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(しん)とは、かつてユーラシア大陸に存在していた国家である。

諸侯として[編集]

秦はもともと中国大陸の西の端っこにある国であった。五帝(中国の伝説上の君主)の一人である顓頊の子孫を称していたが、もちろんそんなことはなく、本当は西の彼方からやってきた異民族である。もともと中国の西に住み着いていたが、襄公(在位紀元前777年 - 紀元前766年)が数匹のに襲われていた周の平王を救出した功績により、伯爵の位と領地を与えられ、正式に諸侯として認められるようになった。

このエピソードからも分かるように、秦の君主は代々動物を扱うことに長けていたらしい。秦王の先祖は、の時代に「鳥獣を調順」していたと『史記』秦本記に書かれている。DNAレベルで動物を扱う血が流れていたことになる。一説によると、秦王自身にも獣の血が流れていたという。

その後穆公(在位紀元前659年 - 紀元前621年)の時代にとの戦争に勝利し、西方での勢力を拡大した。彼は春秋五覇の一人に数えられることがある。

その後、晋はの3国に分裂し、戦国時代へと突入する。穆公死後は、晋の後継の一つである魏に押され気味になったが、法治主義を取り入れて国を強大にすることに務めた。恵文王(在位紀元前337年 - 紀元前311年)の時に、置物と化した周王を差し置いて王を名乗った。

帝を名乗る[編集]

戦国時代においては、秦との2ヶ国が抜きん出た存在となる。秦の昭襄王と斉の湣王は、共に王の上の称号である帝の称号を名乗った。他の国は秦・斉2ヶ国に脅威を抱き、同盟を結んで、まず紀元前288年に秦を、次に紀元前284年には斉をフルボッコにした。だが斉がこれにより国家滅亡寸前まで陥って国力を大いに失ったのに対し、秦はなんとか持ちこたえる事に成功し、この後は秦の一強時代になるのである。何やってんだお前ら、逆効果だろうが。

中国統一[編集]

法治主義によって強国になった秦は秦王政(在位紀元前246年 - 紀元前210年)の時代についに天下取りに乗り出し、他の6ヶ国を全て滅ぼし天下の主になった。DNAレベルで獣の扱いに長けているだけあって、馬の使い方も上手かったようだ。『史記』始皇本紀では、尉繚という人物がその印象を「鼻が高く目が長く、猛鳥のように胸が突き出ていて、声は山犬のようで、心は虎や狼のように残忍」と語っている。[1]。秦王政は始めて皇帝の号を使用し、始皇帝と称される。

秦の政治[編集]

焚書坑儒[編集]

儒学者が日頃から、人の道に外れたおこないを「禽獣の行為」と呼んで蔑んでいたことが、獣の血が流れているかもしれない始皇帝を激怒させ、儒学者は穴埋めにされた。この時、始皇帝自身が本当に獣になった、と後世の儒家が言っている。また、医学占い農業・動物飼育に関すること以外の書物は全て燃やされた。

皇帝総背番号制の導入[編集]

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始皇帝は、君主を諡で呼ぶことを止め、始皇帝以降、二世皇帝、三世皇帝…と番号を振って呼ばせる皇帝総背番号制を導入した。これによって後世の人間が難しい漢字の諡号を覚えなくても済むようになると期待したらしいが、本人は不老不死を望んでいたので矛盾している。

私設フィギュア展示室の設置[編集]

地下に等身大フィギュアを何千体も並べたフィギュア展示室を造営していたと「史記」に書かれていたが、そんな重度のフィギュアオタが居るわけがないと否定されていた。しかし最近になって井戸を掘っていた農民により始皇帝の黒歴史まで掘り返されてしまい、今では彼の趣味は全世界に公開されてしまっている。水銀の川を造るなど、造景にも凝っていたらしい。

西遷[編集]

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始皇帝の死後、反乱が起こり劉邦が首都咸陽に迫ってくると、宦官趙高は二世皇帝胡亥を殺そうとしたが、彼はうまく逃げ延びて西方へと逃亡した。いや、もともと西からやってきたのだから帰還と呼ぶのが正しいのかもしれない。ちなみに彼は馬と鹿を飼育するのが好きで、馬や鹿を献上されると喜んだので馬鹿と呼ばれていたらしい。どこまでも動物と縁の深い一族である。

胡亥の子孫は西の果てまで落ち延び、共和制ローマを乗っ取って秦帝国を復興させ、みずから大秦と称した。やがて大秦はヨーロッパ全域からアフリカ北部までを支配する大帝国を築く(大秦帝国)。大秦の16代目の皇帝である安敦は秦に代わって中国を治めていた(後漢)に使節を送り、約300年ぶりに中国と交流を持つに至った。その後大秦は東西に分裂し、西方でははやくに滅んだ。

東方では15世紀まで存続し、中国に使節を送った記録も残っている。故国から持ち込んだ養蚕技術と絹織物産業によって、地中海世界で絶大な勢威を奮うものの、既に故国の血は薄まり、西欧からはギリシア人の帝国とみなされていた。1453年に滅亡する。

ちなみに、秦が中国で始めた皇帝総背番号制は漢によって廃止されてしまったが、ヨーロッパで人名に何世と付ける例が多いのは、秦がヨーロッパに持ち込んだ総背番号制の名残と言われている。

中国での復興[編集]

なお秦の大多数は西遷するものの、一部の残存勢力は中国に留まった。五胡十六国時代の混乱期のさなかの351年苻健によって秦は復興を果たす。復興された秦は多いに伸長し、一時期は中国の北半分を支配するに至るが、姚萇乞伏国仁の簒奪と分裂により国威が衰えた。この時代の中国は復興ブームに沸いており、晋、魏、宋、斉、趙など春秋戦国時代の諸候の末裔が次々と国を復興し、これに前時代の漢が加わって勢力争いを続けたものの、最終的にはそのような前身を持たない、新興のが中国を統一した。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ もっとも秦王政は、どこぞの商人の子供である可能性が囁かれており、本当に獣の扱いに長けているかどうかは疑問視される。彼、および彼の息子は、獣全般というより専ら馬を扱っていた事も、これを裏付けている。