織田秀信
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織田 秀信(おだ ひでのぶ、1580年 - 1605年6月24日)は、大名。織田信忠の嫡男で、織田信長の嫡孫にあたる。幼名は、三法師。
[編集] 生涯
本能寺の変で信長が横死したときは、二条城にいた。信忠の命により、前田玄以によって脱出させられる。その後、豊臣秀吉の政略道具とされ織田家の家督を継ぐが、名ばかりであった。岐阜13万石を領有したときに、大叔父の織田有楽斎が父の信忠に自害を勧め、自身は勝手に逃げたことを家臣から聞いたため、正月の祝いの席で「このヤロー!父上を見殺しにしやがって!天誅!!」と言って殺害した。しかし、数日後ひよこ陛下の力で有楽斎は復活した。
関ヶ原の戦いでは西軍に味方し、ド派手な甲冑で前哨戦に出陣。家臣は諫めたが、「祖父さんができた(桶狭間の戦い)んなら、オレもできるぜ!!」とか言って無理矢理打って出たが、瞬く間に敗れて籠城をしたものの最終的に開城し、池田輝政によって弟の秀則とともに自刃するところを止められた。その時、「タヌキ爺に追放されるなら死んだ方がマシだ~!!!」とずっと叫んでいたため、福島正則らから失笑をかったという。
そして、高野山へ送られる。しかし、信長の行った高野攻めが仇となり、高野山からも追放されたというが、実際は高野山の僧を「何でオレみたいなすげぇサラブレッドがこんな寂れた所にいなけりゃなんねぇんだよ!」と言って辻斬りしたために追放されたのである。失意の内に死去。享年26。辞世の句は「鳴かぬなら タヌキを殺せ ホトトギス」。
[編集] 子孫
子供はないと言われてきたが、織田信久と織田左右衛門佐三郎信和と娘(六角氏郷室)がいたことが判明。しかし、信久は本能寺で信和は安土城でともに「キンカン頭カス!サル死ね!タヌキボケ!」という奇声とともに死去。娘は関ヶ原の戦いの際、大坂城にいたので、家臣に助けられ岐阜城に向かって秀信の母と妻と娘は一緒に逃げたが、さすがに全員では逃げ切れないので秀信の母と妻は殺された(娘は奇跡的に助かった)。その後、娘は六角氏郷を産んだらしいので嫡流男系は断絶したが、嫡流女系は平成時代まで子孫を絶やすことなく続いている。

