細川重賢

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細川 重賢(ほそかわ しげかた)は、江戸時代中期の熊本藩の藩主。借金で首が回らずガタガタに揺らいでいた財政基盤を立て直したため、「肥後の鳳凰」と呼ばれ、上杉鷹山と並ぶ江戸時代中期の名君として礼賛されている。名君として名高い重賢だが、実は自分が藩主の座に収まるために間接的にではあるが兄貴を殺している。無論、重賢とその取り巻き達が周到な隠蔽工作を行った為証拠は一つも残っていない。

藩主になるまでの経緯[編集]

重賢は6代藩主、細川宣紀の四男として生まれた。藩祖細川忠興以来続いてきた熊本藩は、財政の悪化によって赤字となっており、宣紀が藩主になる頃には膨大な借金を抱えていた。宣紀や、その後を継いで7代藩主となった重賢の兄、細川宗孝は凡庸であり、減退の一路を辿る財政を改善できず、負債は山積みに累積していった。

そんな中、宗孝が板倉勝該という旗本に殿中で突然斬りつけられ死亡するという刃傷沙汰が発生する。殿中の刃傷沙汰においては喧嘩両成敗が適用され、斬った板倉のみならず、細川家にまで改易の危機が迫った。藩主を殺された上に藩も取り潰されそうになる、ただでさえ借金地獄で塗炭の苦しみを味わっているのに、泣きっ面に蜂が指すように藩主を刃傷沙汰で失い、挙句藩の取り潰しまで沙汰され、熊本藩士達は踏んだり蹴ったりであった。

この時、藩の窮地を救ったのが重賢であった。重賢は幕府の重役達に、宗孝は事切れる間際に自分を末期養子に指名した、だから兄から自分への家督継承、藩主襲名は円滑に行われるということにしておくよう要請した。さらに、重賢は取り潰しを回避する為に、幕府の重役達に半ば脅迫めいた警告をする。

今、熊本藩は借金地獄で、藩士も領民も皆生活が逼迫していて、気が立っている。その上藩が取り潰しにされては、 間違いなく暴発するであろう。 そこまで見通して覚悟した上のことなら、どうぞ末期養子を認めず取り潰すがよろしい。

というのが、警告の趣旨であった。

この脅迫めいた警告は奏功し、重賢は無事家督を継承することができた…と言う顛末の話が、熊本藩の史料に伝わっている。いかにも胡散臭い話と言える。重賢が前もって色々と根回しをし、間接的に宗孝を亡き者にした可能性も、もしかしたらあるかもしれないが、死人に口なし、仮に重賢の画策があったとしても、証拠は全て抹消されているに相違なく、真相は闇の中である。

藩政改革[編集]

藩主になった重賢は、ほぼ破綻した状態である熊本藩の財政の立て直しを図った。堀勝名蒲池正定といった経理に明るい怜悧な人物を抜擢した…と言えば聞こえはいいが、換言すれば自分の腰巾着達を要職に取り立てただけに過ぎない。しかし、彼らはいずれも有能な人物であり、改革に貢献してくれたのが救いであった。

改革に着手した重賢は、産業を振興、奨励させ、刑法を改定した。改革の大雑把な趣旨は、他の藩で行われた藩政改革とあまり変わらないのだが、それを実施するのは大変である。成就できず、頓挫してしまった改革も多い中、改革を達成させた重賢は、例え藩主の座に収まるために兄貴を殺していたとしても、やはり名君と言えるだろう。

ところで、古来、改革を行うものは、おしなべて門閥などの既得権を持つ保守勢力からの反撥を浴び、「潰し」を食らうことがある。上杉鷹山も、改革に反対した保守派の家老達を蟄居させたり、切腹させたりしている。改革に流血はつきものなのだ。では重賢の場合はどうだったかというと、鷹山の改革ほど、流血や対抗勢力の排斥が行われた形跡は見られない。見られないのだから重賢は鷹山と違って穏便に保守派を説得したのだろう、だから重賢は鷹山より偉い、と、熊本県民達はお目出度い解釈をしているが、要は鷹山と違って流血や排斥が顕在化しなかっただけである。或いは流血や過激な排斥はあったが、重賢とゆかいな取り巻き達が形跡を抹消したのかもしれない。

極端な衣服の統制[編集]

重賢の政策で有名なのは衣服の統制である。家督を継ぐ前、重賢は部屋住みとしてみすぼらしい生活を送り、着衣に金を掛ける余裕がなかった。そういった若年期の苦い経験が原因で、重賢はファッションに気を使うリア充が嫌いだった。重賢は家臣領民全員に普段着はユニクロしまむらの服のみを着衣するよう命令し、必要以上に豪奢な衣服を着てる奴は容赦無く厳罰に処するという法令を出した。 しかしそのおかげで熊本藩の女忍者は衣装の布地節約という大義名分のもと露出の高い者だらけとなり、隣の薩摩藩から「お前の所の女忍者を度々領内で見かけるが、肌を露出しすぎてけしからん、もっとやれ」という謝礼苦情をしばしば受けるほどであった。

中興の祖-改革の切り札は嫉妬にあり[編集]

何はともあれ、重賢の尽力によって熊本藩の財政は回復した。ウルトラCの改革を成就させた重賢は、熊本藩中興の祖として称揚された。これらの改革を進めるための活力源として、重賢は熊本藩伝来の気風に目を付けた。それは藩祖・忠興に代表される「嫉妬」の気風である。自身も若き日を部屋住みとして着衣どころかその日の生活にも事欠く赤貧に喘ぐ日々を周りのリア充への羨望と嫉妬で耐え忍んで自己の研鑽に励みつつ臥薪嘗胆して機を待ち、ついに藩主の座を手にした重賢はこの嫉妬心を藩政改革の活力源とし、「妬み嫉みこそが人を動かす何よりの原動力である」という標語を掲げ、藩士達に更なる嫉妬を奨励した。

しかし、重賢の後はまた凡庸な藩主が続き、家老を始めとする藩士達もまた既得権の保全と保身にばかり傾注し、今までの因習をズルズルと引きずってしまった。加えて嫉妬の奨励という因習まで受け継いだ結果、幕末に横井小楠という傑物を輩出したにもかかわらず、小楠をその酒癖の悪さにかこつけて嫉み追い落とす事ばかりに明け暮れていたため、明治維新では薩摩や長州のような飛躍ができず、グズグズしている間に維新を迎えてしまった。

関連項目[編集]

Wikipedia
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