の収拾がつかなくなったとしても、こういう記事は珍しいからいいやっと開き直ること。
  14. 手直し・・・履歴を参照のこと。

関連項目[編集]

ウィキペディアへのリンク[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「千夜一夜物語のあらすじ」の項目を執筆しています。

とりあえず、この項目では、ウィキペディアの記事から読み手の心に不安感を大量に生じさせる長い記事へのリンクを一つ用意する。

なお、確実に、ウィキペディアナンバー1のバカ記事である「政教分離の歴史」を単に越えたいがために記事が製作されてるようにしか思えないのは、気のせいではない。ついでに、そこがウィキペディアであるならば、読むのに1000夜かかる物語の一つ一つのあらすじを克明に記すこともいとわない。読み手の気持ちもいとわない。世界中のどのぐらいの出版社が関わっているかも気にしない。それが真実であれば。そして、そこがウィキペディアであるならば。

実はバカだろ、ウィキペディア