皇室タブー

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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皇室タブー(こうしつ-)とは、歴史的事実であり、広く国民から周知されているにも関わらず世の中からタブー視されている事実のうち、皇室に関するものを指す。

注:アンサイクロペディアは、嘘と出鱈目にまみれています。
ここに書かれた内容も嘘や出鱈目である可能性が高いです。
…と、言いたい所ですが、アンサイクロペディアにあるまじき事態なのだが……以下の内容は全て事実なのである。
いやアレだ。色々と本気にしたらガチで身の危険が生じるからな。アンサイクロペディアだからこそ書けるんだからな。

概要[編集]

当たり前のことを当たり前に話すだけで、色々と面倒になってくる話が存在する。世の中はそんなものである。言いたい、言わなければならないものでも、言ったら最後、バキューン!!となってドラム缶の中へ、ということがよくある。とはいえ、インターネットなんだから、そんな怖い人達におびえる心配もそれほど無いはずだが、言えないものは言えない。


あの日本語版ウィキペディアにも、皇室タブーは存在している。要出展とか、中立性とか偉そうに上から目線で言うわりには、こういうことには真っ先に逃亡するような奴らである。ただ、それは日本語版アンサイクロペディアでも同様で、日本の天皇家に関する記事におけるブラックジョークの少なさは、或る意味、日本語版アンサイクロペディア以前に日本人として当たり前の話である。


けれど、歴史というものは往々にしてブラックジョークみたいなものである。そのため、この項目は主に日本語版ウィキペディアにおける歴代天皇の記事を中心に、日本人なら誰でも知ってる、けれども誰もが目に見えないものとしている事実を淡々と記載する。

天皇暗殺[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「東漢駒」の項目を執筆しています。

592年崇峻天皇は自らの後見人である蘇我馬子によって放たれた刺客、東漢駒(やまとのあや の こま)によって暗殺される。2000年に及ぶ歴代天皇の中で、配下による暗殺で命を落としたのは祟峻天皇ただ1人である。が、歴史というものはそんなに単純ではない。なぜなら、暗殺者である駒は天皇を殺害したことで殺されたわけではなく、馬子の娘と姦通した容疑で殺されているのだから、或る意味、そっちのほうがよっぽどひどい。

あわせて、平安時代末期の崇徳天皇にも暗殺説があるのだけれど、基本的に退位した後の扱いが悪いのはウィキペディアでも天皇の歴史でもまったく同じである。そのため、崇徳天皇を暗殺した三木近安なる刺客がどのような人物なのかも、さっぱり分からない。

ついでに浅原八郎とかいうリストラされたサラリーマンが、伏見天皇を後一歩のところで斬り殺せるまで迫った暗殺未遂事件があったのだが、未遂で終わったので火消しも容易にできた。おかげで亀山天皇の薄汚い陰謀も衆目に露見せずに済んだのである。よかったよかった。

なお、同じ皇族である7歳の子供(眉輪王)に暗殺されたとされる安康天皇の話を信じるかどうかは、各人に任せる。あわせて、近親相姦説やらなにやらがあるわけだけれども、それについても各人に任せる。

天皇自殺[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「弘文天皇」の項目を執筆しています。

歴代の天皇の中で、1000年以上にわたってその存在が秘匿されていた、というか、思いっきりなかった事にされていたのが、いわゆる672年に起こった壬申の乱で敗れ、その後明治時代になってようやく天皇としての名前が与えられることになった弘文天皇(大友皇子)である。

その死は、ウィキペディアによれば自殺となっており、歴史の授業でも普通に習うことであるのだけれど、なぜだかタブー視されるのが世の中というものである。あわせて、明確に自殺と分かっているからこそこういった扱いになっているわけで、退位後に幕府への叛意が見咎められて佐渡島に配流された順徳天皇は、病を得た後にも関わらずに断食を行い、最後は頭に焼き石を乗せて亡くなったとされている。けれどやっぱり、ウィキペディアでも日本の歴史でも、普通に崩御したということになっている。

天皇殺害[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「壇ノ浦の戦い」の項目を執筆しています。

何がすごいって、天皇を殺害した人物が日本の歴史では英雄として語られているというのが、日本という国の一筋縄ではいかない歴史観を示しすぎて怖い。

壬申の乱において、弘文天皇を敗死させた天武天皇はともかくとして、源義経については天皇を殺害した東国の謀反人とされてもなんらおかしくはない。けれど、その後の歴史書においても、どこぞのウィキペディアにおいても、ましてや平家物語においてすら1185年壇ノ浦の戦いにおける安徳天皇の死は平清盛から始まる平家一門の栄枯盛衰の物語の終章として語られるのが常となっている。7歳の子どもを死に追いやるという悲劇の裏に、どれだけ隠したいことがあるのやら。あわせて、この一連の物語には溺死とかいう単語はまったく存在しない。存在したらやばいことは、日本人なら誰でも分かる。

何か目に見えない力が働いているとしか思えない。

無論、Category:水難死した人物たこ八郎と同列に並んだら、そらあ色々とマズイ話であるけれど。

天皇家断絶[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「南朝 (日本)」の項目を執筆しています。

これまた一筋縄ではいかない日本の歴史を象徴する話。「天皇家を断絶させたけど、したのも天皇家だから気にしない」。これは後醍醐天皇によって鎌倉幕府が倒された後、建武の新政と呼ばれる天皇自ら政治の中心を担おうとして、思いっきり失敗したゴタゴタの後、最終的に足利尊氏が天皇を見限り室町幕府成立させたことにより始まる南北朝時代において実際に起こった出来事である。

天皇家が真っ二つに分かれて56年間両者がその正当性を主張し続けたこの争いは、いわゆる南朝の後亀山天皇が、1392年に北朝の室町幕府との講和に応じたことで終結する(南北朝合一)。その結果、後醍醐天皇直系の子孫は皇位を剥奪され、南朝方の皇家は断絶されることになる。

まったくもって、日本の歴史で習ったとおりなのだけれど。

けれど、世の中は面白いもので、これまた明治時代に歴史やら皇家の制度を再検証した結果「実は南朝が正統でしたーっ、いえい」となる。ブラックジョークにもほどがある。当然、北朝の子孫がいつ正統になったかについては気にしない。日本の歴史すぎて嫌になる話だけれど、とりあえず、南北朝合一で三種の神器が北朝に渡されて以降の天皇は正統ということになっており、戦後にいたっては北朝の歴代天皇も併記する形に落ち着いている。

まぁ、だからこそ第二次大戦の後に熊沢天皇などという南朝の正統後継者を主張する人物が名乗り出てくるなんてえことになるわけで。

ちなみに、戦前においては、この話題だけで普通に逮捕起訴されるレベルの話であるけれど気にしない。

うつ病[編集]

なお、日本語の奥深さを見せ付けるような天皇家の歴史については、現在においても脈々とその精神が引き継がれており、日本国民に対して隠しているわけではないけれど、ことさらに主張することでもない話がしっかりと存在している。

それは、2004年より体調不良により多くの公務を休まれている皇太子妃雅子様についてである。

日本のマスコミやウィキペディアなどでは、雅子妃の体調不良をストレスから来る適応障害であると説明している。けれども、真実を伝える気風がまだ色濃く残ると書いて「空気読まない」と読む海外のマスコミ及びいくつかの外国語版ウィキペディアでは、正々堂々日本の皇太子妃はうつ病であると書いており、その原因についても日本中から向けられた天皇家の跡継ぎに対するプレッシャーによるものとしている。さらに、海外のマスコミは彼女の存在こそが日本家父長制度における典型的な女性抑圧の象徴とまで書き、それをしっかりとウィキペディアが引用(ドイツ語版ウィキペディアにおける雅子妃の記事より)。海外と日本との間で温度差が激しいことこの上ない状況を生み出している。

あわせて、彼女の健康被害の発端として、日本語版ウィキペディアでは2000年に行われた今上天皇の皇太后である香淳皇后の斂葬の儀(葬儀)を欠席されてからとの記述があるけれど、その年表を見れば、前年に朝日新聞がスクープしたご懐妊報道と直後の流産によって、雅子様の体調がひどくなっていく状況が大変によく分かるようになっている、にも関わらず、それに関する具体的な説明はなされていない。そもそも、当事をよく知る日本人であれば誰だって知っている話であるものの、なぜだか日本語版及び英語版のウィキペディアにはその記述が存在しない。

日本の歴史、および天皇家の歴史というものが、どのようにして積み重なっていくかを示す大変に興味深い話である。

この件については、日本語版および海外のウィキペディアでも、2006年に悠仁様が誕生してから雅子妃の体調は回復していると記されており、場合によってはいつもどおり日本史の影に隠れる可能性もある。むしろ、いつもどおり日本史の影に隠れ始めていて怖い。

血統[編集]

天皇家の血筋というものを考えてみると、さまざまな、本当にさまざまな話が出てくる。ごく当たり前な話として、いわゆる日本の英雄と呼ばれる人々、たとえば徳川家康足利尊氏といった教科書に載るような人々は、本人はそうでなくても後の世代で積極的に天皇家の血筋との婚姻政策を行っており、それは結局のところ、天皇家の母系をさかのぼると「日本の歴史オールスター」になることを意味する。

けれど、それはすなわち、最も下から這い上がった人々の血が天皇家の血筋に入っていることを意味する。その中でもマシとも言える徳川家康について簡単に説明すると、室町時代の初め、徳阿弥なる時宗の遊行僧が三河の松平氏に婿入りし、松平親氏を名乗った後、在郷の領主を退けて松平氏の繁栄の基礎を築いたとされており、ほんのわずかな土地に根付いた血筋から、200年後に天下を統一する大英雄が現れ、その血筋が天皇家にもたらされたという話である。また、織田信長の血筋も、彼の次男である織田信雄の子孫がこれまた公家と政略結婚をして、その血がまたうんぬんという話になり、やはり現在の天皇家の血筋に入っている。これぐらいならさほど問題がなさそうに見える。


これがしかし、豊臣秀吉になってしまうとそう簡単にはいかなくなる。


そもそも、元がドがつくレベルの百姓の出身であり、しかもよばわりされて、右手の指が六本あってとかなんとかいうその血筋は、残念ながら息子の豊臣秀頼の代で絶えてしまうのだけれど、秀吉の姉、日秀尼の孫である羽柴完子が公家の名門である九条家に嫁いでおり、その子孫が大正天皇に嫁いで貞明皇后となっていることから、傍系とはいえ、豊臣家の血筋もやはり天皇家に入っている。すなわち、16世紀半ばごろの三河の国に在住していた最下層の百姓のおっとうとおっかあの血が、一代の英傑の出現によって、紆余曲折を経てそのまま天皇家に入った。日本の歴史はこうでなくちゃ面白みがない。しかし、天皇の血筋に高貴だの品格だの言っている人の前でこんなことを言ったら、自分が血まみれになるだけである。


ちなみに、このような状況なので女性宮家の話に父系血統云々いって、大反対しているのだが、南北朝時代から明治天皇すり替えまでの間のどこかで母系に変わっている可能性があるのに何言ってるんだ、という話もタブーなので語らないほうがいい。

近親婚[編集]

近親婚なんて、昔では常識の範囲内。しかし、段々と近親婚の生物学的ヤバさが明らかになるにつれて異常なものとして扱われていく。平安時代を通して近親婚が繰り返された天皇家も、当然ながら書くに書けないアレな話は山程あるのだが、日の当たる場所には見えていない。

それでも、平安末期から鎌倉時代以降は平家源氏といった外の血が大量に入ることになり、時代を経るごとに少なくなっていく。けれども、本当に怖いのはここからである。つまり、逆から考えることも可能であり、近親婚を繰り返したことでアレな逸話が多い平安時代の天皇家の話や、近世におけるハプスブルグ家の呪われた血の問題、代を追うごとに奇人変人続出のローマ皇帝などの諸問題が、そっくりそのまま民族まるごと半島全域とかに当てはまるという大変にろくでもない話につながる。


その昔、どこぞの半島で暮らす民族の遺伝子を調べたドイツ人の学者が近親相姦を繰り返さなければ発生しない遺伝子の傷を発見。しかも、数世代を繰り返さなければ残らないDNAの損傷の多さに愕然、なんていう話があり、2010年代のインターネットでも盛んにコピペが出回っている。これは、某半島には民族特有の試し腹と呼ばれる近親相姦を容認する悪習があり、およそ700年ほどにわたって繰り返された歴史がある。そのため、DNAやら遺伝子の傷という話は一応は説得力を持っている。なけりゃよかったんだけど、ある。けれども、その話はそのまま平安時代の天皇家の婚姻事情や中世から近代にかけてのヨーロッパにおけるハプスブルグ家の婚姻政策、果てはグチャグチャのドロドrとしか言いようのないローマ帝国の皇帝の血縁関係にも当てはまる。


うん、この話はここでやめよう。絶対にやめよう。こんな話は、どこぞの国が大嫌いなネトウヨしか喜ばない。

その他[編集]

何が恐ろしいって、誰もが知っている歴史的事実であるはずなのに、日本語を駆使して強烈な4文字、もしくは5文字を歴史という言霊の中に今も昔もこれからも隠し続けていくところが恐ろしい。文法が発展するというのは、えてしてこういう事情からってところが本当に恐ろしい。けれど、上記したような日本人が歴史の授業で習った話以外にも天皇事故死だの天皇発狂とかいう事実もしっかりと存在し、しっかりとウィキペディアに記載されている。隠しているわけではないけれど、正々堂々主張する意味も意義も存在しないということである。

歴史の歴史たる所以である。

あわせて、天皇呪殺とかいう話ですら、しっかりと歴史的事実として語られるのが、日本の歴史の奥深さというか、闇の深さである。とりあえず、呪いで死んだのではなかった場合、だれがどのようにして、どういった意味をもってそういう話になったかについて、まったく言及されていないため、いつまでもどこまでもこの言葉が歴史に刻まれ続ける。

とりあえず、天皇家にとって平安時代がまったく平安じゃなかったことだけは確かである。

関連項目[編集]