細川藤孝

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ゆっくり過ごしている細川藤孝。

細川 藤孝(ほそかわ ふじたか、天文3年4月22日 - 慶長15年8月20日)は室町幕府の最後の首相。本業はプログラマーで、政権管理ソフト「室町幕府Ver.15」の管理者の一人としても知られている。

業績[編集]

電脳界編[編集]

元来、細川一門が作成した政権管理ソフト「室町幕府Ver.1」は完成度の高いソフトであったが、プロデューサーである足利尊氏のお人好しな性格が災いして多方面からの要求を入れまくってしまい、基幹プログラムと補助プログラムの間のセキュリティーシステム(一番重要)を簡素化してしまい、後の破綻の元を作ってしまった。この問題を見抜いたVer.3のプロデューサー足利義満及びVer.6のプロデューサー足利義教が大幅梃入れを図ろうとしたものの、両者共々志半ばにして謎のNice boat.を遂げる。以降、情勢の変化に合わせたバージョンアップや追加プログラムを出したものの、逆にエラー多発の原因となり、問題解決は放置状態のままに終わった。別の解決策として「室町幕府支援ソフト『四職』vol.1」などが補助ソフトとして開発されたが、逆にシステムを不安定化させ、特に地方端末のプログラムにバグをもたらした。特にVer.7以降、政権管理機能の大半は失われ、下位システムである地方統治プログラム『Syugo』の暴走が始まった。

そのような中、システムの混乱を抑えるため権力統合ソフト「Runシステム『応仁』」が導入される。当初はシステムの安定化が期待されたが、このシステムは先述の『四職』との互換性に問題があり、『四職』システムの分裂(Hosokawa系システムとYAMANA系システムの衝突)をもたらした。

この様な難問の解決を押し付けられた藤孝は、もはや欠陥商品に成り下がっていた「室町幕府Ver.15」の保守を担当する中、織田システム株式会社が開発した「全国統治ソフト『のぶなが』」に興味を持つ。以後、積極的に『のぶなが』の導入を働きかけるものの、またしても完成間近にプロデューサーが謎のNice boat.を遂げる。藤孝は責任を取って室町幕府を退職して幽斎玄旨と号し、茶人及び御城警備員として余生をまっとうした。

文芸界編[編集]

上記の様に政権管理ソフトのメンテナンス等が主任務であった藤孝であるが、その裏では文芸の名手としても知られていた。その知力は同業者だけでなく公家衆にまで知れ渡っており、八条宮智仁親王を筆頭とするセレブを愛弟子として抱える程であった。この弟子達の縁で構築した多大なコネクションが、彼が引き起こした田辺城警備事件の命運に多大な影響を及ぼす事となった。

ただ、優れた知能を持った文化人であった藤孝であるが子育ては上手では無かった様で、息子の細川忠興を幼い頃に高い高いをした所飛ばしすぎて天井に凄まじい勢いで叩きつけてしまった為、基本的に文化人であるものの異常に嫉妬深い男に育ち、後々「DQN四天王、西の忠興」とまで呼ばれるまでにおかしな子供になってしまったりと、プログラミング以外では不器用な面も有った様である。

武芸界編[編集]

プログラマー及び茶人・歌人と言うインドア系の職種で名を成した藤孝であるが、意外にもアウトドア系でも高い能力を発揮していた。事実、塚原卜伝に学んだ剣術を筆頭に多数の武術をマスターしており、これらの知識を利用し独自の武術『御城警備術』を考案。この武術には藤孝は自信があった様で、田辺城警備事件で御城警備作戦に打って出たのもその為であり、後述の大戦果を挙げる結果となった。その為、自宅警備業界では時代の先駆者の一人として高い評価を得ている。

エピソード[編集]

新規政権管理ソフトについて[編集]

完成度の高いソフトであった『のぶなが』は、有限会社羽柴設計(後の豊臣ソフト)が開発を引き継ぎ、「全国統一管理ソフト『豊臣1589』」として発売までこぎつけた。以降、石田三成らによってプログラム更新が行われたが、『のぶなが』」以降プログラム業界からは離れていた藤孝は、これに一切協力やアドバイスを行わなかった。コレまでの管理ソフトの主任プログラマーとして君臨していたプライドが災いしたのである。

結果、『豊臣1589』はVer.2以降のバージョンアップがうまくいかず、権利を引き継いだ徳川商事によってバージョンアップされた「政権管理ソフト『江戸幕府』」が発売された。『江戸幕府』は全体的に処理が重く、「海外との通信がほぼ不可能」という大きな欠点もあったが、動作が安定度は特筆ものだった。このため『江戸幕府』はユーザーに長く愛用されることになった。

『田辺城警備事件』について[編集]

関ヶ原の合戦の前哨戦とも言える田辺城警備事件は、当時御城警備員稼業を営んでいた藤孝の警備技術を結集して行われた大事件として知られている。

事の始まりは、1600年夏に徳川家康が畿内を留守にした隙を突き石田三成が決起した事から始まる。この際に、有力武将の安全確保を盾に彼らの妻子を抑えようとした所、貞操の危機と勘違いした忠興の愛妻ガラシヤがデウス様の下に逃走と言う事件が発生してしまう。田辺城でこの一件を知った藤孝は激昂し、僅か500の手勢で高らかに田辺城警備を宣言。赤っ恥をかかされた三成は、御城警備をする藤孝殲滅の為に1万5千の大群を向かわせる事となった。

こうして始まった田辺城警備事件であるが、この時の為に考案しておいた藤孝の御城警備技術が圧倒的人数差を跳ね返す。この事を予期して用意していた藤孝は、あえて攻略ポイントを一点だけ残しておいて其処に向かった敵に秘匿兵器を駆使し撃破すると言う戦術を披露。藤孝の武人としての底力を思い知らされた包囲軍は、力攻めをやめて分厚い包囲網を利用した兵糧攻めに移行となった。この戦略変更も、武人藤孝は先刻承知であった。この時の為に仕掛けた人身掌握術を駆使し、包囲軍の司令官を恩義を利用し戦意を奪い取るなどで手玉にとり続ける。この人身掌握術で最大だったのが、当時の日本最強の波紋破門使いである後陽成天皇の勅命発動であった。コレが決定打となり、結果は藤孝の田辺城退去と言う藤孝側の敗北に見えるが、大局的には約2万に膨れ上がった西軍を足止めし関ヶ原に遅参させ、東軍勝利に貢献すると言う殊勲を挙げる事となった。

この件は後々まで徳川一門に評価され、忠興の三男である忠利の時代に名城熊本城の御城警備の重責を任されることとなった。この責務を任された理由として藤孝の御城警備がモノを言ったのは言うまでも無い。

関連項目[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「細川幽斎」の項目を執筆しています。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「田辺城の戦い」の項目を執筆しています。