簡雍

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「よっ!玄徳(劉備)~」とでご機嫌な簡雍。

簡雍(かんよう、162年? - 219年?)は、蜀漢武将酒豪野郎。字は憲和。涿郡(現在の北京付近)の人。

経歴[編集]

検証厨の廬弼の『三国志集解』によると、旧姓は「耿」で、耿雍と呼ばれた(冀州では「耿」だったが、幽州では「簡」と呼ばれたので、改姓したと記されている)。同時に劉備の母方のいとこにあたり、その関係は親密だったという。当然、親族の劉徳然・張飛傅士仁田豫ともおホモ達だった。また彼は芙蓉姫を片思いしていたロマンチストでもあった。

耿阜(耿純の子)の子か孫の代に、不祥事を起こした過度で爵位を没収され、臨邑侯・劉騊駼(劉縯の曾孫、劉備の曾祖父)の臣下になったという。漢永年間(130年前後)に劉騊駼の子・劉員の代に、酎祭金の未納の過度で爵位を没収されると、耿某(簡雍の曾祖父とされる)は北方の幽州内にある涿郡の移住に同伴し、「耿」から「簡」に改姓したのが真相だという。

彼の息子の名は判明しないが、同じく『元本』と『典略』をあわせると「簡括」(耿括)と呼ばれ、劉禅を補佐する太子舎人(太子附属侍従官)を勤めたという(『典略』では「舎人の"簡"が劉備の命で、徐州ではぐれた劉禅を捜索すべく、扶風郡の大金持ちの"劉括"の婿養子となったところを迎えた」…という与太話があるが、これは著者の魚豢の妄想である)

生涯[編集]

彼は大金持ちの息子で、いとこの劉備とともにヤクザ&マフィアまがいの悪行三昧を楽しんでやったという。劉備の蜂起以来から一族&相談役として従った。

とくに、父から嫌われていた劉備の嗣子劉封の遊び相手となり構ったという。これはその母の芙蓉ちゃんを意識したからである。しかし、その愛しの芙蓉ちゃんも関羽と新参者の劉琰らの讒言で殺害されると、簡雍はグレてしまい、に溺れた。母を失った劉封に対して「お前は不良になって、親父さん(劉備)たちを困らせてやれ!」と言い出したという。そのため、劉封はとんでもない非行少年になったという。

歳月は流れ、就職活動を終えたばかりの新卒である自宅警備員かつ現在もニート軍師の諸葛亮に対しても、足を投げ出し、諸葛亮の肩を小突く尊大の態度を見せて「お前みたいな小僧に何ができるんだ~」と絡んだ。そのため諸葛亮は、ベテランの簡雍に殺意を覚える。

ある年、が降らなく旱魃に見舞われた緊急事態が発生した。劉備は諸葛亮の提案で、酒用の道具を所持した者を逮捕投獄した。諸葛亮を「マニュアルの青二才」と嫌った簡雍はある日、劉備の散歩に同伴した。街でカップルを見た簡雍は「あの若者たちはこれからうふふしますぜ。こいつらは酒を飲んでるんだぜ。だったら、逮捕投獄しないのかい?」とユーモアたっぷりな皮肉を言った。すると劉備は「ハッ…俺としたことが、ニート軍師君に唆されてしまった!」と後悔し、ただちに投獄した者に恩赦を出し、赦したのである。これを聞いた諸葛亮はいつもより苦虫を噛んだような表情になったのは言うまでもない。

また、簡雍は法正と仲良くなり、益州牧劉璋から寵愛をうけ、214年5月に成都を包囲した劉備から劉璋に降伏を促す使節となった。劉璋は簡雍が大好きだったので、会うとお互いに抱き合って、同じ馬車に乗って、劉備に降伏させることに成功した。その功績で、昭徳将軍になるが、諸葛亮らに睨まれてしまったのである。そのため、簡雍は法正・魏延とともに亡き芙蓉ちゃんの息子の劉封に肩入れしたため、劉封の刑死の直後に、諸葛亮らに干されたのである(蜀漢のお家騒動を参照)。

それによると、簡雍は諸葛亮らの「劉封廃嫡」の凄まじい結末のショックにより219年に亡くなったという。その後は「劉禅派」である子の簡括が後を継いだ。その後、劉備は諸葛亮と許靖らの奏上で、7月に「漢中王」(蜀王)に即位したのである。ただ、その陪臣に簡雍の名が記されていないのが、後世の我々にの印象として、寂寥の感を与える。

「でもまぁ酒も飲めたし、楽しかったからいいか!」
自分の人生 について、簡雍

関連項目[編集]

Wikipedia
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