脇坂安治

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脇坂安治(わきさか やすはる)とは、賤ヶ岳七本槍の末座で光る燻し銀。処世、狡知に長け、人を化かす獣テンの化身と呼ばれた。あの大谷吉継の祟りをものともしなかったすごい漢である。

代表的な勇姿

出生[編集]

近江の土豪脇坂安明の嫡子として生まれる。15歳の時、父安明は観音城攻めで戦死し、家督を継承する。この父から安治は乱世という荒海を器用に泳ぐ遊泳術を教わった。

功利と仁義、忠誠と変節、慈悲と無情、人の性は相反する要素をいくつも内包している。この乱世を生き抜くには、その相反するものを良い塩梅で使い分けねばならない。利に固執して義を疎かにすれば人心を失うし、義に固執すれば大局を見誤ると安明は言った。この安明の教訓はその後の安治の人生に大きな影響を与える事となった。脇坂氏は「輪違」を家紋としているが、これは相反する概念のどちらも欠いては濁世を生き抜くことが出来ないという脇坂氏代々当主の人生観の反映、二律背反の象徴であった。

出世[編集]

浅井氏が滅亡すると、安治は明智光秀に仕えた。しかし嗅覚の鋭い安治は程なく光秀に見切りをつけ、羽柴秀吉の配下となる。秀吉の指揮の下、近畿、中国地方の平定に従軍し、武功を重ね、知略を働かせ、頭角を現してゆく。中でも有名なのが丹波国黒井城攻略の逸話である。黒井城城主赤井直正は猛将として名高く、この時すでに病で臨床にありながら采配は衰えず、攻略を担当していた光秀と秀吉も城攻めに難儀した。そこで安治が降伏の使者として危険を顧みず単身黒井城へ乗り込んでゆく。臨床の赤井は安治の度胸に感心し、彼に一騎打ちを申し込み、安治が勝てば城を明け渡すという。その一騎打ちの形式は「ふんどし一丁になって格闘戦を行い、互いのふんどしを脱がしあう、最終的にふんどしを脱がされたほうが負け」というもので、安治、赤井ともに、赤井家に代々伝わる「貂の皮」で出来た赤い褌を穿き、一騎打ちを行った。

赤井は病床の身とは思えぬほど手ごわく、安治は幾度もふんどしをずり下ろされそうになったが、最後は健全で若く持久力のある安治に軍配が上がり、見事赤井のふんどしを捥ぎ取った。安治との激しい戦いで赤井は全生命力を使い果たし、安治の奮戦を「歪みねぇな」と讃え、絶息した。

無論、この逸話には多少の誇張、潤色もあるだろう。しかし黒井城攻めによって安治は一躍名を馳せたことは事実である。この時安治が赤井から譲り受け、また奪い取った貂の皮のふんどしは代々脇坂家の家宝として伝わり、脇坂家の歴代当主が家督を継承する際には通過儀礼として安治と赤井の一騎打ちを準え先代当主とふんどしの脱がしあいをすることが義務付けられた。

賤ヶ岳の七本槍[編集]

1583年の賤ヶ岳の戦いでは、福島正則加藤清正らとともに目覚しく奮戦し、彼らと共に賤ヶ岳の七本槍に数えられた。この戦いで安治は 柴田勝家配下の猛将である毛受勝照を一騎打ちの末討ち取った。しかし毛受との戦いは先の赤井直正との一騎打ちとは打って変わって騙し討ちによる勝利であった。安治は「十両落ちてる十両」と地面を指差して毛受の注意を逸らし、毛受が視線を逸らした間隙を衝いて彼のケツの穴に槍を突き刺して討ち取った。同じ七本槍の正則、清正や「義の人」こと石田三成から安治は卑劣漢と非難されたが、騙し討ちも立派な戦法の一つと考える安治は気にしなかった。

水軍の統率[編集]

安治は九鬼嘉隆と交流し、彼から水軍の指南を受けた。(ついでにケツの契りをかわしたとも)そのため九州征伐小田原攻め文禄・慶長の役で淡路水軍の指揮を任されて活躍している。文禄の役では龍仁で朝鮮軍5万を破る大手柄をあげたが、海の戦いでは功に焦るあまり先駆けしてしまい李舜臣の逆襲を喰らって大敗を喫したが、その後は朝鮮で善戦して朝鮮水軍の軍船を拿捕したり加藤清正を助けたり元均との戦いで活躍したりした。しかし同じ7本槍で水軍の将の加藤嘉明が朝鮮出兵前は脇坂よりも石高が低かったのに、朝鮮出兵が始まってからトントン拍子で出世していき、秀吉が死んだ時には脇坂が3万3千石、加藤は10万石であり脇坂は泣いて悔しがって纏の皮を振り回したという。

関ヶ原[編集]

秀吉の死後に起こった関ヶ原の合戦では、最初は西軍に属していたが小早川秀秋の寝返りに呼応して東軍に寝返ったことで有名。安治は最初から東軍とも気脈を通じており、西軍への参加も積極的ではなかったと言われているが、ぶっちゃけ形勢を静観して両天秤をかけていたのだろう。戦後の論功行賞で、小早川に便乗して寝返った赤座直保小川祐忠は領土を没収され、さらに安治同様事前に家康に気脈を通じていたはずの朽木元綱まで一時的にだが所領を没収された。安治が領土を安堵されたのは、媚態、追従の上手さと、安治の武将としての力量が家康さえも唸らせたからに他ならない。彼もまた、家康が最も恐れた男の一人だったのかもしれない。

刑部の祟りも効かず[編集]

関ヶ原の戦いで壮絶な戦死を遂げた大谷刑部こと大谷吉継は、西軍潰走の原因となった小早川秀秋の裏切りに憤り、「三年の内に祟り殺してくれる」と言った。その言葉通り、2年後に小早川秀秋は怪死する。秀秋に便乗して裏切った武将の内小川祐忠は関ヶ原の1年後に病死し、赤座直保は所領を没収され加賀の前田家に仕えたものの、その後河川の氾濫に巻き込まれて溺死した。この両名の死も、やはり吉継の祟りによるものであろう。とすれば、同じく西軍潰走の裏切りの一翼を担った安治に対しても吉継の祟りが襲ったことは疑いようもない。しかし安治は変死することもなく関ヶ原の戦いの26年後に73歳で大往生を遂げている。名将大谷吉継の執念も安治を呪い殺すには至らなかった、それは安治が大谷吉継を凌ぐ器量の持ち主であったことを示す何よりの証左であろう。

貂の皮の恩恵[編集]

しかしながら安治本人は、数々の武勲や大谷吉継の祟りから逃れた事に対して、「家宝の貂の皮のご利益の御蔭だ」といい、決して驕る事はなかった。処世術に長けた安治は驕慢と自己賛美の危うさ、出る杭は打たれるというこの世の真理を熟知しており、「貂の皮」をスケープゴートにすることで衆目を欺き、決して目立つまいとした。いつしか人々は「貂の皮、貂の皮というが、あの男こそ人を化かす貂そのものではないか」と口を揃えて言い、安治は貂の化身として畏怖されるようになった。

関連項目[編集]

Wikipedia
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