筒井順慶

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筒井 順慶(つつい じゅんけい、1549年 - 1584年)とは、戦国時代でも五指に入る苦労人である。

2歳で家督相続[編集]

今の奈良県である大和国の戦国大名筒井順昭の嫡男として生まれたが、2歳の時に親父が松永久秀による陰湿な嫌がらせによるストレスが原因で他界してしまう。残されたのはまだ「おぎゃあ」しかしゃべれない二歳の順慶。しかし周りの群雄どもは順慶が元服するまでの猶予など与えてくれるはずもなく、順慶はなんと2歳で家督を継承する。判りやすくたとえるとヨチヨチ歩きの赤ん坊が奈良県の県知事に就任するようなものである。労基法も何もあったもんじゃねえ!

松永久秀との死闘[編集]

順慶の生涯の大半はギリワンこと松永久秀との死闘に費やされた。順慶の周辺には、久秀のほかにも三好長慶三好三人衆など獰猛な蛮族が闊歩していて、まともな順慶はこうした海千山千のキチガイ共の相手に心身をすり減らした。30年以上もキャリアが違う老練な久秀に対して順慶は奮戦したほうだが、切り崩し工作によって家臣が内応したりしたせいで、居城筒井城を追われて、路上生活者になる。

だが順慶も戦国大名のはしくれであり、この程度でひざを屈したりはしない。久秀と三好三人衆が喧嘩を始めると、三人衆と連携して久秀を追いつめ始める。久秀が三人衆と堺で喧嘩している間に筒井城を奪回する事に成功し、一連の戦の結果、今度は久秀が堺の路上で生活する事になる。 しかし、ようやく大和も平和になるかと思えば、三人衆にハブられていた三好家当主三好義継が久秀にすり寄ってくる。そのおかげで勢力を盛り返した久秀は居城信貴山城に復帰、戦のついでに奈良の大仏様を焼いてしまう。三人衆と連携してようやく信貴山城を落とし、多聞山城に追いつめたと思ったら、今度は久秀のキチガイぶりを気に入ったのか、「九十九髪茄子」に目がくらんだか織田信長とかいう尾張の田舎大名が久秀方につく。おまけにその軍がめっぽう強くて、あれだけ喧嘩三昧に暮らしていた三人衆をあっという間に駆逐してしまう。その強さにびびった家臣たちが相次いで松永方についた上に、とうとう筒井城に敵が押し寄せて来たと思ったらそいつが昨日までの味方。という散々な目にあい、ついに筒井城を追い出されて再び路上生活者になってしまう。

もはや大和国が久秀に蹂躙されて行くのを指をくわえて見ているしか無いと絶望のどん底に突き落とされ、自殺未遂すらやらかした順慶だったが、そこは信長と久秀、大和支配に差し障りが出るほどの出兵を要求する上に金ヶ崎でボロ負けした上包囲網までしかれる信長を見た久秀は、昔の血が騒ぎ出し信長を裏切って包囲網に参加してしまう。 好機と見た順慶は十市氏の内紛につけ込んで勢力を盛り返すと、信長との付き合いで疲弊していた久秀を撃破、ついに筒井城を奪還する事に成功する。その際、示威行為か、今までハブられてきた恨みか、周りを敵に囲まれてヒィヒィ言っていた信長の元に松永方の首級240を送りつけて大和武士の矜持を示したという。 やがて包囲網が崩壊し、降伏した久秀とともに信長の元に訪れようやく所領を安堵してもらう事が出来た。

しばらくは信長の配下として久秀も大人しくしているのを見た順慶はこれを好機と多聞山城の破却等嫌がらせを始める。もう一度久秀に謀反を起こしてもらい今度こそ完膚なきまでに叩き潰すという野望を秘めていたからである。おまけに空位になっていた大和守護が順慶に任された事で嫌がらせは極みに達する。再び信長包囲網が敷かれたときは、もー我慢が出来なかった。久秀は信長に謀反を起こして自ら敵対し、信貴山城で有名な天守閣自爆による最期を遂げた。順慶はついに永遠のライバルを葬り去る事に成功したのである。

その後、順慶は松永久秀を滅ぼした功績によって大和一国を信長から安堵された。さらに信長の娘秀子が養子である筒井定次の正室となり、天下人信長との距離が一層密接になった。2歳の頃から長い艱難辛苦の日々を送ってきた順慶だが、ようやく報われ、明るい未来への道が開けてきた…かに見えた。

洞ヶ峠[編集]

順慶の人生が順風満帆だった1582年、本能寺の変で織田信長は自害する。再びどん底に突き落とされた瞬間であった。しかも信長を殺した明智光秀は、順慶が放浪生活を強いられていたころ色々便宜を図ってくれた大恩人であった。当然のように、かつての恩に報いてくれと言わんばかりに光秀から協力するよう催促される。だが行き当たりばったりで謀反をやってしまった光秀の天下は風前の灯であることは明白であり、順慶は協力したくはなかった。しかし、恩人である光秀の要請を拒絶することには抵抗感があった。逡巡した順慶は何も聞こえないといわんばかりに居城に引きこもった。同じく光秀と縁が深かった細川藤孝は、明白な形で協力を拒絶する姿勢を見せたが、順慶は明確な態度をとらず引きこもったので、真意がわからない光秀は居城の近くの洞ヶ峠まできて順慶の協力を望んだ。その結果、順慶はストレスによって精神的に消耗して寿命をすり減らした。

直後、中国地方から大返ししてきた羽柴秀吉によって光秀は討たれたが、後世、このとき順慶が洞ヶ峠で光秀と秀吉どちらが勝つか見物して日和見していたという悪評が立った。実際には順慶はいやな現実から目を背け、耳をふさいで引きこもっていただけであり、決して日和見などという卑劣な真似をしていたわけではない。順慶はただ現実逃避をしていただけなのだ。現実逃避も裏切りも行動としてはまったく褒められたものではないという指摘があるが、後者に比べれば前者は遥かにマシな行動と言えよう。五十歩百歩とか言ってはいけない。言ってはいけない(大事なことなので2回言いました)。

過労死[編集]

その後は秀吉に臣従するが、人使いの荒い秀吉は順慶を酷使しまくった。その結果順慶はわずか2年後にぶっ倒れて過労死してしまった。享年36歳。宿敵松永久秀(享年68)の半分程度しか生きられなかった。死因の5割は松永久秀が与えたストレスであり、残りは4割が明智光秀が与えたストレス、余った1割は秀吉と赤子だった順慶を置いて昇天してしまった親父の順昭によって与えられたストレスであると指摘されている。松永久秀が近所に居なければ80歳近くは生きていられただろうし、本能寺の変が起きなければ60歳ぐらいまでは生きられたであろう。

人物[編集]

順慶は、茶道、和歌など文化に造詣が深く、かなりのインテリであったことが残された史料から判明している。しかし順慶の死後筒井家は徳川家康から難癖をつけられて改易されてしまったので筒井家の史料はほとんど残っておらず、同じく文化人の戦国武将として名を馳せた細川藤孝のように業績や逸話の類が豊富に残っていない。それどころか、日和見をしたという洞ヶ峠の逸話ばかりが有名になってしまい、悪い印象でしか語られることがなくなってしまった。生前はおろか死んでからも不幸な扱いの人物であった。その不幸ぶりはある意味安定しておりニコニコ動画Pixivでは「安定の順慶」というタグがつけられることもある。

ことわざを二つ生んだ武将[編集]

順慶は2歳で家督を継承したが、しばらくは父順昭が死んだことがばれないように、順昭そっくりの坊主である木阿弥という人間が順昭の影武者を担当しており、殿様としての待遇を受けていたが、順慶が成長すると用済みになってただの坊さんの身分に戻されてしまったというエピソードがある。ここから有名なことわざである「元の木阿弥」という言葉が生まれた。先述の洞ヶ峠のエピソードも「洞ヶ峠を決め込む」ということわざになっており、結果として順慶は二つのことわざを生んだ戦国武将になった。ことわざの語源になった戦国武将なら他にも竹中半兵衛(知らぬ顔の半兵衛)などがいるが、二つのことわざの生みの親になったのは順慶ぐらいである。もっとも、片方は悪い意味しかない上に事実を歪曲されて伝わったもので、もう片方はぶっちゃけて言えば順慶本人には殆ど関係ないので、あまり名誉とは言えない話である。

とてつもない順慶の器量[編集]

多くの人は知らないか忘れているが、石田三成の側近であるあの島左近はもともと順慶の家臣である。順慶の死後、左近は隠遁し、各地からの仕官の要請をひたすら断り続け、三成が自分の知行の半分の俸禄くれてやると言ってようやく仕官したエピソードは有名である。このエピソードは裏を返せば、左近は順慶と三成以外に自分が仕えるにふさわしい主は存在しないと認識していたことを示唆しており、ここから筒井順慶=石田三成という数式が成り立つ。石田三成は徳川家康相手に天下分け目の戦いを挑んだ男として有名であることから、三成とイコールである順慶もまた、天下人に天下分け目の戦いを挑めるだけの器量を持った男ということになる。これを補強するかのように、徳川家康は順慶の後継者である筒井定次を罪状をでっち上げて改易した挙句切腹に追い込んでいる。近年の研究では筒井家を恐れており何が何でも抹殺したかったからだという見解が有力になっている。つまり順慶(ついでに定次も)も家康がもっとも恐れた男の仲間入りをめでたく果たしたことになるのだ。

関連項目[編集]

Wikipedia
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