相馬市
相馬市(そうまし)とは、福島県の浜通り(太平洋沿岸)の北部にある馬追い祭りでおなじみの旧城下町である。
概要[編集]
全国の中村さんには言わずと知れた旧城下町で、戦国時代後半から戊辰戦争終結まで、馬追い祭りでおなじみ相馬家の本拠地だった所である。相馬家領は徳川藩政時代に「中村藩」と呼ばれていたが、この「中村」が現在の相馬市中心部である。毎年夏になると、相馬家の居城・中村城の城跡の近くで馬追い祭りが開かれることで有名である。
1954年3月31日に市制を敷いたが、市庁舎が中村城の近くに位置する為に、本来なら城下町市名で『中村市』にするはずであった。しかし、同日に市制を敷こうとした高知県の中村と『中村市』名称を巡って対立し、こちら浜通りの中村が本拠地にした大名の姓で『相馬市』となり、高知県の中村が『中村市』となることで決着した。幾つもある城下町の中で、城下町名ではなく、城主の市名にした最初の例である。実際、『相馬市』成立から12年半後の1966年10月1日には、岩城家の本拠地だった浜通りの平が『平市』から『いわき市』に改名している。
もはや宮城県[編集]
福島県の中通りや会津地方よりも、浜通り同士(双葉、岩城など)や宮城県沿岸部(亘理、岩沼、仙台など)との関係が深い。これは、福島市(中通り)や会津へ行くには阿武隈山地を越えねばならず、会津に至っては郡山まで出ないと行き難い(会津より、山形県の米沢の方がまだ近い)のに対して、浜通り同士や宮城県には同じ沿岸平野で楽に行けるからである。交通網も、浜通り同士よりも宮城県の方が便利である。
また、テレビやラジオでも、中通りのテレビ局やラジオ局なんて眼中になく、仙台(宮城県)のテレビ局やラジオ局を視聴している。実際、地デジのエリアでは、ここ相馬も宮城県として扱われている。
歴史[編集]
「岩城は佐竹の属国」と呼ばれてるのと同じく、「相馬は伊達の属国」と呼ばれており、宮城県南部との関係が深い。
相馬家は、平泉遠征から戊辰戦争終結までの740年間に亘って、宮城県南部の常磐線沿線(浜通り夜ノ森以北)を統治して来た大名であるが、関ヶ原で佐竹義宣(水戸)に与した為に、一度浜通りの旧領を没収された。関ヶ原以前は、相馬家(中村、小高)と伊達家(岩出山)が睨み合ってる状態で、相馬家が中村と小高に二つ本拠地を構えていた。
ところが、関ヶ原の結果として中村城と小高城を没収された相馬義胤は、宿敵であった伊達政宗とは関ヶ原終戦時に領内通行を許した為、義胤は政宗に対して、「お願いします。(本多)正純公に旧領復帰を嘆願して下さい」と跪いた。すると、政宗は「…好かろう。説得してみせる。」と義胤の旧領復帰で動き回った。このお陰で、相馬義胤は1611年に中村への復帰を果たし、本拠地も小高と中村の二極体制から、中村の一極体制に転換された。これ以来、「相馬は伊達の属国」と呼ばれる、宮城県にベッタリな関係が現在まで続くことになる。又、関ヶ原では相馬義胤(中村)と岩城貞隆(飯野平)が佐竹義宣(水戸)に与した影響で、国鉄鉄道管理局とJR支社のエリアでは水戸支社に入れられている。
そして、1868年の戊辰戦争では、南隣にいる安藤信正の磐城平藩が、長州藩率いる明治政府軍に攻撃され炎上したのと同じく;二宮金次郎の妻子を迎え入れた相馬充胤の中村藩も、長州藩率いる明治政府軍に攻撃され炎上した。相馬充胤も当然「明日は我が身」となり、中村城は解体され、明治政府軍からは「馬追い祭りは禁止だ!やりたけりゃ賠償金を払え!」と金品を強請られた。そして、1872年1月9日には中村と平(戊辰戦争前の磐城平)が同じ県に入れられたが、1876年8月21日には、中村と平は、会津と同じ県に入れられてしまった。この時、旧中村藩士や中村城下の民衆が、「せめて中村の馬追い祭りだけでも復活させて下さい…」と明治政府の官僚に嘆願したのは有名である。
広島と長崎の二発で明治政府が消滅すると、明治政府の末裔は、中通り福島市の行政屋と結託して、中村城と磐城平城から等距離の地点にフクシマをごり押しした。1988年3月に常磐高速道路が岩城(平)まで開通すると、190km南に位置する水戸の行政屋も引き連れて「早く相馬(中村)まで!早く仙台まで!」「松川浦と馬追い祭りがあるだろ!」と福島県庁に行脚するも、中通り一辺倒の福島県知事に一蹴され、叶わぬ夢になってしまった。
地域[編集]
相馬市は、大きく分けると国道6号バイパスより山側の中村地区、国道6号バイパスより海側の原釜(松川浦)地区に分かれている。
山側[編集]
全国の中村さんにはおなじみの土地。城下町地区で、馬追い祭りが開かれているのはここ。本拠地名である「中村」という地名は、坂上田村麻呂がベースキャンプ地を構えた時に、「平野が細長い。でも凹凸海岸が近いから、ここが中心地の『中村』で好いよな!」と提案し、子分たちが「いいとも!」と賛同して決定されたというのが有力な説である。
常磐線の「相馬駅」は、当初は「中村駅」を称していた。前述の『中村』市名争奪戦が発生した1954年3月当時は、こちら浜通りの中村(奥州中村)が「中村駅」を称しており、高知県の中村(土佐中村)には鉄道がまだ開通していなかった。
海側[編集]
松川浦や漁港の所在地はここ。「助川以北は平野が少なく、海岸がしょぼい。」と呼ばれる中で、松川浦は、小名浜・四倉・松島と列んで、凹凸が目立つ海岸になっている。これだから、坂上田村麻呂や相馬家が、松川浦からちょい山側に城を構えたんだろう。このせいで、松川浦を不思議がった部外者からは「相馬芋湖」と呼ばれている。
なお、四倉よりは亘理の方が近いので、馬追い祭り以外の季節には、亘理のはらこ飯と一緒のグルメツアーが定番である。
この木なんの木[編集]
相馬市の南部には、日立製作所の所有地として「この木なんの木」が立っている。これは、日立が中村(中心部)に工場を出そうとしたが、中村の住民から肘鉄を食らい、南部に日立の所有地を立てたことに由来する。駅名も小学校名も「この木なんの木」であり、発車ベルや小学校のチャイムも「この木なんの木」である。なお、日立の工場は、もっと南の原町と浪江にも立地している。
一方、相馬家の発祥地である姉妹都市の流山市は、柏の隣町なので、日立がスポンサーのJリーグチーム・柏レイソルの地盤としてもおなじみである。しかし、柏サポが歌う応援歌には、中村藩歌である「相馬流山」は使用されていない。
名物・キャラ[編集]
- 中村馬追い祭り
- 中村城下で開かれる馬追い祭り。中村城下を行進する時には、旧中村藩の藩歌である「相馬流山」が斉唱される。
- 中村城公園に厩舎もあるよ。
- はね駒
- 本来は、相馬家当主に性格が似てる、中村城下で育った女性ジャーナリストを指す語であったが、「おてんば娘」の代名詞になっている。
- ほっき貝定食
- 松川浦で最も定番の定食がこれ。
- 相馬駒焼き
- 浪江の大堀陶器と同じく、中村藩時代に創業した陶器。
- 和菓子
- 浪江が陶器よりも焼きそばで有名になったが、中村城下は和菓子が名物食品。DASH村が原発事故で潰滅する前には、DASH村御用達の菓子屋もいたとか。
関連項目[編集]
関連人物[編集]
関連都市[編集]
- 岩出山町:16世紀後半の伊達家の本拠地。
- 仙台市:関ヶ原以後の伊達家の本拠地。
- 名取市:空港では名取空港が最も近い。
- DASH村
- フクシマ:大熊町の遺跡。旧相馬家領の南端に位置。
- いわき市:岩城家や藩主安藤家の本拠地。城下町市名は「平市」。
- 水戸市:佐竹家や水戸徳川家の本拠地。関ヶ原当時、相馬家と岩城家の「宗主」都市。
- 流山市:相馬家の発祥地。姉妹都市。
- 中村市:こちらは戦国時代の一条家の本拠地。高知県。
- 名古屋市:尾張徳川家の本拠地だが、名古屋駅周辺の地区名が「中村」。「中村郵便局」の所在地。
五大都市 : | 福島市 | 郡山市 | 白河市 | 会津若松市 | いわき市 |
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伊達 : | 伊達市 | 桑折町 | 国見町 | 川俣町 |
安達 : | 二本松市 | 本宮市 | 大玉村 |
田村 : | 田村市 | 三春町 | 小野町 |
岩瀬 : | 須賀川市 | 鏡石町 | 天栄村 |
西白河 : | 西郷村 | 泉崎村 | 中島村 | 矢吹町 |
石川 : | 石川町 | 玉川村 | 平田村 | 浅川町 | 古殿町 |
東白川 : | 棚倉町 | 矢祭町 | 塙町 | 鮫川村 |
北会津 : | 喜多方市 | 北塩原村 | 西会津町 | 磐梯町 | 猪苗代町 |
中会津 : | 会津坂下町 | 湯川村 | 柳津町 | 三島町 | 金山町 | 昭和村 | 会津美里町 |
南会津 : | 田島町 | 下郷町 | 檜枝岐村 | 只見町 |
相馬 : | 相馬市 | 南相馬市 | 新地町 | 飯舘村 | 浪江町(DASH村) | 双葉町 | 大熊町(フクシマ) | 葛尾村 |
岩城 : | 富岡町 | 楢葉町 | 広野町 | 川内村 |
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