相模鉄道

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相模鉄道とは、砂利とわずかな乗客を運ぶ蒸気機関車がトコトコと走るだけのド田舎ローカル線からスタートし、比較的まだ稼げていた路線を国に取られてしまったのにも関わらず、なぜか大手私鉄への仲間入りを果たすほどの大成長を遂げてしまった奇跡のギャグ電車である。

概要[編集]

神奈川県の県都横浜市横浜駅と、県央部の地味系都市海老名市にある海老名駅、及び「湘南」と言いながら湘南風情をかけらほども感じられない藤沢市湘南台駅を結ぶ、全長40kmにも満たない短い鉄道である。

「相模」の鉄道という大風呂敷を広げたような社名ではあるが、その路線網の規模は大手私鉄であるとはとても思えないほど小さく、大手私鉄中最短の路線長であり、しかも路線の半分ほどは旧武蔵国領内である横浜市域にある(横浜市でも瀬谷区・泉区などは相模国であるが)という、何とも突っ込みどころ満載なものとなっている。そのため、一応大手私鉄ながらその知名度は著しく低く、他県民が名前を聞いたことも無いのは勿論の事、当の神奈川県民にさえ、「二俣川にある免許センターへ行く際に使う電車」としか認識されていない。相鉄がこうなってしまったのには、その歴史上にある悲しい出来事があるためなのだが、詳しくは後述する。

鉄道会社の中では1、2を争うほど労働組合の力が強く、今でも数年に一度ストライキが行われている。沿線民はストライキの際、一部を除いて迂回路線を持たないため、自宅で事が過ぎ去るのをじっと待ち、その後西横浜駅脇の労働組合本部を睨み付けながら横浜に向かうのが通例となっている。

歴史[編集]

まずはじめに[編集]

神奈川県央部には、「相鉄線」と「相模線」という二つの紛らわしい名前をした路線がある。「相鉄線」の方は、以下で記述する「神中鉄道」が作ったもので、今は「相模鉄道」が経営している。「相模線」の方は、先ほどの「相模鉄道」が作ったもので、今は「JR東日本」が経営しているものである。非常に紛らわしいが、そのことを覚えておいたうえで以下の歴史をご覧いただければ幸いである。

「相模鉄道」のルーツ[編集]

そもそも「相模鉄道」という会社は、1917年に当時の茅ヶ崎町長をはじめとした地主を中心に発足したものであった。「相模の地をあまねく網羅する鉄道を作ろう」などという崇高な目的があったわけではなく、単に「砂利を運ぼう」という貨物鉄道的な要素の強いものであったが、当時の相模川沿線には厚木や寒川といった大きな町・観光地が揃っており、一定の旅客収入も見込めるとして貨客両用の路線を建設する予定であった。

しかし、当時の神奈川県央部というのは一部を除けば基本的にド田舎であり、また当時の県央最大の都市厚木は相模川の対岸という始末。黒字経営などというのはかなり夢物語に近かったのである。当時の鉄道当局はどうみても赤字必至と思われる路線でもとりあえず免許は出すという比較的やさしい組織であったのだが、あまりにもド田舎すぎて建設の必要性を疑問視されるレベルだったので、とりあえず「東海道線と中央線の短絡」というもっともらしい理由を付けて免許を申請することにした。これが後々の悲劇につながることを、当時の発起人は知る由も無かったが、ひとまず免許は認可されたのであった。

こうして、茅ヶ崎駅から徐々に北上する形で建設が進み、最終的には茅ヶ崎~橋本を結ぶ路線となった。そう、これは現在のJR相模線である。 予想通り旅客輸送は苦しい経営状況であったが、思いのほか貨物輸送が好調で、砂利業では関東大震災や多摩川の砂利採掘禁止令などもあってどんどんと出世し、最終的には関東一円の砂利業の総元締めのような立場にまで上り詰めることになるのであった。

しかし、そんな絶好調も長くは続かず、大株主の死去による株式放出という予想だにしない事態に見舞われてしまう。市場に出回った大量の相鉄株は不運なことに鉄道強盗団の頭領として知られる大東急結成前の五島慶太に目を付けられてしまい、相鉄は後の大東急の傘下に入ることになったのであった。

「相鉄線」のルーツ[編集]

一方で、現在の相鉄線を建設したのは、これまた1917年に鎌倉郡瀬谷村(現在の横浜市瀬谷区)の地主が集まって発足した「神中鉄道」である。比較的町もあった相模鉄道に比べ、こちらの沿線は純然たる農村。横浜開港により活気を呈していた中心部には遠く及ばないド田舎中のド田舎であったが、だからこそなのかアクセス向上の為鉄道を熱望する声が強く、夢見がちな金づる株主は瞬く間に集まった。まず第一に横浜中心部へのアクセス向上という使命を課せられたため、こちらは旅客輸送が最初に検討されたが、そもそも農村部では「通勤をする」とか「中心地に出て買い物をする」という発想がまず無いため、乗客が集まらないというのは言わずとも明らかであった。そんな夢のない計画書では読んでいる方も悲しくなってしまうので、神中鉄道もとりあえず相模川の砂利採掘・販売を副業として行うことにした。

神中鉄道は初めに厚木~二俣川までを建設し、その後横浜に向けてじわじわと路線を伸ばしていった。横浜まで繋がっているならまだしも、二俣川とかいう途中駅で途切れているのでは貨物輸送も効率が悪く、予想通り旅客輸送も微妙であったため、赤字まっしぐらであった。横浜まで繋がって旅客収入は増えたが、それも一時的なものであり、債務超過寸前の自転車操業状態でなんとかやりくりをしていた。しかしついに力尽き、神中鉄道は自ら東京横浜電鉄の傘下に入り、五島慶太に経営再建を託すことになったのであった。

さて、ここで出てきた「厚木」という二文字、これは現在の「厚木駅」の事であるが、建設されたのは海老名市であった。地元の金づる有志らが出資する規模の小さい鉄道会社であったことが災いし、相模川に橋を架けられず中途半端なところで止まってしまい出来たものである。一応厚木の有力者に許可を取っての命名であったが、後々混乱を生む原因となってしまったのであった。

似た例で兵庫県に「竜野駅」があるが、かつては揖保郡揖保川町であった。しかし、こちらは2000年前後の強引な市町村合併により「たつの市」となりめでたしめでたしなのであるが、海老名市はそうも行かなかったので相模厚木駅を本厚木駅と言う事にしており、「神中鉄道」も一応は乗り入れもした。まあ、兵庫県側にも「本竜野駅」があるのだけど。何か、相鉄線から脱線事故をしてしまったので、ここまでにしよう。

合体と分離[編集]

こうして神奈川県央部の2つの会社を手に入れた五島慶太は、ひとまず神中鉄道を相模鉄道に吸収合併させることにした。こうして2つの路線は厚木駅を介して繋がり、「相模鉄道相模線」と「相模鉄道神中線」が誕生したが、その翌年に相模線区間の「東海道線と中央線の短絡」という軍事的優位性に目を付けた鉄道省によって、相模線区間が強奪されてしまい、相模鉄道はすっかりやる気を無くして東急に鉄道事業を一切合財委託してしまったのである。

絶好調であった砂利業はなぜか買収を逃れたため、これを細々とこなして戦争時代を乗り切った相模鉄道は、終戦後の1947年に東急傘下から離脱していよいよ鉄道会社としての歴史を再開することになるが、東急がやる気がなかったのか、中途半端に単線区間が残されていたり、東急から押し付けられたボロ電車がわんさかいたりと後処理に追われ、本格的な発展は1952年まで待たねばならなかった。

なお、その後の相模線の凋落発展ぶりについてはご存じの通りである。

相鉄の大発展[編集]

こうして、短距離の1路線、それも自らが建設したわけではないもらい子のような路線を有するのみとなってしまった相鉄は、路線唯一の売りである横浜駅を生かすため、1952年に横浜駅西口の広大な規模の土地を購入し、商業施設の建設を計画した。関東大震災の際、この広大な荒れ地にあった石油タンクから火災が発生し、これが横浜の市街地を焼き尽くす大惨事があったといういわくつきの土地であり、社内からは会社規模に見合わない大規模な事業計画であるとして反対の声も根強かったが、当時の社長がこれを強引に推し進め、また沿線の住宅地開発を精力的に行うなどして、「電車で通勤する」「中心部に出て買い物にする」という生活スタイルを沿線に定着させていった。

まるでいっちょ前の大手私鉄のような不動産開発事業を、当時まだ準大手私鉄であった相鉄が進めることに対しては周りの鉄道会社からも敵視する動きがあり、横浜西口の土地を狙って東急が小田急を経由して相鉄を買収しようとするなど五島慶太の腹黒さが垣間見える話もあったりしたのだが、何とあの緑の銀行の前身の社長が「横浜出身である」という事だけで相鉄の味方に付くなど幸運が重なり、東急をコテンパンにやっつけてしまい、またこの開発事業自体も奇跡的に成功してしまった。

沿線人口は高度経済成長期に入ったことで肥大化していき、1950年代に4両だった編成が、わずか20年後には8両編成は当たり前、さらには10両編成まで登場するほどの大発展を見せ、横浜西口は従来の繁華街であった伊勢佐木町周辺の需要を丸ごと奪い去ってしまった。こうして相鉄は、横浜西口どころか横浜という都市における商業の覇権を握ったのであった。でも知名度低いのだが。

相鉄はどこへ[編集]

さらに調子に乗った相鉄は、1967年に相鉄いずみ野線となる二俣川~平塚間の免許を取得し、建設することになった。これはたびたび敵対していた東急が新たに建設した乗客詰込み型貨物路線である東急田園都市線に対抗するものであったが、さすがに渋谷に直通する路線と対抗するのは無理があったのか見事にずっこけてしまい、無駄に高規格な線路に空気を詰め込んだ列車が細々と走っているという、見るからに寒々しい風景が産まれてしまうことになった。 前例に倣って沿線の住宅地開発などテコ入れもしっかり行ってはいるものの、バブル経済を逃してしまったため乗客は伸び悩み、現在まで赤字が続いている。 なお、いずみ野線が湘南台まで延伸開業したのに合わせて相鉄は晴れて「大手私鉄」への仲間入りを果たしている。いずみ野線開業により大手私鉄になるための条件である路線長を満たしたためであり、その妥当性については言うまでもないことであるが、知名度や会社規模といった点ではその妥当性について疑問視する意見もある。相模鉄道は大手私鉄です。

そして2004年、今度は都心に直通するなどという戯言にも聞こえそうなことを言い出し始め、現在大絶賛工事中である。社運を賭けてまで開発した経営基盤である横浜西口を半ば捨てるような今回の選択が、果たして吉と出るのか凶と出るのか、その答えは今のところ出ていない。

路線[編集]

ドル箱路線の本線、赤字垂れ流しのいずみ野線、元祖本線なのに誰も知らない厚木線の3つに分けられている。

本線[編集]

横浜~免許センター二俣川~海老名の24.6kmを結ぶ相鉄の稼ぎ頭である。純然たる農村だった沿線は今や灰色のおしゃれなマンションや地味な色のカラフルな一軒家が立ち並ぶ立派なベッドタウンへと成長し、住民は相鉄を使わなければ生活が出来ないレベルにまで洗脳されており、通勤通学客は一路横浜を目指し10両の列車に争うように乗っていく。一部海老名方面に向かう乗客はその様子をほくそ笑みつつ比較的空いている下り列車に乗車していくため、朝ラッシュ時は格差社会の縮図がごとき様子を観察することが可能である。横浜駅の改札が端っこにあるため、特に先頭車は混雑レベルが1段上がり、車内は体温で蒸し蒸し、体はぎゅうぎゅうに押しつぶされ、吊り革をつかむ余裕もないといった修羅の様相を呈する。

また、本線にしてはあまりにも少なすぎる待避設備と、大量の乗客をさばくための列車本数の多さが災いして、列車が横浜駅を先頭に7km渋滞などという事態は日常茶飯事である。ぎゅうぎゅう詰めとなった急行列車車内でひとたび便意を催そうものなら、二俣川~横浜間は駅に降りることもできず、延々と時速30km/h程度で走る列車に閉じ込められながら苦痛に耐えるという素晴らしい苦行を味わうことが出来る。なお、これは快速の星川~横浜間でも同様である。

このような特性から、春先は体調不良によるダイヤの乱れが非常に多い。もはや本数を増やすこともできず、両数を増やすこともできず、対策は手詰まりとなっているのが現状である。

いずみ野線[編集]

運転免許試験場二俣川~湘南らしさのかけらもない湘南台の11.3kmを結ぶローカル線。将来的には平塚まで延伸する予定で、現在はKO大学スーパーファミコンまでの延伸が検討されている。

本線とは対照的に、こちらは余裕のある街づくりのおかげで乗客数がほどほどに抑えられており、快適な通勤を楽しむことが出来る。ほどほどに発展した住宅街は通勤者にとっては理想のベッドタウンと言えるのだが、横浜市によって開発を制限されていたことを相鉄はすっかり忘れており、既存の開発地区を埋め尽くしたところでバブルが崩壊してしまったこともあって乗客数が伸びなくなってしまった。

また、当時の相鉄がかなりはりきってしまい、農村には過剰すぎるレベルの高規格で路線を建設してしまったため、建設費回収すらままならない状況であり、相鉄にとっては悩みの種となっている。

厚木線[編集]

相模国分信号所~厚木貨物駅を結ぶ単線の貨物線。元祖神中鉄道本線であり、この路線が無くなってしまうと相鉄には新型車両が入れないため、非常に重要な位置を占めている路線なのであるが、その存在を知るものは少ない。

相鉄の変態技術[編集]

鉄分過剰
このページには鉄分が過剰なので栄養のバランスが崩れています。
DHMOの摂取やバランスの良い食事をすることを心がけ、鉄分が偏らないように注意してください。

相鉄がいかに変態的な会社であるかは、その奇特な歴史をご覧いただいたことで十分お分かりになられたと思う。しかし、相鉄が変態と言われる所以は、車両に用いられている変態的な技術にもある。ここでは、そんな相鉄の持つ変態技術を、非鉄道教徒にもわかりやすく説明していきたいと思う。

直角カルダン駆動
直角カルダン駆動とは、モーターの力を車輪に伝えるギアが直角に噛んでいる方式の名称である。比較的構造が簡単であったことから、1950年代には相鉄だけでなく他の鉄道会社でも採用されていたものであるが、「スパイラルベベルギヤ」という整備士泣かせの複雑な歯車を使用していることや、ギアを平行に噛ませた平行カルダンという方式が普及したことで、直角カルダンは徐々にすたれていった。
しかし、相鉄だけは直角カルダン駆動にこだわった
直角カルダン駆動は平成生まれの9000系までの車両に採用され、現在でも特徴的な爆音を聴くことが出来る。
当時準大手私鉄だった相鉄は、「大手私鉄に追い付け追い越せぶっちぎれ」がモットーであったため、相鉄ならではの装備として残すことで、大手私鉄の向こうを張った、という説がある。
外付けディスクブレーキ
相鉄の車両の大半に装備されている、レールから浮いているようにも見える銀色の円盤である。その正体は車輪の外側に付けられた自動車でいうところのディスクブレーキである。
なぜ車輪の内側に付けないのかというと、直角カルダン駆動のせいで内側にスペースがないから。また、車輪の外側にあることで整備性を高める目的もあるとされる。
21世紀に入ってからは相鉄に限らず車輪の踏面にブレーキシューを押し当てる方式が主流となっており、10000系以降の車両では外付けディスクブレーキは見れなくなっている。
日立式電磁直通ブレーキ
そもそも鉄道におけるブレーキの方式は、自動空気ブレーキ・電磁直通ブレーキ・電気指令式ブレーキの3つに大分される。自動空気ブレーキはその名のとおり空気の力によってブレーキシューに圧力をかけて速度を落とす方式で、電磁直通ブレーキはその空気の力の伝達を素早く行うために、ブレーキ指令方式を電気にした方式、電気指令式ブレーキは電気の力によってブレーキシューに圧力をかける方式である。
ではこの日立式電磁直通ブレーキはというと、基本的には一般的な電磁直通ブレーキと同じ仕組みであるが、電車が停電した際にブレーキが掛けられなくなるというデメリットがあるので、「そうだ、電気がなくても自動空気ブレーキのように空気の力を利用できるようにしよう!」ということで開発された、自動空気ブレーキと電磁直通ブレーキのハイブリッドな方式なのである。
現在では7000系・新7000系で採用されているブレーキ方式である。日本で唯一相鉄のみが採用している時代遅れの方式であるので、是非とも一度めんどくさそうなブレーキ操作をご覧になってみてはいかがだろうか。

車両[編集]

8000系新塗装車
9000系新塗装車
10000系新塗装車
11000系
7000系
まるで食パンのような形をした銀色の車体が特徴的な車両。
相鉄はかつての6000系アルミ試作車の成功を境にアルミ車体の採用に積極的で、2100系、5000系も同様の車体に更新されていることから、相鉄アルミ食パン三兄弟の末っ子とも。兄さんたちはすでに天国へと旅立ってしまったが、この7000系は製造から30~40年経った今でも過去の遺物を再利用しながら延命させられている。
そろそろ「ボロ電車」と罵られてもおかしくないような車齢になりつつあるが、相鉄はこのボロ電車をCMに登場させたりプラレールを発売してみたりと全力で押し出している。車内にポールが少なくすっきりしているため、車内を広く使うCM撮影に最適ということもあるのだが、今後他県民が相鉄を知るきっかけとなるかもしれないCMでこのようなボロ電車を使用し、「古臭い電車だなぁ」という印象を植え付けることにはならないのであろうかと沿線民は内心ひやひやしている。
新7000系
7000系のマイナーチェンジモデル。顔と側面のラインを除けば7000系と全く同じ車体である。
直角カルダン、外付けディスクブレーキ、日立式電磁直通ブレーキは7000系時代から健在で、相鉄クオリティ満載の車両である。
しかし、後期型からは当時最新技術であったVVVFインバーターを採用したり、試験的にセミクロスシートを採用するなど、相鉄らしからぬ意欲的な面も垣間見える。
横浜開港150周年の際、1編成がラッピング電車として走ることになったが、車体に描かれていた絵から「肉まん電車」と呼ばれていたことがあった。
8000系
平成に入り、古臭くなってしまった旧・新6000系を駆逐するために開発された車両である。
しかし、今や時代遅れの直角カルダン駆動は健在、その影響で外付けディスクブレーキも健在と、相鉄の変態技術満載の爆音電車となってしまった。
VVVFインバーターを最初から搭載していたことは年相応な点であったが、そのVVVFインバーターから発せられる音も爆音で、下手するとアナウンスが聞こえないほどである。
近頃は、相鉄の知名度向上作戦のために、恋○○○で話題になった某歌手兼俳優のミュージックビデオにひっそりと登場したりしている。そして、数ヶ月後には自分が出演するドラマのロケにも来ている。
9000系
こちらも同じく古臭い旧・新6000系を駆逐するために、8000系と同時期に開発された車両である。
8000系は相鉄を実験台として利用している日立製作所製であったが、こちらは東急車輌製で、このことが日立との関係決裂を生んでしまった原因であるとも言われている。最も、後々VVVFインバーターを更新する際に日立製を採用して仲直りは出来たようである。
8000系と同じく、直角カルダン駆動・外付けディスクブレーキは健在である。いつまで時代遅れの方式を使い続けるんだ。
近年、リニューアルと共にヨコハマネイビーブルーと言う名の2度目の新塗装化が進んでいる。
10000系
あれだけこだわって採用してきた相鉄独自の変態技術をすべて捨て去り、JR東日本のE231系をベースとして開発された車両である。
ようやく直角カルダンが平行カルダン駆動に変わり、爆音に悩まされてきた通勤客や沿線住民もにっこり。
ところがかしわ台の整備士たちは、これまで慣れ親しんだ直角カルダンとは勝手の違う平行カルダンの整備に四苦八苦したようで、度々車両故障を起こしていた。曰く「直角カルダンのほうが楽」らしい。一般的には逆のはずなのだが…。
11000系
10000系に引き続き、JR東日本のE233系をベースとして開発された車両である。
基本的にE233系を踏襲し、将来的な都心直通に向けて仕様の共通化を図っているものの、変態技術の持ち主である相鉄にはなかなかなじめなかったようで、導入当初は故障を繰り返していた。また、東日本大震災や雪害によって相鉄入りを一時延期されたり、あろうことか検査を忘れられたまま走らされたりと踏んだり蹴ったりな形式である。
近年は、後述するゆるキャラのラッピングが1編成だけ行われている。

延伸計画[編集]

現在相鉄は、先述した通り都心への直通運転を達成するために、西谷から新横浜を通り日吉へと至る新路線の建設に奔走している。しかし、乗り入れ先の候補として挙がっていた西武鉄道からは乗り入れをお断りされ、へこんでしまった。おまけに、JR貨物側の都合により開業予定が3年延びてしまい、さらにへこんでしまった。

かつては、二俣川駅から町田方面へと新路線を建設する計画があったりしたのだが、大人の事情により没となり、代わりに現在の相鉄いずみ野線となる路線が計画された。いずみ野線は最終的に平塚までの延伸を目指しているが、採算がとれるか取れないかでもめており、相鉄は当分の間都心直通のみに力を入れていくようである。

知名度向上作戦[編集]

そうにゃん

相鉄のもう一つの特徴といえば、その「知名度の無さ」である。神奈川県民でさえ知らない人がいるという現状では、都心直通を達成したとしても知名度が上がることは難しいだろうということで、最近流行りのゆるキャラ界に進出することになった。

名前は「そうにゃん」。相鉄線沿線のどこかに生息するということであるが、どう見ても狸にしか見えない。 「猫なのに狸と間違えられるのが悩み」ということだが、これについては相鉄の中の人曰く「相鉄沿線ってド田舎自然豊かで狸も出るじゃん?だからあえて狸に似せたデザインにしたんだべ」と開き直っている 某猫型ロボットと全く悩みが一緒であるが、このデザインが功を奏したのか、はたまた宣伝がうまいのか、沿線を中心にふつふつと人気上昇中である。

2015年3月にはそうにゃんの誕生日を祝う「そうにゃんバースデーパーティー」まで開催させる人気ぶりであるが、所詮沿線民しか来ないので大して相鉄自体の知名度向上にはつながっていない。

これでは全く意味がないので、相鉄はひっそりと都心や関西にホテルを作ったりして、地味に知名度を上げていこうと画策しているようである。

労働組合[編集]

この節を書いた人は当局により粛清されました

相鉄グループ関連会社[編集]