織田秀信

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「織田秀信」の項目を執筆しています。
「・・・コメントしづらい奴だな。」
織田秀信 について、織田信長
「なんで西軍についたの?バカなの?死ぬの?」
織田秀信 について、徳川家康
「死ねってことだよ、言わせんな恥ずかしい」
織田秀信 について、高野山・金剛峰寺

織田 秀信(おだ ひでのぶ、1580年 - 1605年6月24日)は、安土桃山時代江戸時代戦国武将あの織田信長の孫である。幼名は三法師

出自[編集]

母親については諸説が錯綜していて判然としない。武田信玄の娘という説もあるらしいが、武田家と織田信忠の婚姻は破談になっているのでおそらく違うだろう。つまり良くわからないのである。もっとも当時において、母親がはっきりしない武将は決して珍しくない。ただ織田信長の孫としては少々わびしい感がある。

幼名の三法師は、偉大な祖父・信長の通称が「三郎」だったのでそれにあやかってつけられた・・・のではなく、「(当時は乳児死亡率の高かったが)三歳まで無事に育ったので三法師と呼ぼう」ということで名づけられた。これを聞いた信長信者の細川忠興は、のちに「三斎」と名乗るようになる。

生涯[編集]

彼が二歳の時、本能寺の変が起こり、祖父・信長、父・信忠は横死する。この時、秀信も二条城にいたのだが、前田玄以が連れて脱出している。

その後、豊臣秀吉の政略道具とされたことは有名である。ちなみに清洲会議において秀吉が彼を抱いて登場したというのは太閤記の創作で、この時に秀信はいなかった(あと滝川一益もいない)。

秀吉は秀信を大義名分として織田信孝と、信孝を補佐した柴田勝家を殺害。もう一人の候補であった織田信雄も、家督を継げなかったことに憤慨して秀吉に歯向い、すったもんだの末、領地を召し上げられた。

こうして織田家の主要な人間がことごとく没落したせいで織田家の棟梁となった秀信だが、当然、実権は秀吉が握っており、名ばかりの君主であった。秀吉が関白になると主従関係は逆転し、秀信のほうが家臣となってしまったが、なにぶん彼には「秀吉は家臣である」という記憶がほぼ無いため、特になんとも思わなかったようだ。

没落[編集]

そういったわけで、関ヶ原の戦いではなんの疑問も持たずに西軍に味方した。結果はというと、近くにいた味方が東軍に寝返ってしまい、秀信勢を数で上回る福島正則・池田輝政に野戦で敗北。斬首されるところだったが、福島の嘆願により高野山に追放で済んだ。

しかし高野山の坊主たちは信長がかつて高野山を攻めようとしたため(未遂)、織田家を恨んでおり、秀信は高野山から追い出された。坊主のくせに人を助けないとは何事か。もしかしたら秀信がキリシタンだったことも関係してないこともなかったかもしれない。

その後すぐに死去。享年26。

関連項目[編集]