羽柴“太郎”秀吉

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この頁では本能寺の変の黒幕である「秀吉」について記しています。太閤と呼ばれた「秀吉」については豊臣秀吉を御覧下さい。
本能寺の変で主君第六天魔王を爆死させ、カリスマ信忠を葬った極悪人の肖像。

羽柴“太郎”秀吉(はしば“たろう”ひでよし。1536年2月6日[1]~1598年8月18日)は、戦国時代畿内で猛威を振るった、面の武将である。その余りにもクソ過ぎる事跡から2014年になって実はコレではないかと実しやかに囁かれる様にになった。

また、東京都都知事選に立候補した某泡沫候補とは別人であることは言うまでもない

概要[編集]

贅沢三昧で民の怨みを買って死んだ、あの袁術の再来(今公路 ?)だという。羽柴氏(イコール豊臣氏ではない)の創始者。民衆の恨みを買った事から、禿鼠猿(はげねずみさるきち)と軽蔑されて来た。

なお、あの豊臣秀吉(系譜改竄者である沢田源内(郷重)の『江源武鑑』に記してある尾張の浅井氏一族の木下藤吉郎元吉の尊称)は別人である。また妖怪変態の異名も持っており、三英傑のひとりでもある。

生涯[編集]

尾張国中村(今の名古屋駅西口周辺)の貧農である水呑百姓(小作人)または傀儡子(漂流人)である「中村の弥右衛門[2](あの「木下弥右衛門昌吉」、あるいは「浅井弥助昌盛」とは別人)子供として生まれ、母は鍛冶屋の娘のお仲加藤清正の大叔母にあたる)である。定説では「日吉丸」だが、これは浅井一族の「木下藤吉郎元吉=豊臣秀吉」の幼名であり、実際は…後述を参照にしてください。

父の弥右衛門は農業または旅芸人の仕事に飽き足らず、ついに美濃付近の土豪蜂須賀正利(1504年 - 1553年)の部下となって野武士として活躍したという。やがて、尾張の被官織田信秀(信長の父)が斉藤道三と激戦した際に、弥右衛門は正利の命で織田家の雑兵として「オラオラオラーー俺は中村の弥右衛門だぞ!!死にたくないやつあ、田舎に帰れええええ」と叫んで無茶したために、彼はうっかり槍で自分の太股を刺したのである。この報を聞いた主君正利は激怒し「このバカタレェェェ!!自分の太股を刺すやつがどこにおるかああああ」と叫んだ。ところが正利の嫡子小六(彦右衛門正勝)が「まあまあ、お父上、落ち着いてください。弥右衛門はもう役に立たんでしょうが、その息子がいます。これを継がせましょう」と言った。

これを聞いた正利は落ち着き、部下の猪之川鹿蔵を呼び「弥右衛門はもう役に立たん、その息子がいるから、これをお前の部下にせい」と命じた。鹿蔵は先年に息子の「松蔵」を亡くしており、たまたま弥右衛門の息子に名がなかったので、これを機に亡息の一字を取って「中村の猿松」と名づけた。さらにその弟は「中村の竹松」(後の羽柴秀長)と命名した。弥右衛門は上司の鹿蔵に対して「私が不肖のために、わざわざ息子たちの名づけ親になっていただいて」とペコペコした。程なくして、弥右衛門は傷が原因で亡くなった。

しかし、彼は「猿松」という名前で呼ばれることは少なく、実際は省いて「猿」とか「禿鼠」と呼ばれることが多かったので、後年の「秀吉」と名乗るまでは「猿」と呼ぶことにする。そのころ母は「竹阿弥」というボンビーなお坊さんと再婚した。しかし猿はこの義父と折り合いが悪かった。そこで猿は弟の「竹松」とともに出奔し、実家に帰ることなく上司の猪之川鹿蔵に仕えた。その時に当主正利も50歳で亡くなり、弱冠28歳になる嫡子正勝(小六)が継いだ。

やがて猿は尾張と西三河の境に当たる矢作橋で正勝と義兄弟の契りを結び、主従の関係を飛び越えることとなった。猿、この時18歳である。まもなく正勝の命で、駿河の今川義元の家臣の松下源左衛門長則の嫡子の嘉兵衛(加兵衛)という若者の部下として潜入し、隠密として活動することとなった。猿はその通りにやったが、元来エロなので嘉兵衛のにうっかり手を出し、アーン♥♥し放題になってしまったために、激怒した嘉兵衛から「ここから出てけ!!この破廉恥猿が。命だけは助けてやる。」と言われてボコボコにされた(皮肉なことに後年の秀吉は、なぜか嘉兵衛の恩を忘れず、天下をとると大名に取り立てた。おそらく秀吉はマゾだったのだろう)。

尾張に帰還し、任務に失敗した猿を見た正勝は頭を抱え、執事の鹿蔵に相談した。すると鹿蔵は「幸い、殿(小六)のいとこ吉乃さまは信長公の側室で茶筅丸(後の信雄)さまを産んでおられます。この縁で猿…いえ、「猿松」を信長公の足軽に取り立てるよう、吉乃さまにお願いしましょう」と進言した。

正勝は早速、いとこの吉乃の手紙を出した。やがて猿は信長と謁見した。すると信長は猿の顔に向けて小便を引っ掛け「ぬわはっはははは、こやつはおもろい面をしとるのう!!よし採用しよう」と言って猿は仕官できたのである(ただし、当時の秀吉は小便を引っ掛けられた恨みで密かに信長に殺意を持ったと言う)。同時に幼名の「猿松」から、「藤吉」(とうきち/ふじよし)と名乗ったという。

やがて、猿は寧々(後の北政所)と出会い、「ハアハア…ねえちゃん~俺と結婚しねえ?!悪いようにしねぇからさ~」と言っては寧々に飛び掛りいきなりピー…禁則事項ですした。寧々はそのために子供を産めない体となるも、笑顔で猿の話に乗り結婚した(ただし、寧々は内心では「あのエロ禿がくたばった時には、私はあいつが築いたものを全部滅茶苦茶にして壊してやるんだからねっ!!」と復讐を誓ったと言う)。

草鞋温めの逸話も実際には…猿が尻で温めた草鞋を信長に差し出すと勘の鋭い信長は「おめえ…俺が小便をかけられた仕返しか?セコイことすんじゃあねえよ!!」と言って猿をボコボコにした(さらに秀吉は信長に対する復讐を誓ったと言う)。

それでも猿は有能だったので、以降から信長、吉乃、寧々の実家の木下家(杉原氏)からそれぞれ一字を貰い、「木下藤一郎秀吉[3]と名乗ったという(念のため、「木下藤吉郎元吉」とは別人)。ここから猿を「秀吉」(または「藤一郎」)と呼ぶ。

往年・衰退時代[編集]

ナイーブ明智どのを騙し討ちした後の秀吉。失言首相と瓜ふたつである。

秀吉は信長の考えの先を読むニュータイプの主力武将として活躍した。殊に手段を選ばない冷酷非情な武将として名を轟かせた。特に顕著なのは、近江の小谷城主の浅井久政長政を攻略した時である。信長の妹のお市の方を救助することが目的だが…実はお市は信長の妹ではなく「いとこ」[4]だったのである。さらに長女の茶々(淀君)も長政の娘ではなく、信長の娘で、信長の命で長政の養女となった。長政の長男万福丸(輝政)もお市の子ではなく、離別した長政の先妻の平井定武(六角氏一門でその家老)の娘が産んだ子で、お市の養子であった。

そのことが長政には面白くなく、敦賀で起こった金ヶ崎の戦いでは「俺を愚にする信長を滅ぼすいい機会だ!」と称し、盟友の朝倉義景とともに憎っくき信長を挟撃した。一方、信長は「愛人」のお市から小豆が入った布袋を送られて長政の裏切りを悟り、「あの若造め!!!俺を裏切りやがって!!」と怒涛のごとくに激怒した。そして残酷で名を轟かせている秀吉を呼び「猿鼠よ!!浅井の軍勢が来たら地雷で惨殺せよ!!」と言い残して撤退した。秀吉はこれを狂喜し、長政の追手軍を地雷で嬲り殺しニヤニヤしながら高みの見物をしてゆっくり撤退した。これを見た長政は、「秀吉とやらは残忍で冷酷なやつだ」と思わず背筋が凍ったという。この功績で秀吉は、柴田勝家丹羽長秀の姓からそれぞれ一字をもらい「羽柴筑前守」と称するようになった。

秀吉の必殺仕事人ぶりのおかげで、信長は無事にに帰った。腸が煮えるほど憎しみを覚えた長政に報復したい信長は、秀吉の残酷さによって味をしめた。信長の真の狙いは、「情婦」のお市とその間に生まれた茶々、その異父妹のお初お江与、さらに異父弟の万寿丸政治らを救助し、宿敵・六角氏の血を引く万福丸を始末することであった。これは秀吉が生来持っていた冷酷非情さ残忍粗忽さを利用した信長の狡猾な戦略であった。秀吉はその通りに、1573年に奇襲で小谷城を焼き払い、浅井父子を自決に追い詰め、お市の方とその子供を救助し、長政の嫡子万福丸輝政を独断で田楽刺し(串刺し)という残酷な手口で殺害したのである(それ以降、お市は可愛がっていた養子を殺害した秀吉を嫌悪するようになる)。

この功績で秀吉は、柴田勝家丹羽長秀の姓からそれぞれ一字をもらい「羽柴筑前守」と称するようになった。そして、焼失した小谷城を再建し、「信長」の一字と「長政」の一字を取って、近江の今浜を「長浜」と改名し、長浜城に住んだ。しかしこのころから浮気の虫が騒ぎ、次々を若い女子を漁っては、アーン♥♥したため、激怒した寧々とバトルを繰り返したのである。やがて安土城の信長に召喚され「この野郎!!俺の真似するなんざ三世代早いんだよ!!!!坂本城主の光秀を見習え!!!!所詮貴様は下賎な餓鬼だな。源氏の血を引く光秀とは雲泥の差があるな」と言ってはボコボコにされた。さらに信長は「俺の可愛い姪のお江与に手ぇ出すな!!!!」と叫んで秀吉の脳天を鮮やかにK1なみに蹴ったのである。その場で秀吉は血まみれになり、信長は「おい!!その“ゴミ”を城外に放り出せ!!」と言い捨てて奥に消えた。

腹の収まらない秀吉は友人の千宗易(利休)に相談した。すると宗易は「明智さまも信長公に不満を持っております。なぜなら、明智さまは三丹(丹波・丹後・但馬)に移転が決まり、ご先祖が住んでいたから遠のいたと嘆いておられます。この際は密かに誘い、信長公を葬るのです」と囁いた。さらに近衛前久は藤原家の惣領をめぐって関白の地位で信長と争い不満を持っていた。エスパニアイエスズ会カトリック布教を認めない信長に不満を持っていた。また、足利一門の細川藤孝も信長に不満を持っていた。宗易はそれらの連中をまとめて密かに「信長を葬る計画」を立てたのである。そこで秀吉は、側近の前野(将右衛門)長康にアンチ信長派の諸大名と交渉する連絡役を命じたのである。

やがて、信長が松永久秀荒木村重につづいて武田勝頼を天目山で自決させ、武田家を滅ぼした。その時毛利輝元が信長に宣戦布告した。宗易は「これこそ信長公を斬るよい機会です」と秀吉に囁いた。また輝元が若年のために背後に豊後の大友宗麟に衝かれる危機を持ったため、秀吉との和睦を希望した。秀吉は「これはチャンスだ!!」と言って、信長には輝元の和睦を知らせず「援軍をお願いします」と要請した。やがて信長が本能寺に入ると、密かに光秀に知らせ「右大臣(信長)は本能寺に入った」と知らせ、自分はさっさと彦右衛門正勝(蜂須賀小六)と安国寺恵瓊安芸武田家当主・武田光広の子)の交渉を通じて輝元と和睦し、姫路城に入った。やがて“光秀の謀反”で信長は「こうなることは予想してた。俺は潔く散る!!」と言って本能寺内でイエスズ会から貰った地雷を周辺をばら撒いて、点火し骨すら残さずに散ったのである(本能寺の変)。

(なお、本能寺の変は光秀の単独犯であるという説の根拠として、光秀が信長から数々の暴行を受けたことが挙げられている。しかしながら、それは上記の秀吉が受けた数々の暴行を光秀が受けたものとして改竄されたものである)

さらに光秀は、信長の嫡子(次男)の信忠二条城(二条御所)で葬った(この時、信忠の叔父有楽斎は甥を見捨てたどころか自害を勧め、自らはさっさと美濃に逃亡した。ちなみにこの信忠は「毛利攻めが終わったら俺、松姫と結婚するんだ…」とフラグを立てていた)。

姫路城で光秀の密使からこの報を聞いた秀吉はガッツポーズし「よっしゃあーーーー!!!あの魔人の王(信長)が、やっとくたばりやがったぜえぇぇ!!!もうキンカン頭の光秀は用無しだな」といってその密使を捕らえて、備中高松城で総指揮している弟秀長のもとに送り、さっさと片付けたのである。こうして秀吉は得意満面になり京に目掛けて光秀を「信長公を討った逆賊」と叫びさっさと滅ぼした。光秀は、定説の小栗栖では死なず、比叡山付近で瀕死の光秀を助けた徳川家康に向かって、「あの禿鼠に見事に騙されました。どうか私の養子舟木秀光(光秀の親族。後の天海会津の蘆名氏(会津三浦家)家老の舟木景光の庶子)を比叡山の僧として出家させ、「随風」と改名させ、家康どのとともにあの禿猿(秀吉)を滅ぼしてくだされ…」と遺言を遺して死んだ。光秀の死に直面した家康は、を流して「貧しい民のために逝った真の“もののふ”たる光秀どののご遺功を受け継ぎ、卑劣な秀吉と羽柴家をかならず滅ぼし申す!!」と固く誓ったという。

やがて得意満面となった秀吉は、柴田勝家北の庄で自殺に追いやり(本能寺の変の真相を嗅ぎ付けられそうになったから滅ぼしたのではとも言われてる)、主君筋の織田信雄を恫喝して「あなたの兄弟信孝どのをさっさと始末しなされ!」と恫喝し、信雄は屈辱にまみれながら、仕方なく信孝を殺害した。こうして、秀吉は織田軍の棟梁になることに成功した。しかし、信長の武将兼ホモ達佐々成政(本拠地:富山)に手こずり、これを巧みな甘言で肥後の城主にした。やがて「こいつは目つきが気に喰わんと」と因縁をつけて切腹を命じて、成政は「ク…クソが!!!あの禿鼠に騙されたー」と叫んで壮絶な死をとげた。

しかし、秀吉も信雄と組んだヤーさんの家康には敵わず、信雄と通じて和睦した。やがて北条氏政氏直父子を降し北条氏を滅ぼして、天下統一した。しかし、奥羽の覇者伊達政宗がわざと遅参したことに激怒し「伊達の小僧!いくら信長公に似てるからと言って、有頂天になって、この俺をバカにしておるだろう?そこになおれ!!叩き斬ってやるわ」と叫んで、政宗は手討ち寸前の状態となった。しかし家康が傍らから「この小僧は見所があります。私の顔に免じて赦していただけないでしょうか?」と迫力ある顔つきで言った。さすがの秀吉もマフィアボスのような家康に対してはガマの油のように冷や汗を流し「そ…そうか、いやいや家康どのの申される通りぢゃ。政宗は貴公にお任せする」と言って、さっさと退席したという(家康の江戸移転はこれが要因という)。

その後は片腕だった弟の秀長が死ぬと、もともと(本能寺の変で共犯だったポルトガル王国庇護下のイエスズ会に対し些細な理由で敵視するなど)異常だった秀吉は本格的に発狂した。彼は、貧農出身の分際で、日本国内の統制権を掌握すると調子に乗り始めて、征韓論を掲げ(西郷隆盛が征韓論の言い出しっぺというのは誤解である)朝鮮に進軍するも失敗した。その腹いせに、子飼いの家臣・石田三成とグルになって、戦友でもある茶道の神・千利休を「お前の像が俺を見下してる気がするから死ね」という、意味のわからない理由で斬り殺した(これは本能寺の変の共犯である彼が邪魔になったが故とも言われてる)。さらに甥の秀次に対しても、「甥のくせに生意気だ!!!」と言って(秀次が石川五右衛門に依頼して秀吉を消そうとしたとも言われてるが証拠はない)、その家族ごと皆殺しした(これを石田三成の讒言によるものとする説もあるが、あくまで秀吉自身の狂気によるもので三成は命令を遂行しただけである)。

(ただでさえ少ない親族を殺した愚行は)まさに外道!!!

先述のイエスズ会に対して、1596年にスペイン王国庇護下のフランシスコ会の讒言で、長崎でイエスズの宣教師たちを惨殺している。

さらに太閤検地を設けて三成とともに「百姓は生かさず…殺さず…」の方針で農民いじめを奨励している。また参勤交代を制度化して、各大名の妻子を人質にして、大名の美貌の妻を横取りしている。この秀吉の方針を皮肉にも家康の孫のホモ家光が受け継いでいるのである。

最期は単なる老いた猿として、63歳でコロリと死んだ。

その後の家康の行動であるあのことに関しては云々と言うまでもない。

エピソード[編集]

大坂の判官贔屓”で得した禿鼠猿の悪辣な素顔。
  • 晩年は信長の怨霊に悩まされ、最期は発狂して死んだという。
  • 伊達政宗と面会した時に「この小僧は信長公に似てるから生意気だ。思い切り干そう!!」と言って、政宗の恨みを平気で買った。
  • マザコンとして有名。
  • 実はキリシタン弾圧を始めた人(家光がパクリをしている)。
  • 古今無双の好色家にしてロリコン。側室には10歳の子供もいたといわれるが、淫行罪に問われるも保釈された。
  • 右手の指が一本多かった。しかしあまり役には立たなかった模様。
  • 側室の淀君が秀吉に隠れて、家康とアーン♥♥して秀頼を産ませたことを知らずに「この子は俺の子だ!!」と喜んでいた。
  • 実は秀吉の子として該当するのは大谷吉継(別名:羽柴秀隆ともいう)だけらしい。
  • 戦国時代では、めずらしくウホッ!!が大嫌いだったらしい。
  • 蒲生氏郷の華麗な御曹司ぶりを政宗同様の見方として妬み、1595年2月7日に伏見城で毒殺した説がある。
  • 同名別人の豊臣秀吉を傀儡君主として祭り上げ、自分は高笑いして操った。
  • 征夷大将軍になるため、足利義昭養子になることを希望するが、義昭から「氏素性もわからない下賤な同級生のような男を養子にするなんざ、真っ平よ!!」とあっさり却下され…お察し下さい
  • 麻生太郎は秀吉の再来といわれる(不人気かつ下品で人望のなさが特に類似している)。

本能寺の変の最大黒幕有力説[編集]

21世紀になると、ひょうきんで明るいイメージのある秀吉の評価が家康と比較して一変した。有名な本能寺の変ではウィキペディアウィキペディアンなどに否定されてる。だが、当時の「本能寺の変」の状況をくわしく述べている『言経卿記』(山科言経の日記)と『本城総右衛門覚書』などを参照とした『へうげもの』などでは、千宗易(利休)と組んで主君の信長を近衛前久細川藤孝イエスズ会と組んで、人望がある穏やかな明智光秀を捨て駒に使って都合よく葬った極悪人として、秀吉の都合がいいようにするどく描写されている。

それを知っている佐々成政などは「織田家を簒奪した禿げ鼠野郎」と罵しり、最後は秀吉に処刑された哀れな人物である。『へうげもの』などで、劉備タイプで熱血家の家康などは「正義のために羽柴家を滅ぼさなければならない!」と公言したほど。秀吉は、自分の腰巾着の石田三成とともに千利休山上宗二(利休の高弟)、羽柴秀次(秀吉の甥)などを葬った鮮やかな極悪人として、「稀代なる極悪人秀吉像」は多くの歴史家による評判は絶大だという。

また、なぜか信長の姪淀君(信長の娘説もあり)とは派手好みなどで、ウマが合ったという(魔性の女・淀君は秀吉に隠れてひそかに家康と交わり、秀頼を産んだと言う)。

注釈[編集]

  1. ^ 2月2日、3月26日生まれの諸説もある。
  2. ^ 尾張の売りの行商人だった説が有力という。後年の秀吉の金利けの才能が天性だったのは、父弥右衛門自身が商人だったからともされる。…つか、秀吉自身の百姓のにおいが全然感じられないんだよねえ。あとさ、出目が商人の倅だったら、斎藤道三松永弾正とまったく同じだよね…
  3. ^ 「木下」は北政所の実家の姓、つまり婿養子。「藤一郎」は信長の本姓藤原氏、吉乃の一字から取り、それが「吉」から正式の男子名「藤郎」となったもの(例として伊達政宗の「藤次郎」もある)。「秀吉」は信長の父の信秀の一字、吉乃の一字から取ったものである。
  4. ^ 信長の叔父織田信光(信秀の弟)の娘と言う。

関連事項[編集]

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