片倉景綱

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「景綱・・・あの小僧には勿体ない家臣よのう。」
片倉景綱 について、織田信長
「ほれ、胃薬やるぞ。」
片倉景綱 について、徳川家康
「あんたも大変だな、あんな荒くれ者のお守りなんて。」
片倉景綱 について、前田慶次


片倉 景綱(かたくら かげつな、弘治3年(1557年)-元和元年10月14日(1615年12月4日))は、戦国時代サムライであり、手のつけられない中二病独眼竜伊達政宗を飼い馴らした凄腕の猛獣使いでもある。「小十郎」という通称で有名。この通称は曾我兄弟の兄曾我十郎に肖って付けられた名前で、後の片倉家当主に代々踏襲される通称として定着した。

重度の中二病でありDQNでもあった政宗を胃痛に耐えながらも支え続けた忠臣として人気が高い。しかし普通なら耐え切れずに投げ出してしまう中二病患者の介護を最後まで行ったのだから、彼の精神力も化け物レベルだろう。


生涯[編集]

幼少期、最初の尻拭い[編集]

幼少時は神社の神主の子供として誕生したが、巫女服が似合わないという理由で伊達家に奉公に出された。そして梵天丸(政宗)の調教師に選ばれた。当時、梵天丸の教育係は彼の中二病っぷりにうんざりして次々に脱走を図っており、困った父輝宗が景綱に息子の教育と矯正を頼んだのである。必死の嘆願に負けて教育係を引き受けた景綱は梵天丸のDQNっぷりに驚愕を覚えた。しかしここで引き下がるわけにはいかないと彼は必死に梵天丸に一般常識を教えた。しかし従順さに欠ける梵天丸は度々勉強をすっぽかして悪戯を繰り返していた。そんな時は魔法のネギをかざして「必殺☆極殺もーど」を発動させて梵天丸を懲らしめた。しかしこのモードは一度発動すると収まりがつきにくくなるので、普段は口元を布で封じ込めるようになった。

青年期、暴走する主人[編集]

梵天丸が政宗と名を改め、伊達家の家督を継ぐと彼は伊達軍の軍師として務める事になる。しかし成人しても主人の中二病は治る気配を見せなかった。主人が暴れると極殺モードを発動し一旦は鎮まるもののしばらく経つとまた暴れるの繰り返しであった。そんな時に、北関東と奥州中の893連合が伊達家に襲いかかった。政宗はここで暴走を始め、ありとあらゆる戦場に独眼竜ビームを乱射し、戦場を火の海にした。それでも主人の暴走は止まる事は無かったので、景綱は主人を止める為に「必殺☆極殺もーど」を発動し、主人の暴走を3日間かけてようやく止めた。その後の景綱は猛烈な胃痛に悩まされ、一週間は胃痛により動けなくなった。それからしばらく経ったある日、主人より先に子供が産まれた。片倉重綱(後に改名し重長)である。景綱はその子供をどうするか考えていた。重度の中二病である主人より先に子供が生まれては自分の子供が何をされるかわからない。彼は戦慄していた。しかし、当の政宗本人は子供の事など気にしてはいなかったばかりか、重綱に一目惚れしてしまい、「大きくなったら俺のペットにしていいよな?」とほざいた。我が子の命は守られたが同時に我が子に貞操の危機が訪れ、再び胃痛に倒れてしまった。

壮年期、豊臣政権と関ヶ原の戦い[編集]

政宗が奥州の覇者(とはいっても、最上家等の家は存続している)となった後、秀吉の奥州討伐にギリギリで屈し、豊臣政権の下で生きる事となった。豊臣秀吉から景綱へ「豊臣家では直参の優秀な軍師を募集しています。給料は5万石、社会保険完備」と好待遇でお誘いが来ていたが、監視役の自分が離れて政宗を放置しておくと全奥州が焦土と化しそうなので辞退した。政宗が何か奇行を起こしてしまわないかと心配し、その度に胃痛を引き起こし徳川家康お手製の胃薬を貰ってどうにかやり過ごしていた。そんな間に息子の重綱は成長して父の悪い予感通りイケメンになった。小早川秀秋がストーカ化して重綱を追いかけ回した。言うまでもなく政宗は重綱とギシギシアンアンの関係となった。秀吉の死後、天下は二つに分かれ伊達家は東軍に所属する事となった。西軍方の上杉景勝の宿老直江兼続が大軍を率いて最上領に攻め込んだ。ここで再び戦場を火の海にしてはたまらないと景綱は必死に主人を説得した。景綱は「上杉と最上が戦って戦力を消耗した後に叩けば楽勝です。」と主張した。政宗と景綱、二人の意見が交差するうちに関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わる。戦場を火の海にせずに済んだ景綱が安心したその時、政宗が自分の活躍する場を奪われた腹いせに八つ当たりとして山や木々を破壊してしまった。このままでは味方の軍まで巻き込まれると思った景綱は「必殺☆極殺もーど」を発動して1日かけて暴走を沈めた。結局政宗の暴走が祟り、100万石の件が白紙に戻されてしまった旨を聞き、景綱はまた胃痛に倒れてしまった。家康としても気の毒に思ったらしく「残念賞として刈田郡2万石を差し上げます。白石城は一国一城令の例外にするので景綱の隠居場所にするように。あと胃薬を作ったので一緒に送ります。」と気遣っている。

晩年期、大坂の陣、そして我が子へ[編集]

それからしばらくして景綱は一線から引き、代わりに息子の重綱が文字通り政宗のペットとして働く事となった。政宗は重綱を大層気に入っており公衆の面前でKissしてしまうくらいの気に入りようであった。そして徳川軍として戦った大坂の陣で重綱は自ら石垣を駆け上り後藤又兵衛を討つほどの活躍を見せた。政宗は重綱の快挙を大いに喜んだ。景綱は「将としてあるまじき行為」と叱っている。重綱は「真田幸村の娘をもらってきました。」と報告した。幕府に知られたら非常にまずいことで景綱は胃に激痛を感じて倒れた。胃痛に悩む景綱のために白石の領民が「胃に優しい食べ物を」と作って献上したのが白石温麺である。そして戦後も主人政宗の度重なる問題行動に頭を悩まされ、とうとう胃腸虚弱により倒れてしまう。荒くれ者の主君を止められる自分にいよいよ死期が訪れ、一抹の不安を感じた。我が子重綱と主君の息子忠宗に主君の暴走を止めてくれる事を願いながらこの世を去った。しかし死をもってしても政宗の暴走は止まらず、寧ろ景綱が亡くなった事でブレーキが利かなくなってしまった。政宗は景綱の必死の教育と防衛と矯正の甲斐無く、後年になって戦国のDQN四天王、「北の政宗」の称号を与えられる事となった。これに責任を感じた景綱はあの世でも胃痛で倒れるハメに。

景綱に関する情報[編集]

政宗との主従関係は度々あらゆる文献でも書かれて美化されて語られる為、腐女子の格好の獲物になっている。極殺モードを発動させる為にネギが必要なので、自宅の庭でネギを自家栽培していた。またネギの他に口を布で覆って能力を抑えているので、ネギを持たず口を覆っているうちは極殺モードは発動しない。

関連項目[編集]

Wikipedia
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