社会大衆党

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社会大衆党(しゃかいたいしゅうとう)とは、日本政治史上最も活躍した無産政党にして、社民党史に残るべき輝かしい1ページである。

誕生[編集]

戦前の無産政党は長く集散離合を繰り返していたが、1932年にはついに合同し、念願の無産政党の統一が実現した。こうして誕生した新政党が社会大衆党(社大党)である。

快進撃[編集]

社大党は結党後間もなくして怒涛の快進撃を始めた。書記長の麻生久は先見の明がある人物で、これからの日本をリードするのは誰か、はっきりと見抜いており、自分たちは金魚の糞の如く彼らにくっついて行くのが党勢拡大のための第一歩だと考えていた。1934年、戦争階級闘争の区別ができない麻生は「戦いは文化の母である」という闘争心あふれる名フレーズに感銘し、「陸軍パンフレット」を熱烈支持。これを皮切りに、社大党は陸軍統制派革新官僚といった「新時代の担い手」へと接近していき、上からの社会主義革命を目指していった。このような麻生の奔走の甲斐もあり、1937年の選挙では立憲政友会立憲民政党に次ぐ38名の当選者を輩出。2010年現在では弱小政党に落ちぶれている社民党と比べればよほど多い勢力を誇っていたのである。

黄金時代[編集]

こうした軍や官僚との関係を背景に、社大党の黄金時代が到来した。日中戦争以後は近衛文麿内閣の与党として大勢力の既存政党(政友会・民政党)をも超える指導的地位を獲得し、わずか38名の精鋭たちが日本政治を強力に牽引していった。既存政党が躊躇していた国家総動員法の決議に際しても当初から積極的な支持を打ち出すなど、前方が崖であろうと火の海であろうと、常に他政党よりも一歩先を行く革新的な姿勢は国民から評価されていた。同法の審議の中では、西尾末広議員(戦後日本社会党に所属)によるヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、確信に満ちた指導者たれ」という名演説が生まれたが、国民の支持よりも財界の献金が大事だった時代遅れの老害既存政党はつまらないことでこの演説にケチをつけ、自分たちの器の小ささを露呈した。その後斎藤隆夫反軍演説事件で露になった党内の反動分子を粛清し、1940年、やはり一足早く大政翼賛会へと合流して解党、身を呈して国家へ貢献する姿勢を見せた。このように、1930年代後半の政界で最も大きな役割を演じた政党はまぎれもなく社大党であり、彼らは昭和政治史に偉大な足跡を残したのであった。

戦後[編集]

戦後、旧社大党員らを中心に日本社会党が結成され、長く自民党に次ぐ第二党としての勢力を有したが、約50年の間で政権をとったのはわずか2回であり、その2回にしても右往左往して戦前のような強大な影響力を発揮することはできず、ついには分裂して単なる文字通りの弱小政党に転落してしまった。こうして、少数精鋭ながら軍や官僚とともに大同団結し、大勢力の既存政党にも立ち向かい、そして単なる政権争いではなく日本の将来までをも導いた、かつての社大党の栄光は、永遠に失われてしまったのである。[1]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 戦後には社大党をリスペクトして、沖縄社会大衆党等の地域政党が結成され、さらには韓国でも「社会大衆党」がつくられており、「社大党をもう一度」と考える人々の多さを物語っている。