群馬県の歴史

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典型的な群馬の原住民の住処。

群馬県の歴史(グンマのれきし)とは、未開の地と呼ばれる群馬における、原住民の脅威との長い戦いの歴史である。

よくネット上において群馬県全体未開の地であるなどと言われるが、これは明らかな嘘である。群馬県が他県より開発が遅れ、近現代になっても未開の地であったことは否定できないが、少なくとも現代において、群馬県全体が未開の地などというのは誤りである。群馬県の一部の平野部では「未開の地」はとうに過去のものとなっている。群馬県の両毛地域と呼ばれる一部の地域では、なんとか工業化に成功している。

ただ、群馬はこれらの一部地域を除くと、依然近代化が進んでおらず、特に群馬の面積の約9割を占める山間部は今もなお原住民の存在と厳しい自然環境を理由に開発が進んでおらず未開の地同然であることは、群馬県知事が実際に認めている通り事実である。

これらの地域には非文明の原住民が多数生息しており、うっかり平野部の文明地域の住民が山間部にある原住民のテリトリー周辺に足を踏み入れたばっかりに、原住民に刃物で首を刈り取られてしまうという悲劇が未だに後を絶たない。

群馬は長い歴史の中で、他の地域は文明とは無縁の縄文時代レベルの生活を余儀なくされているものの、ようやく平野部の極めて一部の地域では産業革命を成し遂げることができた。この項目では、そんな群馬に住む先人たちの原住民と厳しい自然環境との戦いの歴史を順に追って説明する。

原住民の脅威[編集]

群馬では今でも首狩り族により首狩りが行われており、非常に脅威となっている。
狩った首の数の自慢をする群馬の首狩り族。
現在の群馬県庁の外観。原住民との緩衝地帯・マエバシに存在するため、このような造りになっている。
「危険:ここから先に入ってはいけません」 - ここから先は原住民が生息しているので立ち入ってはいけない、という看板。群馬ではよく見かける。
東京・神谷町に存在する、群馬県出身者による店。
群馬では「トンカツ」は文明の象徴であり、未開の地グンマにもちゃんと文明が存在するということをアピールしたいものと思われる。

群馬県の開拓は、過去も今も常に原住民からの脅威が隣り合わせである。かつての北海道では、大和民族にとっては函館などの一部の支配地域を除いて原住民との脅威が隣り合わせで、おめおめと山に入ろうものなら原住民に襲われるというのが常であった。

しかし北海道でさえ、このような事態はおよそ18世紀後半には見られなくなったはるか遠い昔のこととなっているのに、群馬では未だに原住民の脅威が続いているのだ。

群馬では、原住民にいつ首を刈り取られるかわからないのである。県南部の既に市街地となっている地域では既に文明人の支配下にあるため安全が確保されているが、文明人が少しでも山間部に足を運ぶ者なら、たちまち原住民に首を狩られてしまう。

群馬に生息する原住民の特徴として、敵対する部落や異種族の首を狩る風習「首狩り」がある。首狩りとはその名の通り、木の陰・草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部切断に及ぶ行為である。狩った首は一体どうするか?自分達のテリトリー(生息地)にそれを持ち帰り、狩った首の数を部族内で自慢するのである。首を狩った数が多ければ多いほどその者は偉くなるし、また部族内では首狩りを行うことが「一人前の成人男子」の通過儀礼となるのである。

かつて、山内上杉氏・後北条氏・武田氏・長尾上杉氏ら数多の武士たちが原住民の討伐を目論んだが、「首狩り」の脅威の前にいずれも失敗に終わり、またその戦禍により大和民族と群馬原住民の間の溝は深まるばかりとなっていった。

また江戸期に入っても、渡良瀬川の流域でわずかに農耕が行われるのみで、後の地域は、山間部だけでなく利根川流域の平野部でさえ全くの手つかずであった。何分、群馬(当時は「上野国」)のその危険さは、既に近隣地域でも有名で、誰もが原住民の人狩りを恐れて近寄ろうともしなかったのだろうから。なお、埼玉(当時の「武蔵国」)は利根川を境に群馬と面しているが、利根川を渡った先は常に原住民の脅威があるため、埼玉の住民は利根川の近くに近寄ろうとすらしなかったと言われている。


それでも、近隣地域で大規模な飢餓が発生した際は、どうしても娘を余所にやらないわけにはいかず(飢餓発生地域では食いぶちが限られているため)、その地域の親は、娘を嫁として群馬にやらなければならないこともあった。人狩り族の襲来の恐怖と常に隣り合わせの、群馬にへ嫁ぐ娘の心情を嘆く俗謡が江戸中期に唄われ始めた。以下がそれである。

  • 群馬へ嫁行くなら、背負って行け棺桶
  • 嫁にはいやよ群馬は、首狩り鬼族恐れる辛さよ
  • 群馬に嫁行くなら、買ってやるぞえ経帷子に棺桶
    (※経帷子:死者に着せる白装束のこと)

このことからも、群馬の原住民の存在がいかに脅威であるかお分かりいただけたであろうか。

明治・大正・昭和になっても[編集]

明治期に入ると、当時日本政府が西洋から手に入れた最先端の武器(特に拳銃の存在は大きかった)を手に、群馬では原住民を追い出したり、言うことを聞かなかった場合は容赦なく虐殺した結果、ようやく多くの平野部からは原住民を追い出すことに成功した。

そして、新しい土地が手に入った明治政府は日本中から群馬の地に開拓民を送り込んだ。まだ手つかずの原野を開拓し、ようやく稲作が本格的に行われるようになった。[1]

また東京から近くてしかもほとんど土地が余っていることから、キリュウ[2]タテバヤシオオタシティーといった開発の拠点となる都市も現れ、特にオオタシティーでは「中島飛行場」などといった軍需工場も建設され、ついに群馬にも近代化の波が訪れたかに見えた。

ただ、群馬の約9割は山間部である。1割の平地でようやく開発が始まった所で、他の9割の山間部では原住民を追い出せていない。何しろ、彼ら原住民は己の気配を消すことに長けているのである。いくら日本人が高性能の武器を持ったところで、山の中では彼らには適わない。ガサガサと音を立てながら山の中に入っていく日本人に対し、「グンマ」(原住民は、その部族内の英雄のことを"グンマ"と呼ぶ)は足音一つ立てずに山中を悠々自在に移動する。日本人が気がついた時には、既に「グンマ」が刃物を持った状態で背後に立っている。そして、日本人は振り向くことすら出来ずにそのまま首が切られ、あの世行きである。

そのため、「グンマ征伐隊」が栃木県境に近いキリュウに設置されたが、後述の理由もあり、昭和になっても山間部の原住民を追い出すことは出来なかった。

なお、JR高崎線("高崎"(タカサキ)という地名こそ付いているが)明らかに、できるだけ群馬県を避けて敷設されているのは、やはり群馬の原住民の脅威によるものであった

戦後になっても[編集]

戦後、群馬のオオタシティーにあった「中島飛行場」は兵器工場から自動車工場へと生まれ変わることとなり、「富士重工業」の自動車「スバル」は昭和30年代・40年代頃日本中を大衆車として日本中を席巻することとなった。このスバルの普及で、ようやく「群馬=未開の地」のイメージは払しょくされるかと思われた。しかし、富士重工業は「スバル=群馬」という宣伝を全くしないどころか、「スバルが群馬で生産されていると世間に知られたらマイナスイメージで車が売れなくなる」と判断したのか情報操作までするようになった[3]

おかげで、世間一般的に「トヨタ愛知県」「スズキヤマハ静岡県」「マツダ広島県」という認知度はかなり高いにもかかわらず、「スバル=群馬県」として世間に知られることは一切無かった。しかも、その後スバルは後続企業の自動車メーカーに続々と追い抜かれていった結果、没落していき、売れ行きも悪くなっていった。今では最近の若い世代に尋ねても「スバル?何それ?」と言われるぐらいスバルのブランド認知度自体が極めて低くなってしまった。所詮群馬は群馬である。

21世紀に入った今では、日本政府は原住民を追い出そうなどという考えをようやく捨てるようになり、むしろ「グンマ原住民特別保護区」を設けて互いに共存しようという動きをようやく見せ始めている。しかし、和解には至っておらず、依然群馬県の約9割は未開の地のまま、群馬県民約200万人のうち9割は原住民が占めているという現状が今もなお続いている。

なお、群馬の県庁所在地は都市として市街地が存在するキリュウやタテバヤシ・オオタシティーなどではなく、ほぼ原野・山林で文明社会とはほど遠い・未開の地のマエバシである。これを不思議に思われる方も多いかもしれないが、その理由は、マエバシは原住民と大和民族の緩衝地帯だからである[4]

厳しい自然環境[編集]

関東の「行き止まり」として[編集]

今でこそ関越道上越新幹線が開通し、群馬は北陸地方に行く際の通り道となっているが、かつてはそうではなかった。越後山脈はあまりに脅威であり、また昔は陸運よりもはるかに海運が盛んであった[5]から、あんな険しい・恐ろしい山々を人の脚で超えていくぐらいなら、北周り船・南周り船で物資を輸送した方がはるかにコストが安くかつ安全であったのである。

つまり、群馬県北部の山々は完全に行き止まり=秘境であった。(この点が栃木県北部とは違う点である。栃木県北部は、関東から東北へ通じる街道・東山道の宿場町が多数あり、東北と関東を行き来する武士・商人・旅人達が多数通行していた。)

このことから、原住民が潜むには格好の場所となり、21世紀に入って既に10年以上たった今でもこの地には人狩り族で野蛮な原住民が多数生息する原因となっている。

"温泉"の脅威[編集]

このように、鉄をも溶かす「強酸性水」が大量に湧き出て、日々 下流に流れ込んでいるのである。一見綺麗ではあるが、その下流部にはとても住めたものじゃない。

また、群馬県、特にクサツ(草津)周辺で硫黄温泉が大量に湧き出していることも、この地の開発をしにくいものとし、未開の地として原住民を大量にのさばらせる結果となった。

よその者からしたら「温泉が湧き出す」ことは一見ただ単に羨ましく思えることだろう。しかしよく考えて欲しい。硫黄分を大量に含んだ温泉、つまり硫酸が大量に湧き出し、それがそのまま川を伝って下流まで大量に流れ込むのである。下流のアガツマ川(吾妻川)では、川の水を飲もうとしても飲めたものじゃない。

この地に流れる川の水は強酸性で絶対に飲むことができないから、人もほとんど住めない。何しろこの地を流れる吾妻川は「死の川」と呼ばれているのである。魚は当然住めない、鉄釘がわずか1週間で溶解して跡形もなくなってしまうほどの強酸性で、下流で合流する利根川の下流の水質にまで影響を及ぼしてしまうのである。

そして、なんと国は戦後、吾妻川(の上流)にあるダム「草津中和工場」で1日に60トンもの石灰を川に投入することでこの川を中和させようとしているのである(石灰はアルカリ性物質)。アンサイクロペディアンも驚く嘘のような話であるが、これは一切誇張なし・100%事実である。しかし、それでもおよそ中和できるまでには至っていない。よく水の無い所に人は住めないというが、この地の川に流れている水は鉄をも溶かす強酸性で、実際に飲むことのできる水はほとんど無いといってよい。もし(文明社会の基礎ともいえる)農耕を行おうと思っても、当然行うことなどできない。また群馬県の山間部では草津以外にもたいがい硫黄温泉が大量に湧き出ていることから、結局群馬では、農耕とは無縁な狩猟民族の原住民が生息するのみとなるのは必然である。

栃木の民との戦い[編集]

栃木との軍事境界線・キリュウ川源流部における戦いの一例

古来、群馬と栃木はほぼ一つの地域「毛野国」と見なされてきたが、いつしかワタラセ川とキリュウ川を境に二つの地域に分断され、お互い憎しみ合う関係になってしまった。憎しみ合うようになったのは、戦国時代に(今の)群馬と栃木の間に戦乱が合ったからだと言われている。一度互いに戦火を交えてしまうと、もう二度と以前の関係に戻れないことは、関東や日本だけではなく全世界共通で、特に中東の歴史を見ればよくわかる。

江戸時代には既に「上野国」と「下野国」に分かれた。そもそも、この「上野国」「下野国」という言い方自体が(群馬からすれば)栃木を見下しているものである。群馬の自分達が「上」で、栃木は「下」なのだから、なので、今現在、群馬が「上野国」という呼び名を用いることはあっても、栃木が「下野国」という名称を用いることはほとんど無く、代わりに野州という名称を使っている。

足尾銅山の悲劇[編集]

今では互いに憎み合う群馬と栃木だが、かつては隣り合う者同士、互いに歩み寄ろうとしたことがあった。

群馬と栃木県にまたがる足尾山地の、栃木県部分に存在する「足尾銅山」。この地にも群馬との県境であることから原住民が多く生息していたが、血で血を洗うような戦いを何度も繰り広げ何とか原住民を立退かせ、開発し日本有数の銅山となった。幕末には一時採掘量が極度に落ちるも、明治期には当時の最先端の工業技術を駆使して再度開発した。おかげで銅が大量に採れたのであるが、結果発生したのは銅による被害であった。足尾銅山の下流の住民は千人単位で死亡し、また生き残った者もそのうちの万単位の住民が銅により体内が汚染され神経細胞が侵食され、歩くことも、自分の眼で人の顔を見ることさえもままならなくなってしまった。この悲劇は日本人なら誰もが一度は歴史の教科書で「田中正造」と一緒に習ったことがあるであろう。

しかし、このことはよく知っておいてほしい。足尾銅山の鉱毒被害で苦しんだのは全て群馬県民であり、栃木県民は一切被害にあっていないのである。足尾銅山で儲けたのはむしろ栃木県側であったのにもかかわらず!

というのも、足尾銅山の位置する地域の谷に流れている川はワタラセ川(渡良瀬川)なのである。これは実際にこの付近の地図を見てもらうのが一番わかりやすいのだが、渡良瀬川は上流はほんの少しだけ栃木県であるが、あとは全て下流側は群馬県である。したがって、いくら足尾銅山で鉱毒が発生し、渡良瀬川に毒が流れ込んだところで、苦しんで死ぬのは群馬県民であり、栃木県民は一切痛くもかゆくもなかったのである[6]。また栃木県の足尾銅山の会社はこうなることは計算済みであったとも言われている。つまり、栃木が群馬の住民を虐殺したといっても過言ではないのである。一説には古河財団が群馬の原住民に恨みがあり、群馬の原住民・住民もろとも抹殺する目的があったとも言われている。


この足尾鉱毒事件により、ついに群馬による栃木への憎悪は深まり、遺恨は決定的となった。実際、今もなお足尾銅山の鉱毒は下流に流れ続けているし、栃木との軍事境界線「イタクラ・フジオカライン」では21世紀になった今でも群馬の原住民と栃木県民により軍事衝突が起きている。

ただ、群馬と栃木が犬猿の仲と化しても、両毛地域では群馬県部分と栃木県部分が密接しているため、両国の行き来を禁止してしまうと、お互い経済的に立ち行かなくなってしまう。そこで、例外的に両毛地域に限っては通行許可証を持った住民のみに限り行き来を許可している。ただ、栃木県民が群馬に入った際、両毛エリアより先に侵入すると問答無用で射殺される。なので、栃木県民(栃木両毛エリアの住民に限る)が群馬で行けるのはキリュウやオオタシティーまでであり、それより先のイセサキ・マエバシ・タカサキに行くことはできない。もっとも、マエバシは平野部であるにもかかわらず未だに原住民の縄張りであるため、誰も行こうとは思わないであろうが(誰でも自分の命は惜しいであろう)。

最後に[編集]

以上の話で、いかに群馬県のほとんどがいかに文明人の住めない、文明社会に適さない地であることがおわかりいただけたであろうか。

また、この話を読んで知ったからといって、決して群馬県北部の山間部に住む原住民のことを馬鹿にしないで欲しい。確かに彼らは21世紀にはいっても人狩り(異民族の人の首を狩ってそれを家に持ち帰り、部屋に飾って自慢する風習)を続けているが、それは決して「野蛮」な行為などではない。大和民族は彼らに対してもっとはるか酷い弾圧行為・虐殺行為を今まで散々行ってきたのである。我々大和民族が彼らを散々怒らせてきたのであり、彼らともし和解したいならば、まず我々から彼らに友好的に話しかけ、今まで行った非道の数々をつぐなうのが先であろう。

脚注[編集]

  1. ^ 群馬は日本列島で最後に稲作が始まった地域であることは言うまでも無い。
  2. ^ なお、キリュウ自体も以前は首狩り族の生息地であったのだが、この地の名前が「キリュウ(=kill you と発音と全く同一)」なのは偶然とはとても思えず皮肉である。
  3. ^ 中には、「群馬=未開の地」というイメージを払しょくするためには、もっとスバルの工場が群馬にあることをアピールすれば良いなどと主張する者がいる[1]。しかしスバルの会社が望んでそれをアピールしなかったのだから、今更何を言おうと、明らかに無駄である。
  4. ^ なお、同様の理由で設けられた首都に、パキスタンの首都「イスラマバート」がある。イスラマバードは人口も少なく、(国の中で)栄えているアラビア海側からははるか遠くに離れているが、領土紛争を抱える「カシミール」に近い・緩衝地帯に適しているという理由で首都に選ばれた。
  5. ^ 実際、越後山脈の谷川岳では今もなお遭難・死者数が世界でダントツのトップである。世界最高峰のエベレストをも凌ぐ遭難死者が世界一多い山としてギネス認定されている。
  6. ^ 足尾は、日光・鹿沼・宇都宮・小山など他の栃木県側とは山を挟んで向こう側のため、川に鉱毒がいくら流れたところで「ほとんどの栃木県域」には被害が及ばないのである。

関連項目[編集]