私は下位になりたい

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私は下位になりたい について、ポルノグラフィティ

私は下位になりたい』(わたしはかいになりたい)は、1970年代の日本を舞台にした、野球スポーツチームの悲哀を描いた問題作である。

あらすじ[編集]

1960年代から70年代にかけてV9という偉大な記録を打ち立てていった大男(巨大人間)の集まり。そのV9の最後のシーズンとなった1973年関西の一球団が、一丸となって大男(巨大人間)の集まりに立ち向かっていったことから、この悲劇は始まる。

マジック1[編集]

関西の某球団の大健闘と、大男(巨大人間)の集まりの巻き返しにより異常な盛り上がりを見せたこのシーズンは、最終的に関西の某球団が残り2試合で1勝すれば、大男(巨大人間)の集まりのV9を阻止するところまできていた。しかし、この残り2試合で、実に不可解、そしてあまりにもやるせない汚点悲劇が、プロ野球史に刻まれたのであった。

名古屋での戦い[編集]

マジック1で迎えた初戦、名古屋を本拠地とする某球団との一戦は、明らかに両球団とも おかしな状況だった。

まず、左右のエースを擁して、ここまで勝ち上がってきた関西の某球団は、対戦成績で圧倒的に優れていた点で誰もが予想した右のエース…、ではなく全国的に名の通った左のエースを先発させてきた。

監督による“奇策”のようにも思われるが、同年8月30日における甲子園での同一カードで、延長ノーヒット・ノーランの末に自らサヨナラ弾を放っている左のエースの実績に基づく“正攻法”とも言える。

ただ、「ワシが投げる」と出しゃばった左のエースを抑止できなかった、とも漏れ聞くが、真偽の程は判らない。ともかく『華のある、歴史的瞬間を左の大エースに託そう』という、先発起用した結果になっている。

ところが相手は、8月30日のサヨナラ敗戦から連敗を重ねた為に優勝争いから転落していったとはいえ、シーズンを通して首位を保持していた期間の長かったチームである。左のエースは期待に反して失点を許し、チームの雲行きを怪しくさせた。

一方で、この試合に登板した名古屋側のエースは後年になって、こう語っている。

「V9を阻止させたかったから、とにかくド真ん中にしか投げなかった」

しかし、このような異常な状況でも、関西の某球団は絶好球をことごとく打ち損じてしまい、最終的に、2-4で名古屋に敗北。ホームでのシーズン最終戦を勝利しなければ優勝できない、という窮地に追い込まれてしまう。しかも、その相手は、V9の可能性をわずかに残してここまでたどり着いた大男(巨大人間)の集まり

この戦いは、日本中が真っ二つとなるほどの盛り上がりを見せると思われた。

聖地での直接対決、そして…[編集]

ついに始まった運命の一戦。しかし、その戦いは一方的なものであった。関西の某球団は、出るピッチャーがみな打たれ、バッターは三振と凡打の山を築き上げるだけだった。あまりの展開に、試合を戦い続けている選手たちばかりか、観ていたファンさえも戦意を喪失していったのである。そして、最後のバッターが三振に討ち取られる。0-9、一方的な敗戦だった。

その直後、球史に残る悲劇が球場を包み込んだ…。

悲劇 天国から地獄へ[編集]

試合終了直後、本来ならば優勝チームの監督が胴上げされるセレモニーが行われるのが一般的であった。しかし、長年優勝し続けてきた大男(巨大人間)の集まりを待っていたのは、先ほどの失望感を怒りに一変させた地元ファン達からの罵声と、実際にグラウンドに流れ込んできた数千人もの暴徒達の姿であった。

この試合に漂い続けた一種異様な雰囲気を痛々しく感じていた彼ら。そこへ期待を軽々しく裏切った、ご贔屓の地元球団による無抵抗も同然の不甲斐なさを嫌というほど見せ付けられたのだ。期待が大きかっただけに、怒りがこみ上げてきたのは自然の成り行きだったのだろう…。

彼らは敗戦チームへは目もくれずに、優勝を決めた大男(巨大人間)の集まりの選手達を暴行。中には、国民的スターと呼ばれた大物選手も含まれていたが、これも例外なく襲っている。その彼らの勢いは止まる所を知らず、マスコミ関係者たちにも被害を及ばせた。たった一つ、長年地元の球団を応援し続けたテレビラジオ各1局のみが、その被害を免れるという大惨事だった。

その後[編集]

この事件は歴史に残る汚点として長く語り継がれることとなる。その後、V9を達成した大男(巨大人間)の集まりだったが、選手達の世代は交代の時期に当たったため、セリーグは戦国時代とよばれる混戦時代に突入することになる。

私は下位になりたい[編集]

歴史に残る暴動から数年後、世紀の凡戦の裏側に、このような逸話があったと語られることになる。

その頃から既に吝嗇で有名で、選手を大事にしなかった関西の某球団は、当時、優勝しても選手達の給料を支払えるだけの財政基盤に乏しかった。そのため、球団のオーナー自らこのような発言を吐露した結果、それを聞いた選手たちのモチベーションが極端に下がった、とされている。それが、

優勝争いで儲けさせてくれたら、優勝しないほうがいい。観客が集まってくれるのなら下位のままがいい

との発言である。その影響は、いつまでも関西の某球団を蝕み続け、負の歴史となっていく。

歴史の皮肉[編集]

皮肉なことに、関西の某球団はこの13年後の1985年にリーグ優勝、日本一に輝いている。
しかし、それは1973年当時のオーナーよりも、チームへの理解が遥かに深かった球団社長が飛行機事故で亡くなられた結果、チームが一丸となって優勝を目指したためとされている。

その他の影響[編集]

世紀のV逸を侵した監督はプロでのキャリアが20年を超える選手に暴言を吐き、シーズン終了後、その選手と決闘し敗れ去った。

その選手は連盟表彰を見送られたが、連盟表彰よりも監督に対する恨みを晴らす方が大事だったと語り継がれている。

また、この時その選手のおつきを務めたエース左腕を最後に長髪の蹴球ヲタクの出現までエースに相応しい自前の投手が三十年近く出てこなかった。

他球団の場合[編集]

ある在京球団は「親会社の製品が、大男(巨大人間)の集まりのファンからボイコットされては困る」という懸念から、自チームよりも近所の大男(巨大人間)の集まりが勝つ方がイイと、そこの球団首脳は考えていたのである。

しかし、関西某球団の事件から5年後の1978年、コーチから昇格した勝利のためには個人感情さえ無視する人の監督2年目のシーズンに、 この在京球団は初優勝を窺う快進撃を見せる。

それに狼狽した球団首脳は、
「君、優勝しなくていいんだよ」

と監督に忠告した。ちょうどチームも失速しだして、「惜しかったなぁ」で済みそうになっていた。しかし、試合ですら勝利至上主義を貫く、この監督にそんな言葉は、馬の耳にオダブツであった。ぬるま湯に浸かった球団の姿勢を正すかのように勝利を目指し続けた結果、ファンですら信じられなかったリーグ初優勝を達成。しかも日本シリーズでの下馬評まで覆して、日本一に輝いてしまった。

成ったことも無い日本一には球団首脳であっても気を良くしたのか、監督との契約を更新した。ところが、

「優勝はしたいが、カネの掛かる事なんてしたくない」

と、常勝軍団への脱皮を目指す為のトレードには及び腰であった。監督の構想に副えない体制で臨んだ翌1979年、チームは崩壊。しかも球団が、コーチ陣の一部刷新にまで首を突っ込んだ為、勝利至上主義の監督と決裂。

再び、ぬるま湯の暗黒時代に戻ってしまったのであった…。

関連項目[編集]

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