竹鶴リタ

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竹鶴 リタ(たけつる リタ、1896年12月14日-1961年1月17日)は、ニッカウイスキーの創業者である竹鶴政孝にして助手、コンサルタント、スポンサー、ならびにスーパーバイザー。「日本のウイスキーの母」とはあまり呼ばれないが事実上もう間違いなくそんな存在である。

幼少期~独身時代[編集]

グラスゴー郊外にあるオーヘントッシャン蒸留所で働く蒸留技師だったサミュエル・カウンの長女として誕生。ミルクの代わりにスコッチを飲み、離乳食の代わりにモルトを頬張り、ピートの香りに包まれて眠るような少女であった。

一家の長女であったため小学校に入学する頃からの仕事を手伝うためにウイスキーの製造に関わっていた。厳しい父の指導のもと、朝起きて顔を洗ったらまず一次蒸留。学校から帰ってきて手を洗ったら二次蒸留。歯を磨いてからおやすみのキスと三次蒸留。リタのウイスキー製造者としてのスキルはみるみるうちに上がっていき、15歳になる頃には学校にも通わなくなり自室に篭って自家栽培の二条大麦をジャムの空き瓶で発酵させて手作りのポットスチルで蒸留した後ママから誕生日にもらったオーク樽に詰めてクローゼットに貯蔵するという実に思春期の女子らしいプチウイスキー密造を楽しんでいたという。

当時のグラスゴー近郊では三回蒸留が一般的であったがリタは二回蒸留による力強い味わいのウイスキーを好み、「ピート香を感じられないウイスキーはウォッカとなんら変わらないつまらない酒だ」と頻繁に口にしていたと言われている。この信念が後にリタが日本で作る最初のウイスキー「白札」の味わいを決めることとなる。

1918年、ウイスキー造りを学ぶためにスコットランドを訪れていた竹鶴政孝と出会う。この時リタは22歳。ウイスキー造りに没頭しすぎて気づけば青春も遠い日々。ただひたすらウイスキーとだけ向かいあっていた日々にここで変化が訪れる。

マッサンの妻になる少し前~少し後[編集]

リタは後に夫となる政孝のことを「マッサン」と呼んでいたという。このことは多くの人の知るところだと思うが、リタの本名が「ジェシー・ロベルタ・カウン」であり一体どこをどう取って「リタ」という愛称になったのかを知る人はほとんどいないであろう。私も知らない。

それはともかくとして、当時グラスゴー蒸留所のマスターブレンダーとして働いていたリタはウイスキー造りに興味津々の日本人と出会ったわけである。ウイスキーと聞いて黙っていられないリタはウイスキー製造のノウハウを惜しむことなく政孝に教えた。単式蒸留器の内部で隠れてデートをしながら蒸留の仕組みを教えたり、二人ならんで夜空の星を見ながらヴァッテッドモルトについて語り合ったりもした。二人は順調に親交を深め、ついには結婚を決意したのである。

しかし周囲は大反対であった。それはもう大反対であった。政孝も自著にてこう振り返っている。「とにかく大反対であった」と。

国際結婚が忌避される時代だったというのもあるが、それ以上に「せっかく手塩にかけて育て上げたマスターブレンダーを手放したくない」というリタの勤務していた蒸留所の人々の思いが強かったようである。マスターブレンダーというのは誰でもなれるものではない。嗅覚と味覚に優れ、それでいて自分たちの求めるウイスキーの味わいを理解している存在でなければならない。蒸留所にしてみればリタの寿退社はそれこそ大損害である。なんとかして思いとどまらせようと多くの人が説得を試みたというが、結果的に二人は反対を押し切る形で結婚した。ただし少しばかり気を使ったのか役所に届けを出すのみで結婚式などは行わなかったという。

1920年11月頃、夫となった政孝とともに渡日。リタが本気を出してウイスキーを作り出すのはこれからである。

ジャパニーズウイスキーの夜明け[編集]

マッサンとともに日本でウイスキーを造る。その目的のために日本へと移り住んだリタだったがなかなか機会に恵まれることがなかった。

日本の生活にも慣れてきた1923年頃、現在のサントリーである寿屋が国産ウイスキーの製造を企画しているという話を聞きつけたリタは同社の取締役に電撃就任。独身時代の経験を糧にウイスキー製造工場の建設地の決定から使用する水の指定、貯蔵樽の手配、蒸留器の設計、果ては工場と設備の設計まで全てを取り仕切った。翌年には日本初の国内ウイスキー蒸留所である山崎工場が稼働を開始。その初代工場長に就任する。なお政孝はリタの秘書となった。5年後、山崎工場で作られた日本で最初の国産ウイスキーである「白札」が発売される。しかしその評価は芳しくなかった。リタがこだわり続けたピート香の強さが当時の日本人には受け入れられなかったのである。こうして白札は「煙臭い」「薬臭い」「なんだかよくわからないけど臭い」と返品が相次いだ。怒り心頭に発したリタは取締役権限を行使して山崎工場を売却し、自らも寿屋を退職してしまったのである。なお政孝も退職した。

やはり取締役とはいえ会社に雇われている身分では本当に良いウイスキーは作れない。そう考えたリタが1934年に北海道余市にて起した会社は「大日本果汁株式会社」というりんごジュースを製造販売する会社であった。リタをサポートしていた政孝は「大恩ある寿屋を裏切る真似はしない。もうウイスキーは作らない。」と説明し、リンゴの買い付けに奔走した。

ところがそのりんごジュースは、果汁100%の本格派で非常に高価であったため、当時の貧しい日本ではほとんど売れず、不良在庫の山と化した。そこでリタは苦渋の決断を行う。「不良在庫のりんごジュースでアップルワインを醸造する。そして寿屋さんには本当に申し訳無いが、会社を維持するには仕方ないのでウイスキーも生産する。」

そして1940年、不良在庫処分のために泣く泣く製造したアップルワインが出荷された。そして同時期に、仕方なく作ったウイスキー「余市」が発売された。本格的なウイスキーを熟成するには10年かかるはずだが、なぜアップルワインと同時期に出荷されたのかは、深く追求してはいけない。

「白札」の時とは違い高い評価を得た「余市」をはじめとするニッカのウイスキーは、今でも多くの人々から愛されている。そしてそれは日本でも上質なウイスキーが作れるということの証明に他ならなかった。リタはそれから没するまでのおよそ20年間にわたり余市でウイスキーを作り続けた。ウイスキーの飲み過ぎで肝臓を病んでもなお作り続けた。彼女の信念は本物であった。夫の政孝はリタの健康のために梅干しを自家製したり、あるいは故郷の味のクリスマスプディングを数ヶ月かけて仕込むなどした。しかしリタは過労がたたって、夫よりも18年前に64歳で他界した。いや、むしろ夫の懸命の支えで、何とかそこまで生きたというべきかもしれない。

そしてウイスキーの母へ[編集]

「女は男を立てるべし。」

リタの最期の言葉である。長い日本での生活で完璧な大和撫子となっていたリタは生前に残した自分の功績は全て夫である政孝の功績として扱うようにとの遺言を残し他界。こうしてリタが日本のウイスキー界に巻き起こした旋風は全て政孝の功績となり、リタは三歩下がったところでいつも静かに微笑んでいる良妻であったいう記録だけが現在に残ることとなったのである。

関連項目[編集]

Wikipedia
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