織田秀信

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「・・・コメントしづらい奴だな。」
織田秀信 について、織田信長
「なんで西軍についたの?バカなの?死ぬの?」
織田秀信 について、徳川家康
「死ねってことだよ、言わせんな恥ずかしい」
織田秀信 について、高野山・金剛峰寺

織田 秀信(おだ ひでのぶ、1580年 - 1605年6月24日)は、安土桃山時代江戸時代戦国武将あの織田信長の孫である。幼名は三法師

出自[編集]

母親については諸説が錯綜していて判然としない。武田信玄の娘という説もあるらしいが、武田家と織田信忠の婚姻は破談になっているのでおそらく違うだろう。つまり良くわからないのである。もっとも当時において、母親がはっきりしない武将は決して珍しくない。ただ織田信長の孫としては少々わびしい感がある。

幼名の三法師は、偉大な祖父・信長の通称が「三郎」だったのでそれにあやかってつけられた・・・のではなく、「(当時は乳児死亡率の高かったが)三歳まで無事に育ったので三法師と呼ぼう」ということで名づけられた。これを聞いた信長信者の細川忠興は、のちに「三斎」と名乗るようになる。

生涯[編集]

彼が二歳の時、本能寺の変が起こり、祖父・信長、父・信忠は横死する。この時、秀信も二条城にいたのだが、前田玄以が連れて脱出している。

その後、豊臣秀吉の政略道具とされたことは有名である。ちなみに清洲会議において秀吉が彼を抱いて登場したというのは太閤記の創作で、この時に秀信はいなかった(あと滝川一益もいない)。

秀吉は、3歳児の秀信は織田家直系の血を引く信長の嫡孫であるという大義名分を掲げ、織田家の新当主として迎えるべきだと主張。前々から秀吉と対立してきた織田家重臣の柴田勝家は信長の三男で器量がよい織田信孝の擁立を唱えていたのだが、血筋第一とする秀吉の主張を論理的に否定することは難しく、秀吉の意見が通り、秀信が織田家の新当主となった。なお勝家は秀吉と決裂した後でも、織田家当主交代を主張できず、後見役に信孝をというのが精いっぱいであった。結局、秀吉は賤ケ岳の戦いで、織田信孝と、信孝を補佐した柴田勝家を滅ぼす。もう一人の候補であった信長の次男・織田信雄は秀吉に最初は利用され、信雄が秀信の後見役に収まるのだが、秀吉はもはや織田家を飛び越して自分が天下人になろうと野心を剥き出しにする。これに憤慨した信雄は秀吉に歯向い、すったもんだの末、秀吉の家臣として降るも、最終的に秀吉から領地を召し上げられた。

こうして織田家の主要な人間がことごとく没落するなかで、織田家の当主として成長していった秀信だが、秀信が物心ついた時には、織田家は秀吉に仕える一大名に転落していた。すなわち主従関係は逆転し、秀信のほうが秀吉の家臣となってしまっていた。そもそも「秀信」の名前一つみても、織田家代々に使用されている「信」の前に「秀」が来ており、主従関係逆転を如実に物語っていた(ただ曾祖父織田信秀と名前が逆転するという珍現象を生んだ)。もっとも、なにぶん秀信には「秀吉は織田の家臣である」という記憶がほぼ無いため、特になんとも思わなかったようだ。なお秀吉からは、秀信に中納言という、100万石の大大名と並ぶ高位高官に任命されたが、所領は岐阜13万石と、秀吉が取り立てた新規大名の石田三成加藤清正よりも少なく、織田の天下復権が起きないように警戒されていた。

没落[編集]

そういったわけで、関ヶ原の戦いではなんの疑問も持たずに、豊臣家の天下を守ろうと主張する石田三成の西軍に味方した。結果はというと、近くにいた味方が東軍に寝返ってしまい、秀信勢を数で上回る福島正則・池田輝政に野戦で敗北。斬首されるところだったが、福島の嘆願により高野山に追放で済んだ。

しかし高野山の坊主たちは信長がかつて高野山を攻めようとしたため(未遂)、織田家を恨んでおり、秀信は高野山から追い出された。坊主のくせに人を助けないとは何事か。もしかしたら秀信がキリシタンだったことも関係してないこともなかったかもしれない。その後すぐに死去。享年26。なお秀吉は幼少期から秀信に「天下は回り持ち」であり、家来だった秀吉が主君織田家の天下を奪取したことは世の道理であると「教育」(洗脳)することに成功していたが、秀吉の死後、家来だった徳川家康が今度は主君豊臣家の天下を奪取した。しかし豊臣家の方は、徳川の天下で大勢が決しても、徳川への臣従を全国の大名で唯一拒み、「徳川は豊臣の家臣である」と言い続け、最後は徳川と合戦して滅ぼされてしまうという皮肉な結果となった。

関連項目[編集]