源田実

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源田 実(げんだ みのる、源田 實1904年明治37年)8月16日1989年平成元年)8月15日)は日本を代表する曲芸飛行家である。彼が率いる曲芸チーム源田サーカスは、戦前の国民で知らぬ者はいないくらい有名な曲芸チームであった。

[編集] 経歴

広島県山県郡加計町(現・山県郡安芸太田町)の農家に生まれ1921年(大正10年)、広島第一中学校(現・県立広島国泰寺高校)を卒業、パイロットに憧れて同年海軍兵学校の入学試験に合格(海兵52期)、1924年(大正13年)7月、同校を卒業。しかし堅苦しい軍隊生活に馴染めず、ほどなく退役して民間の飛行家となる。しかし当時は民間での航空需要がほとんど無かった。

この頃、国民からの寄付による軍への飛行機の献納が盛んに行われ、源田はそれに目をつけた。日本各地で行われた献納式のパイロットを務めたのである。彼が率いる三機編隊による巴宙返り、編隊宙返りは各地で人気を博し、源田サーカスと呼ばれ親しまれた。

軍を辞めたはずなのに結局は献納運動で軍に接近した源田は、その後民間人でありながら、軍の航空政策に余計な口出しをはじめる。その主張は、「戦艦は無用だから沈めてしまえ!」「戦闘機は要らないから爆撃機だけにしろ!」「やっぱ戦闘機は必要だけど、戦闘機に防弾は要らない。大和魂と千人針さえあれば、敵の弾が当たる事は無い。」といった、支離滅裂なものであった。さらには真珠湾攻撃の際に民間人であるにもかかわらず、勝手に空母に乗り込んで、作戦指揮にも口を出した。しかも信じられない事に、当時の日本海軍の機動部隊の司令部は、南雲忠一草鹿龍之介といった飛行機の事などまるで知らない素人によって編成されており、民間人である源田の言うなりになってしまった。この源田のやりたい放題に対して、とうとう山口多聞が抗議の自殺をするという事態にまで発展した。

さすがに軍上層部もこの事態を放置できず、源田実は軍を追放され、民間のサーカス会社を設立する事となった。ところが源田は会社設立にあたって、戦時中にもかかわらず軍の有能なパイロットを大量に引き抜いてしまい(その中にはエースパイロットの坂井三郎もいた)、軍は深刻なパイロット不足に陥った。さらに源田は頼まれもしないのに勝手にサーカス用の飛行機を率いてアメリカ軍と戦闘を始めてしまう。ある時は300機あまりのアメリカ軍機を迎え撃ち、このうち57機を撃墜、これに対し味方の空戦での損失は16機という戦果をあげたなどと大ボラを吹いているが、米軍の記録によると実際の損失は21機であり、全く計算が合わない。

だがサーカスを通じて国民の人気があった源田は、戦後国会議員に立候補して見事当選。その人気を背景に国防族のドンとして君臨し、我が国の防衛に余計な口出しを繰り返した。さすがに源田の悪評をよく知っている歴代の総理大臣は、決して源田を入閣させなかったようだが。

[編集] 関連項目

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