細川忠興

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索
「これはねえ、やっぱり狂ってますよ。この細川忠興は。
顔見てご覧なさい。目はつり上がってるしね。顔がぼうっと浮いているでしょ。
これ気違いの顔ですわ」
細川忠興 について、塩爺

細川 忠興(ほそかわ ただおき)は戦国時代の武士であり、戦国屈指のヤンデレである

概要[編集]

織豊政権、江戸初期の大名であり、細川藤孝の長男。信長、秀吉、家康と巧みに時流に乗り乱世を生き抜き、蒲生氏郷高山右近らと並んで利休七哲に数えられるなど文武両道の武将として名高いが、戦国一嫉妬深い男としても有名であり、同僚や藤孝を初め妻や息子にまで嫉妬した。バファリンの半分が優しさで出来ているというなら、彼の人生の八割は嫉妬で出来ているといっても過言ではない。妄想癖も激しく、妄想が先鋭化するあまり狂乱状態となることもしばしば。

戦国一の美女と謳われた細川ガラシャを妻に持ち、忠興は彼女を溺愛するあまり、彼女と半日セックス出来ないだけで禁断症状に陥り見境なくを振り回して暴れまわるという、雛見沢村出身ではないが常時L5発症している危険人物であった。ガラシャが関ヶ原で非業の死を遂げてからもこの奇癖は変わらず、忠興は発狂を防ぐために性欲が溜まると懐からガラシャの写真を取り出しては自慰に耽っていた。「ガラシャの写真だけで1000回抜ける」は晩年の忠興の名言。

だが、ガラシャに対して独占欲を剥き出しにしていながら自分は彼女の死後の事とはいえ側室を抱えた。このため天国のガラシャは激昂、黙示録の騎士となって化けで出てきて、熊本藩を荒らしまわり凶作に陥れたという。そのせいで、熊本藩は細川重賢が再建するまで日本屈指の貧乏藩となってしまった。

生涯[編集]

信長時代[編集]

父藤孝と共に織田信長織田信忠父子に仕え、信忠の諱から一文字を戴き忠興と名乗る。幼少期、信忠の前で弟細川興元と共に和歌を読んだ折、信忠が興元の和歌の方を誉めたことに嫉妬し、帰り道の道中突如興元に襲い掛かって暴行を加え全治3ヶ月の重傷を負わせ、藤孝を驚愕させる。早くもこの頃から忠興はその嫉妬深さと凶暴さの片鱗を見せ始めていた。その傍ら「牛殺しの与一郎」の二つ名をとる父に総合格闘術を学んでおり、基地外に刃物の状態となってしまった。その格闘能力は意外にあなどれないものがあり、初陣で早速敵武将を撲殺して信長から自筆感状を与えられた。また藤孝は和歌の名人、一流の文化人としても名を馳せ、その教養の高さは戦国一と呼ばれたほど。その親父から忠興は和歌や茶道を教わりその教養も受け継いだ。つまり戦国一のインテリヤクザだったのだ。

信長の家臣として、忠興は父と共に明智光秀の家来となる。忠興は父藤孝に従軍して一色氏を下して丹後を平定するが、一色氏の抵抗に手を焼き、光秀の後ろ盾を得てようやく降伏させる事に成功した。しかし忠興は光秀の輝かしい活躍に嫉妬し、父藤孝を不甲斐ないと駄目だしした。しかしこの一件で光秀との縁が深まり、光秀の娘玉子(芸名:細川ガラシャ)を娶る事となる。才色兼備の玉子と床を共にするようになった忠興の胸に去来したのは、愛しみの心などではなく、この育ちのよい才媛に対する嫉妬であった。忠興のガラシャに対する最初の台詞は「何故お前は俺より顔の造が良くて、物分りの良さそうな顔をしているんだ、深窓の令嬢みたいにいい子ぶりやがって気に入らん」と、とても新妻に夫が言う言葉は思えない暴言であった。玉子もこれには絶句し、やがてこれが忠興の性なのだと認知するまではしばしの時を要した。しかし嫉妬すると同時に忠興は玉子に激しい愛情を注ぎ、あまりに激しすぎたのか、夜な夜な閨での玉子の喘ぎ声が宮津城全域に響き渡り、この喘ぎ声は丹後国の名物となった。

一方、なおも局地的に抵抗を続ける一色氏に対しては一色家の当主一色義定には忠興のを嫁がせる事で和睦したが、細川父子を苦戦させたこの勇壮な一色家の当主に、武将としての忠興の嫉妬心が白熱したのは言うまでもない。その燃え上がる嫉妬心は即座に殺意へと変貌し、本能寺の変後のドサクサに乗じて、忠興は義定を騙し討ちにかけて謀殺し、これに激怒した叔父の一色義清が徹底抗戦の構えを見せるという騒動を引き起こす。結局父藤孝が尻拭いをさせられる形で一色氏を討伐。四職の一つに名を連ねた室町以来の名族一色氏は、一人の男が妄想により増幅させた嫉妬によってここに滅亡した。

本能寺の変[編集]

本能寺の変の後、父藤孝と共に忠興は光秀の誘いを拒否した。忠興の妻玉子は逆臣の娘となってしまい、本来ならば離縁しなければならなかったが、彼女を溺愛する忠興にとって離縁するなど以ての外であった。忠興はもし離縁した場合玉子がどうなるか勝手に妄想し、妄想は膨らみ離縁後ガラシャが遊女に身をやつして無頼漢どもの肉便器となって陵辱されている姿を思い描いて発狂寸前になってしまい、城の柱に頭を幾度となくぶつけ藤孝に精神病院に入れられそうになる。この常軌を逸した想像力はオスカー・ワイルドに通ずるところがある。

しかし一人で勝手に妄想して暴走する忠興とは対照的に玉子は冷静であり、むしろ自分を幽閉するようにと忠興に進言する。自分は一人妄想を激化させ狂乱して滑稽極まりないのに、逆賊の娘となったにも拘らず狼狽することなく、むしろ平然と夫の為に自らを犠牲にしようとする献身的な妻と比較してあまりに己が恥ずかしくなった忠興は顔面を紅潮させた。それだけならまだいいのだが、何と忠興は「女のくせに俺より冷静で物分りのいい奴め、よくも俺に恥をかかせたな」と逆恨みし、玉子を幽閉してしまったのである。逆恨みも何も、忠興は一人勝手に妄想して勝手に赤面していたのだから、その脳内一人芝居に巻き込まれた玉子としてはたまったものではない。

幽閉されている間、玉子の心の支えとなったのは清原マリアをはじめとする彼女の侍女達であり、後に玉子がキリスト教に帰依して細川ガラシャとなる際、彼女達の多くが共に帰依している。忠興は自ら幽閉しておきながら性欲を我慢しきれず、もとい初めから我慢なんか出来ず、それよりも今までと違う場所でコトができると燃え上がった結果、度々幽閉先の屋敷を訪れては玉子とアーン♥♥していた。事実、次男の細川興秋は、玉子の幽閉中に生まれている。しかし玉子が侍女達と談笑している様を目の当たりにした忠興は嫉妬心を爆発させ、侍女数名の鼻を削いだり、ある侍女は遊郭に売り飛ばしたりした。流石にこれには玉子も激怒し、一時期忠興とは口も利かなかった。玉子の抵抗に対して忠興も最初は強情を張っていたが、性欲を抑圧できなくなったことで次第に弱気になり、仕舞いには土下座してすすり泣きながら玉子に許しを乞うた。そしてその様子を見ると、玉子はそれまでの強張った態度を一変させて忠興を許した。この頃の玉子はキリスト教に帰依してガラシャの洗礼名を受け、宣教師の薫陶を受け幾分か寛容な人格になっていたからだといわれるが、自分の侍女の鼻を削いだり人買いに売り捌いたりするような気違いの旦那といつまでも結婚生活を続ける辺り、やはりこの妻も常人ではない。

ちなみにキリスト教宣教師たちは忠興のことを「残酷で悪辣」「極悪の異教徒」などと記している。宗教的偏見には定評のある彼らだが、これについては全くの事実と認めざるをえない。

本能寺の変の際、忠興同様光秀の友人だった筒井順慶はパニックを起こして居城に引きこもってしまっている。その為後世で日和見主義者となじられ洞ヶ峠などというありもしない逸話をでっち上げられてしまった。一方、忠興は信長をキチガイとして尊敬していたので、信長を殺した光秀が許せず、光秀に協力せず、という姿勢を取った。真面目な順慶はその後光秀を見殺しにした罪悪感から精神を病んで早死にしてしまったが、忠興は寸毫も罪悪感を抱かず83歳の天寿を全うした。キチガイが身を救ったのである。

秀吉時代[編集]

朝鮮出兵に前後して石田三成ら能吏と福島正則加藤清正ら武闘派との対立が激化すると、嫉妬深い忠興は三成ばかり優遇することに憤慨する正則や清正らに共感して反三成派の急先鋒となる。しかし忠興は同時に、自分ほど戦歴や武功を重ねていないくせに太閤の子飼いだからと言う理由で高禄を食み大役を任される正則や清正に対しても嫉妬していた。文禄・慶長の役ではこの嫉妬を原動力に力戦した。さらに、父藤孝に対しても、コンプレックスと大衆が藤孝ばかりを一流の文化人と持て囃し自分には目もくれないことの淋しさから嫉妬心を燃やし、千利休に師事したり兜造りの造詣を深めてゆく。今日、忠興は父藤孝同様に一流の文化人として知られているが、彼を文化人たらしめたのは父親への嫉妬心であった。

また朝鮮出兵の折、加藤清正や浅野幸長は朝鮮の女やと片っ端からヤリまくって梅毒に感染したのだが、ガラシャ一筋の忠興は現地で全く女遊びをしなかった。しかし、朝鮮にいて祖国のガラシャとセックス出来ないのでムラムラが溜まり、部下をストレス発散の為に斬殺することもしばしば。部下達は忠興の機嫌を損ねるのが恐ろしくて安易に発言も出来ず、細川の軍隊は常時緊迫していた。それが朝鮮の軍には極めて統率の取れた軍勢に見えたらしく、朝鮮の文献には「細川軍が最も指揮が取れていた。忠興は名将である」という旨の記述がある。だが、この記述の為に後世の日本人から「日本をケチョンケチョンに貶す朝鮮に褒められるなど、忠興は朝鮮軍に賄賂を渡して内通していたに違いない、忠興は朝鮮のスパイだ」などと言いがかりをつけられた。言いがかりをつけた人物の中に西郷隆盛がいる。彼は薩長で新政府の主要メンバーを独占したかったので、忠興の末裔が統治した熊本藩が明治政府に入ってこれないよう、熊本を攻撃する口実として忠興朝鮮内通説というデマを利用したのであった。

妻の死[編集]

関ヶ原の合戦では東軍に与したが、石田三成は人質を取る作戦を出、京都にある東軍諸将の大名屋敷を襲撃する。加藤清正黒田長政の正室らは、主命を受けた家臣達が闇夜に紛れて無事脱出させたが、誰よりも正室を溺愛している忠興は何故か妻を脱出させようとしなかった。想像力豊かな忠興は、仮に脱出させてもガラシャの美貌に性欲を抑えきれなくなった家臣の誰かがチョメチョメしてしまうのではないかと妄想し、さらに脱出に失敗して捕虜にでもなってしまったら最期、石田三成ら西軍の鬼畜諸将に陵辱されることは疑いなく(忠興はそう確信していた)、ガラシャが陵辱される姿を頭の中に思い描いてしまった忠興は金切り声を張り上げて狂乱状態に陥る。しばし暴れまわった末に家臣の一人に水をぶっ掛けられて正気に戻った忠興は妻は誰にも渡さんと決心を固め、妻に自害を強要した。

このあまりにも身勝手な夫の命令をガラシャは従容として受け入れ、西軍に屋敷を囲まれる中、屋敷に火を放ち自ら命を絶った。キリスト教の教義に従い、自害せずに家臣の小笠原少斎に胸を突かせ、その薄幸の生涯を終えたという。彼女の不幸の原因の八割は忠興のような気違いの旦那をもってしまったことなのだが、ガラシャ自身は最期の時までさほど忠興を怨んでいなかったようである。あの気違いの伴侶となった時点で、自分の命運は決していたと諦観していたのかもしれない。

ガラシャの死の一件は、女性の人権が向上した現代からは考えられないことであるが、当時はさして驚くほどのことでもなく、西軍諸将は「よくあること」と大して気に留めなかった。しかしやたらと義侠心に篤い三成はショックを受け、人質を取る事をやめてしまう。

また忠興がガラシャに自害を強要した、と言う話は、忠興を気違いと貶めたいがために、ガラシャが死亡したという事実のみを利用して捏造された創作ではないかとの見解もある。しかし末裔に当たる細川護煕総理大臣は「忠興公ならいかにもやりそうだ」と述べている。

尚、加藤清正や黒田長政も、もし捕らえられるようなことがあればその時は自害しろと妻に命じていた。しかし彼らの言い分は面子が潰れるからというものであった。自分以外の誰にも指一本触れて欲しくないから妻に死ねと命じたのは忠興一人である。

関ヶ原[編集]

妻の死の報を受けた忠興は、その死を悲しむどころか妻の身が自分以外の男に汚されずに済んだことを安堵していた。しかし時が流れるにつれ妻の命を奪った三成[1]に対する憤怒と、もう二度と妻とエッチ出来ないと悟った寂寥感がじわじわと胸中に込み上げ、関ヶ原の直前になって累積した感情が破裂し、関ヶ原本戦において、忠興は発狂状態となり敵味方構わず刃を振るい、西軍はおろか東軍の諸将さえも震え上がらせた。三成は妻を失った悲しみで怒り狂う忠興の絶叫を遠くで聞き、敵ながら一人罪悪感に苛まれたというが、どう見ても忠興の逆恨みです本当にありがとうございました。

合戦後[編集]

関ヶ原の合戦は結局東軍の勝利となる。一般に勝敗の決め手となったのは小早川秀秋の裏切りと言われており、忠興激怒の奮戦はさして勝敗の趨勢に影響を及ぼさなかったようである。そればかりか、正気を失った状態で戦っていた忠興は同士討ちをして味方の足を引っ張ったとまで言われている。ちなみにこれは黒田長政の弁である。

関ヶ原の合戦の後、敗れた石田三成は伊吹山中で捕らえられ、京都で晒し者とされた。福島正則等が罵声を浴びせる中、一番三成に怨みの深いはずである忠興は、ただ馬上で無言の会釈をしてその目前を通り過ぎた。気違いであるが文化人でもある忠興は所作を弁えていたと言う見解も有れば、怒りの絶頂を越えて精神が虚脱状態にあっただけだとも言われる。

また、この関ヶ原の合戦では、親父の細川幽斎(細川藤孝)も領土のある丹後国で西軍の大軍を食い止め、関ヶ原東軍の一介の武将としてそこそこの武功しか挙げなかったヤンデレ息子の忠興を遥かに上回る善戦をした。最終的に降伏したものの、戦国随一の知識人・文化人の命が失われるのは惜しいと宮中の公家達が助命嘆願をして藤孝は命を長らえた。ところが、その親父に対して、忠興は

「武士たるもの城を枕に潔く討死を遂げるのが常識だろ。無様。醜い」
自分の父親の細川幽斎 について、細川忠興

と、思いっきり罵倒した。とんでもない親不孝者である。なぜこんなことをしたのかと言えば理由は明白である。自分より年食った老父の方が武功を立てたのが気に食わなかった。そして、ガラシャを失った落胆とストレスから親父に八つ当たりした。それだけに過ぎない。実にシンプルであった。なお幽斎はこんな忠興に流石に愛想を尽かしたのか、彼に随行して九州熊本へは行かず京都で余生を過ごした。

その後、忠興は豊前小倉に所領を得て、ガラシャを弔いながら静かに余生を過ごしました。めでたしめでたし…?

それからの忠興[編集]

忠興については本能寺や関ヶ原前後でのガラシャ関連の話ばかりが有名であるが、実は彼の嫉妬深さと気違いぶりに拍車が掛かるのはむしろ関ヶ原の後である。

忠興の後を継いだのは三男の細川忠利だが、これは長男細川忠隆と次男細川興秋の二人がいずれも忠興の怒りの琴線に触れて放逐されたためである。元々忠興は最も面影がガラシャに似ている忠利を愛し、上二人の息子を蔑ろにしていた。忠隆は前田利長の娘を娶っていたが、ガラシャが非業の死を遂げた際、忠興はその妻が共に自害しなかった事を咎め、離縁を迫った。無論忠隆はこれに抗弁、妻を庇いだてしたが、感情が高ぶるあまり、「妻に自害を強いる方が人の道に外れている、父上は気が狂っている」と正論だが言ってはならないことを言ってしまったため、忠興の怒りの導火線に火をつけ、結果忠隆は廃嫡、追放されてしまう。忠隆と前田利長の娘との夫婦関係は忠興、ガラシャの夫婦間よりも円満であり、一説には自分達より仲の良い息子夫婦に嫉妬した忠興が無理矢理仲を引き裂こうとしたと言われている。

次男、興秋もまた、父の愛情が弟の忠利にばかり注がれていたため偏屈な人格に育ってしまい、嫉妬心から弟忠利に暴行を働いたりすることがあったという。その嫉妬深い性格はまさに忠興の生き写しであったが、同属嫌悪ゆえか忠興はこの次男も忌み嫌い追放してしまう。興秋は後に大坂の陣で西軍に組し、戦後父親自らの手で処断された。

そして家督を継いだ三男忠利との仲さえも決して良好ではなかった。忠興は忠利に亡き妻ガラシャの面影を重ねるどころか、忠利をガラシャと同一の存在に見ており、あろうことか押し倒して近親相姦に及ぼうとしたのである。男色を忌嫌い衆道を法度とした忠興であったが、一度妻の面影を忠利に見てしまった忠興には、もはやか、目の前にいるのが実の息子である事さえ判別出来なくなっていた。この一件で恐怖心を植え付けられた忠利は家臣に命じて忠興を一時期別邸に幽閉している。しかし忠興は外から厳重に鍵がかかった扉をぶち破り、忠利の元まで夜這いしてゆき、再び忠利を戦慄させた。

人格者であり名君と慕われた忠利は忠興に先立って死去するが、その死に際し殉死する家臣が11人にも及んだ。忠興が嫉妬した事は言うに及ばず、遅れながらも後を追おうとした阿部弥一右衛門が切腹しようとしていると知った忠興はこれを強引に制止し、「殉死するなら、息子ではなく俺の死に殉死しろ」と命令、しかししぶとい忠興は息子忠利の死後尚5年も晩節を汚し長生きし、その間阿部弥一右衛門は主君に殉じなかった臆病者の謗りを受け居た堪れなくなり結局は忠利に殉ずる形で自害した。これを知った忠興は激昂して阿部一族を処罰し、弥一右衛門の息子達が自暴自棄になり暴動を起こして粛清されるという悲劇を招いている。[2]

人物・逸話[編集]

  • 隈本へ移封された際、隈本の民は優れた治世を行った加藤清正を慕っており、新たな領主である細川氏の風評は芳しくなかった。忠興は十年以上も前に逝去したかつての同僚清正に今更ながら嫉妬心を露にし、清正の名前を口に出しただけで無礼討ちにされた民もおり、挙句の果てには加藤清正について一切語ることを禁ずる緘口令が敷かれる事となり、忠興が死去するまで続いた。また同じ加藤だからという理由で全く無関係の加藤嘉明にさえ嫉妬心を露にし、しまいには「細川の苗字に比べて加藤の苗字が圧倒的に多いのが気に入らない」などと言い出す始末であった。
  • 武芸の嗜みのある忠利は、各地から名高い剣客を招聘し、燕返しで有名な佐々木小次郎を気に入り剣術師範として抱えた。しかし忠利が小次郎とばかり親しくしていたため無論忠興は嫉妬し、小次郎が忠利と性的な行為に及んでいるのではないかとあらぬ妄想を抱くようになる。男色を極度に嫌う忠興は汚い肉棒で息子を辱めにした(と忠興が勝手に思い込んでいる)小次郎に殺意を抱き、同じ剣豪である宮本武蔵に小次郎暗殺を持ちかけ、小次郎を陥れ巌流島に誘い出し、集団リンチに掛けてなぶり殺しにした。尚、後年細川家は松山主水と言う剣客を再び抱えるが、小次郎と同じ理由で主水も謀殺されている。
  • 次男・興秋はどういうわけか剣の道を究めようと出奔してしまった。怒り狂った父・忠興は剣鬼喇嘛仏という大変恥ずかしい忍法で息子を引き留めようとしたが失敗。興秋は大坂の陣で豊臣方で戦い、それが父の怒りに触れ自害することになってしまった。
  • 一色義定の室となった忠興の妹も彼に負けず劣らずの烈女であり、夫を殺された恨みから忠興に斬りかかり鼻の先端を剃り落としたばかりか、その後もを成敗しようと虎視眈々と狙い、忠興を庇い彼女との間に立ち塞がったガラシャに対して放ったお義姉ちゃんどいて!そいつ殺せない!という台詞は21世紀まで語り継がれる名言となった。
  • 黒田長政とは昵懇の間柄であったが、剛勇で知られる後藤又兵衛が黒田家を出奔した折忠興が召抱えようとしたのを、又兵衛を獲られることが口惜しい長政の横槍によって妨害され、忠興が「いい年をした男の嫉妬ほどみっともないものはない」と反駁した事で長政と喧嘩別れになり、そのまま黒田家と細川家は絶縁状態となった。お前が言うなとはまさにこの事である。
  • 世継となった忠利の、篤実で温和な人格形成には、幼い頃の父の酔狂ぶりを目の当たりにし、それを反面教師としたところが大きい。しかし忠興は自分の教育が良かったおかげだととんだ勘違いをしていた。まあ、ある意味間違ってはいないのだが。
  • 利休七哲に数えられる忠興だが、この利休七哲は忠興以外にも茶器を眺めてゲヒヒと薄気味悪い笑みを浮かべる古田織部カルトの為には私財さえも全て投げ捨てる高山右近とは別ベクトルのうつけ者・織田有楽斎、そして不可解な行動をとった挙句仕舞には自らうんこを名乗る荒木村重など、千利休本人も含めて揃いも揃って変人揃いである。
  • 妻・ガラシャは夫の乱行にやっぱり怒っていたようで、恨みの余り死後魔界転生してしまった。
  • ガラシャの顔を見ただけで庭師の首を刎ねたりと斜め上の行動が目立つ男で後年、DQN四天王、西の忠興」という有り難くない異名を付けられる。が、しかしガラシャさえ絡まなければ四天王では一番の良識派として認識されている。
  • 忠興の嫉妬深さは熊本藩士にも感化を与え、後に熊本藩が借金地獄で財政が払底になって貧しさゆえ人心が荒んだ事も相まって、熊本藩には嫉妬深い気風が形成された。熊本藩中興の祖にして「肥後の鳳凰」と呼ばれる細川重賢はこの嫉妬心を藩政改革の活力源として見事財政の建て直しを成し遂げた。重賢は「妬み嫉みこそが人を動かす何よりの原動力である」という標語を掲げ、藩士達にむしろ嫉妬を奨励した。
  • が、その為幕末に横井小楠という傑物を輩出したはいいが、他の熊本藩士達は小楠を嫉み追い落とす事ばかり考え、熊本藩は維新回天に乗り遅れてしまった。ちなみにその横井小楠、酒が入ると狂人と化し見境なく暴れまわる悪癖の持ち主で、酒が入ったときの小楠の狂いっぷりは「藩祖忠興公が乗り移ったかのよう」と言われた。

注釈[編集]

  1. ^ ガラシャが非業の死を遂げた原因はどう見ても忠興にあるのだが、忠興自身はガラシャは三成に殺されたようなものと確信していた
  2. ^ 一連の顛末は森鴎外などによって小説化されている。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「細川忠興」の項目を執筆しています。