源頼家

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源 頼家(みなもとのよりいえ、1182年 - 1204年)は、鎌倉幕府の2代目将軍で、源頼朝の次男で、母親はヤンデレ北条政子である。異母兄は源忠頼(千鶴丸)、同母弟は源実朝、同母妹は大姫(はとこ木曾義隆室)。

概要[編集]

治世期間はたったの4年と短く、頼朝時代の老臣に掣肘されて大した業績を挙げられなかったものの、鎌倉幕府二代目将軍という立場と後述するあまりに凄惨な最期で一応歴史にそこそこの認知度を残すことが出来た。

御家人達を纏め上げ、幕府を盛り立ててゆこうという気概こそあったが、北条氏の政敵であった比企能員の娘(若狭局)に惚れ込み、ついには彼女を妾にしてしまい、比企氏と緊密な関係になってしまったため実家の北条家との関係が悪化、その後ヤンデレママ政子に若狭局を殺されたことで激昂、北条氏を皆殺しにしてやると息巻いたためご乱心として将軍の座から引き摺り下ろされて幽閉され、1年後変死した。死因については暗殺説が濃厚で、しかも風呂場で刺客に襲われ、金玉を握りつぶされ、ペニスを切断されて悶死という大変ショッキングな死に様であったらしい。

愚昧で思慮分別が欠落した、典型的な親父の遺産を食い潰す駄目な二代目(例えるとしたら劉禅)としての印象が定着しているが、親父の頼朝からは跡継ぎの器量無しの烙印を押されなかったので、辛うじて廃嫡された人物にカテゴライズされることを免れている。

生涯[編集]

親父の衣鉢を継いで[編集]

親父の頼朝が馬から落馬して死んだため、18歳で家督を継承、鎌倉幕府2代目将軍として、関東武士達を統括して行くこととなる。ところが、本音では自分達が政務を壟断したい北条時政ら有力御家人達が、「頼家はまだ若すぎて幕府を統括するのは荷が重い」という建前を設けて、自分達による合議で政務を施行することを勝手に決めてしまう。所謂十三人の合議制である。後世では北条氏が頼家下ろしを正当化すべく暗君に歪曲され、扱き下ろされてしまった頼家だが、実際は澎湃と溢れ出る鋭気を持った勇壮な人物であり、御家人の中にも優れた指導者として嘱望する声も多かった。が、有力御家人である北条やら比企やら梶原やらにとっては傀儡でいてくれる方が都合が良いので、頼家を何とか傀儡化しようとした。そこで自分達の合議制で政務の採決をすることを決定し、彼の出鼻を挫いたのである。

老害粛清[編集]

当然頼家は激怒した。激怒して即座に行動に出た。その結果頼朝の懐刀として辣腕をふるい、幕府内に広範な権力を保有していた梶原景時が最初に抹殺された。景時抹殺事件は同じく梶原の排斥を目論む時政らが頼家を教唆して粛清に踏み切らせた、頼家は傀儡に過ぎないと言う見解もあるが、頼家のアグレッシヴな性格を勘案すると頼家自身自主的に景時粛清に働いたと考えられる。

激情家による施政[編集]

気性の激しい頼家は、自分が率先して政務を施行することを強く望み、親父の頃の古い時代の家臣、所謂『老害』と呼ばれる連中を片っ端から排斥、粛清し、人事を一新して周囲を自身の側近で固めようと考え、また頼朝が制定した恩給制、土地制を抜本から改革しようと試みるなど、危ない橋を渡ろうとして頼朝以来の御家人から危険視されたりしたが、まあさすが頼朝の子と言うべきか、はたまた母親政子が色々助言したのかは知らないが、その辺は何とか上手い事折り合いを付けて解決し、そこそこ円滑に政務を執り行っていた。

母子の亀裂[編集]

しかし、頼家と母の実家である北条氏との間に亀裂が生じるような出来事が起こる。有力御家人である比企能員が、娘の若狭局を頼家に引き合わせ、頼家は彼女にすっかり惚れこんでしまい、俄然比企家との繋がりが強くなり、能員らを優遇するようになる。狡猾な能員は更に頼家がまだ幼少の頃より自分の息子達を頼家の側近として近侍させ、結びつきを強固にしていた。

俄然、外戚としてそれまで優位にあった北条氏は比企氏に差を付けられるようになり、また政子も愛息に殆ど相手にされなくなってしまう。ヤンデレの政子は、愛息を自分から遠ざからせた若狭局、ひいては実家である比企氏に強い憎悪の念を抱いた。

政子の父で、北条氏の総帥である北条時政も、幕府内でのヘゲモニーを比企に取って代わられ、北条氏の政治力が減退することを危惧した。利害、目的の一致した父娘は比企一族の討伐を画策…まではしたのだが、いくら憎き敵とは言え息子の妻、殺してしまえば頼家は自分をますます遠ざけるばかりか徹底して忌避してしまうのではないかと懸念した政子は逡巡していた。

病床に伏している間に[編集]

そんな中一大事が起こる。頼家が突如病床に伏したのである。病は重篤化し、まず助からないと言われていた。時政にとっては僥倖であった。彼は政子に

「頼家が病床に伏したのは若狭局とセックスしたせいで性病に感染したからだ。若狭局が頼家以外の男とも遣ってるビッチなのは言うまでもない、でなければ頼家が病に罹患するはずもない」

と、頼家が病に伏したのは若狭局の所為だと吹き込み、更に若狭局の父親である比企能員が頼家を呪い殺すために調伏を行っており、それが頼家の病の重篤化に拍車を掛けているとフレームアップ、頼家を助ける為には比企一族を殺すしかないと教唆、煽動した。父時政の言葉を鵜呑みにした政子は激昂し、比企一族粛清に踏み切る。粛清に踏み切ったのは、政子の弟であり、頼家と蹴鞠や和歌に興じてつるんでいた北条時房であった。時房らは何食わぬ顔で比企の屋敷に赴き、若狭局含む比企一族を皆殺しにした。

絶縁[編集]

比企一族粛清から間もなくして、頼家の病は奇跡的に平癒。政子は病の原因を作り出していた比企一族を滅ぼしたことで頼家の体内に救う病魔が雲散霧消したと悦んだが、愛する若狭局を殺されたことを知った頼家は案の定激昂、北条家とも母政子とも絶縁宣言し、更に自分に比較的従順であった和田義盛仁田忠常の二人に北条氏を滅ぼすよう命令、ここに頼家と北条氏との亀裂は決定的なものとなった。

そしてこの計画、こともあろうに和田義盛が義時、政子らに告げ口したので容易く露顕した。北条側はこの計画を事前に察知し、仁田忠常を殺害して、忠常にに全ての罪を擦りつけ殺すというトカゲの尻尾切りを行い、仁田の首を献上することで頼家の怒りを宥めようとしたが、無論そんな阿漕で姑息なやり口で頼家が納得するはずもなく、一触即発の雰囲気が醸成されていた。

失脚と最期[編集]

機先を制したのは北条であった。時政、義時ら北条一門がクーデターを起こして頼家を降し、頼家は将軍職剥奪の上出家させられ、伊豆の修善寺に配流され、将軍職は弟の千幡こと源実朝が継承した。その一年後、頼家は修善寺で謎の変死を遂げる。「愚管抄」には、入浴中に刺客の集団に襲われ、剛力の持ち主である頼家は素手で複数の刺客を次々蹴散らし、四方八方から太刀で斬りつけられ、槍襖を作られ串刺しにされたが強靭な頼家はなおも抵抗したので、刺客達は金玉を握りつぶした挙句、ペニスを脇差で斬りおとしてようやく息の根を止めたという、凄惨な最期が描かれている。

ふぐり切断伝説の真贋[編集]

金玉を握りつぶされ挙句ペニスを斬りおとされて死んだというのは慈円の悪ふざけによる捏造ではないかという疑惑もあるが、頼家の死から30年後、頼家の金玉を握りつぶしてペニスを斬りおとした刺客張本人を名乗る人物が、 鶴岡八幡宮に切断した頼家のペニス(らしきもの)を慰霊、供養のために奉納したという話が複数の史料に記述されており、また面白がった口さがない野次馬達が脚色を加えて全国に喧伝したこともあって、今では金玉を握りつぶされて死んだというのが半ば史実として定着している。

ちなみに、自称頼家のペニスを切断した刺客が奉納したと言われる頼家のペニス(本当に頼家のペニスかどうかは不明だが)は今尚安置されており、閲覧料7165(ナウい息子)円を支払う事で誰でも閲覧する事が出来る。閲覧した人の証言によれば「大根と見間違うほどの」サイズだったらしい。

頼家の亡霊[編集]

中世の時代は「御霊信仰」「因果応報」といった思潮が盛んで、非業の死を遂げた人物は亡霊となって祟りを為すと信じられ、災害や飢餓が起こるとその亡霊によるものだと噂された。頼家も当然怨霊となり、自分を滅ぼした北条家に祟りを為したと信じられていた。例えば、頼家の死後、畠山重忠和田義盛など、鎌倉の有力御家人が次々と粛清されたが、これも頼家の祟りによるものだという風聞が飛び交った。頼家のあとを継いで三代将軍となった弟の 実朝は、鶴岡八幡宮参詣の折頼家の忘れ形見である公暁の手にかかり非業の死を遂げたが、三浦義村の弁によると、実朝を憎悪する頼家の亡霊が公暁に取り付いて実朝を殺すよう仕向けただけで、公暁自身に実朝を殺す意図はなかったらしい。しかし北条義時が公暁の身柄を引き渡すようしつこく要請したので、義村はやむ終えず口封じのため公暁を殺害した。また、鎌倉時代中期には、ペニスを切断された頼家の亡霊が、己のペニスを取り戻すべく、道行く人々(男性限定)を襲い、殺害してペニスを切断し奪い取っているという風聞が流れ、鎌倉近郊で御家人がペニスを切断されて死亡すると言う殺害事件も何件か報告されている。

その他[編集]

ペニスを切断されて死亡したことは前述の通りだが、精悍で屈強な頼家はペニスを切断されて尚気力だけで生命力を維持し、知己の中である面作師の夜叉王の元に駆け込んで、「俺のデスマスクを作れ」と請願、夜叉王にデスマスクを作らせたという逸話がある。真偽は不明だが、鶴岡八幡宮にはこのデスマスクも奉納されているらしく、見た人曰く、「凡人なら一目見ただけで卒倒するほどの、憤怒と苦悶に満ちた般若のごとき形相」だったらしい。ちなみに岡本綺堂はこの逸話を元に戯曲「修禅寺物語」を作り上げた。内容は逸話と大分差異があるが。

母を愛せなかった男、母を憎しみ続けた男[編集]

ペニスを切断されて殺されたことで揶揄、嘲笑されることの多い頼家だが、実際は彼はとても悲しい経歴の人物である。

当時の価値観に即して言えばあれば珍しいことではないとはいえ、息子より実家を選んだ母親に排斥され、叔父であり友人でもあった時房に裏切られた挙句、彼とその兄義時に最愛の妻と比企家の友人達を殺され、そして最後は自分も彼らの手によって殺されることとなるのだ。自分を産んだ母親にここまでの仕打ちをうけた頼家の悲しみ、恨み、憎しみ、憤りは想像を絶するものであったと言えよう。

愚管抄』は、頼家が最期に「7回生まれ変わっても、蛇として蠍として生まれ変わり、北条の家に毒を打ち込んでその血脈を根絶やしにしてやる」と断末魔の絶叫をしたと伝えている。そして頼家の執念がかなったのかどうかは知らないが、北条氏は歴代執権を筆頭に短命が多く、1333年に、頼家の側近であった仁田忠常と似たような姓を持つ新田義貞の鎌倉攻撃によって滅亡した。

Wikipedia
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