米内光政

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畏クモ天皇陛下ハ御自ラ全臣民ノ爲ニ
本項ノ全内容ヲ天覽遊ハサレタリ
Naval Ensign of Japan.svg 大本營認可
本項ノ全文章及全内容ハ完全ニ正シキ事實トシテ大本營ニ依リ認可セラレタリ
全臣民ノ爲ニ畏クモ現人神タル天皇陛下ハ御自ラ本項ニ御目ヲ通サレ給ヘリ
此ノ項目ノ内容ヲ疑フハ現人神タル天皇陛下ヲ疑フト同義ニシテ
誤リタル思想ヲ持ツトセラルヽ場合ハ政治犯思想犯トシテ内亂罪ノ對象トス
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米内 光政(よない みつまさ、1880年3月2日 - 1948年4月20日)とは、大日本帝国内閣総理大臣を務めた人物。海軍大将。別名、七三分けの軍人。名前に「」と「」という、似たような字が重なっているので、「米内 米政」(よない こめしょう)や「光内 光政」(こない みつまさ)と間違えられたりする。というか「米内」が読めず、「こめがない」とか「よめない」とか誤読が絶えない。日本の国民の97パーセントがこの人物の苗字を正しく読めないという統計調査の結果もある。

生涯[編集]

生まれ[編集]

1880年、岩手県盛岡市に生まれる。父は米内受政。元藩士で選挙に何度も、立候補し落選した為、[1]家は貧乏だった。その為、中学生で牛乳配達や新聞配達、挙句の果てに万引きを仕出かした。

その後、21歳で海軍学校を卒業。成績は、中の下の中の下とややこしかったらしい。

海軍にて[編集]

彼は、前述の通り、成績が悪い上[2]に「兵隊なのに、スキンヘッドにしていない。」と言う理由で、「クビ5分前」「流刑地」「ソックパペット永住の地」と呼ばれる役職に就かされた。この間、彼はまさに自宅警備員であった。この頃はインターネットなど、なかったので、一日中、読書をしていたらしい。読書と言っても、決して、アーン♥♥な本を読んでいたわけではない。と言いきれない。この時に、例の読書法を編み出したと思われる。その読書法とは、

  1. 1回目は飛ばし読み。(1ページ1秒で)
  2. 2回目はじっくりと。(1ページに156分かける。)
  3. 3回目は咀嚼しながら。(本を口に入れてその本を食べる。情報漏洩を阻止する目的があると思われる。)

彼はこの後、あの、東郷平八郎が務めた、連合艦隊司令官に就任する。

海軍大臣[編集]

1937年。何もせんじゅうろう内閣で、海軍大臣に就任。理由として、「暇そうだったから。」しかし彼はその才能を開花させる。日独伊の同盟を結ぶ際も、猛反対した。彼は対米戦争をしても負けるだけと分かっていたのである。

しかし、この時は何もしなかった。が、誰も気に留めなかった。しかし、ヒロヒトラーは見ていた。彼は「米内は、戦争に反対しているようだし、首相にすっか。」と言ったらしい。そういう訳で、めでたく、総理就任となる。

内閣総理大臣[編集]

首相に就任した米内だが、陸軍からは「軍人の癖に、ポマードで七三分けだとぉ!切腹しろ。」[3]と組閣当日から倒閣運動とやらを始めた。誰も気にしない。と思ったが、「臣民右翼計画」で、右翼化された、バカな大日本帝国民からは非難の嵐。しかし、そんなの気に留めもしない米内は、日独伊の三国同盟を拒否した。[4]理由は、「ムッソリーニは、もう(寿命が)長くない。ヒトラーは、ハゲ禁則事項ですから」らしい。

これに反発した、大馬鹿な陸軍は、陸軍大臣を辞めさせた。誰も気にしない。と行きたいところだが、当時の法律で、「大臣は現役の軍人」とかいう頭の固い事を言っていた為、[5]辞任する。ヒロヒトラーは「米内が辞めるから、戦争になったんだ。」と言っているが、じゃぁ天皇の権力で辞めさせなかったらいいじゃないか。というのは、言うまでもない

ツルピカ内閣[6]では、大臣には就任しなかったが、次の東条以外ならおk内閣[7]で副総理格の海軍大臣に就任。しかし、持ち前のやる気の無さで小磯を暴走させた。その為に、彼は戦犯に指名されるのでは・・・と戦々恐々していたが、GHQの頭が固い、マッカーサーから、手紙が届いた。

貴様の生い立ちから、今に至るまで全て調べた。貴様、刑務所送りだ!と、冗談は置いといて。我々は君をリスペクトしている。どうだ、今度、東条をいじめてみないか?


という内容だった。後日、彼は極東裁判にて東条に対しては、かなり不利な証言を(といってもほとんど事実)した。

そして、1948年。体中にガタが来ており、死亡した。

人物像[編集]

180㎝と異様に高い米内。右端にはツルピカさんが。

彼は、「金魚」と言われた。見ての通り、ちょっと目が出ている。金魚と言われた彼だが、無口である。というのも、南部弁が酷かったという説がある。それを気にして、喋らなかったと、頭が固い輩は言っているが、本当は、友人に、「ちょ金魚は喋るな!」と言われ、ショックで余り喋られなくなったのである。まさに日本版、Mr.ビーンである。ちなみに、肌がつるつるしていた。

身長は180㎝ほど。近衛文麿もそのくらいなのに、何故か、低く見える。

背が低く見える米内。


何もしないのが米内だが、子供は八人(うち二人は夭折)作ってる。やればできる子の典型である。

日独伊三国同盟について[編集]

 一応、反対はしていたらしいが(もし戦争するならば、ドイツ・イタリアの海軍であったら勝てるが、イギリス・アメリカだったら負ける。ちゅうことを言っとったらしい。)、それにしちゃ、海南島作戦というもの(当時の海軍では、この作戦は、将来起こるであろう対米英の戦争に備えるものであるというのは常識だったらしい。)を実行すべき(=対米英の戦争に備えるべきである。と言ってるようなことだろう。)とも言っていたらしい。 つまり、このことについては謎である。

米内光政会[編集]

米内家の秘密を守るために出来た秘密結社である。今は、関係者の高齢化で活動休止中である。

[編集]

  1. ^ 落選の原因として、マニフェストに「○○××は切腹すべきである。唯一神米内受政が・・・」と書いたり、「米内・アカンターレを信仰せよ」と書いたりして、政府に睨まれたことがあげられる。
  2. ^ しかし、じっくり考えるタイプだったらしい。
  3. ^ ほかにも、南部弁がひどいという理由もあったらしい。
  4. ^ この事は、米内を再評価する理由である。
  5. ^ 後の首相である、東条・小磯も、頭が固い。
  6. ^ トージョーヒデキ内閣
  7. ^ 小磯国昭と両名で大命降下という異例のことであった。

関連項目[編集]