源忠頼

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索
この記事にはユーモアが不足しています。治療には十分な栄養と日光愛情ナントカ還元水が必要です。
ユーモアの摂取方法にも十分気をつけましょう。
在りし日の薄倖な忠頼(千鶴丸)…。

源 忠頼(みなもと の ただより、1172年? - 1178年?)は、鎌倉幕府征夷大将軍源頼朝の長男で嫡子。八重姫藤原維幾の裔・伊東祐親の娘)、伊豆国平清盛によって伊豆に流罪された頼朝と伊東八重との間に生まれた。通称は三郎、別名は忠朝。幼名は千鶴丸。一般的には「千鶴丸」が有名のようである。

異母弟は頼家実朝、異母妹は大姫(はとこ木曾義隆)。

不幸な公達の生涯[編集]

頼朝にとっても初めての子で、から溺愛された。しかし、母方の祖父の伊東祐親は清盛から頼朝の監視を命じられたたために、内心は外孫の千鶴丸を「うほほ~可愛い、千鶴丸よ」と顔をほころばせて、可愛がっていた。だがゲシュタポなみの清盛の顔を立てなければならず、敢えて心をにして距離を置き、娘と外孫を幽閉したのである。嗚呼…可哀そうな八重と千鶴丸…。

この噂を聞いた北条時政中臣鎌子(伊豆国造)の後裔)は、ニヤリと笑い「祐親を蹴落として、俺の娘の政子が三郎(頼朝)の妻になれば、無位無官だった北条氏の存在もに当たるだろう」と呟いた。伊東祐親にとって北条時政は肝臓病気のように煩わしいライバルであり、祐親を蹴り落としすには、自分の娘のヤンデレな政子を頼朝の妻にすることは時政の必死な願いであった。

そこで、狡猾な時政は長男の宗時と次男の義時とともに陰謀を企てて、計画の実施を開始した。まず、京都にいる清盛に、宗時を派遣した。清盛に面会した宗時は「伊東祐親は清盛公直々が頼朝の監視を命じられた責任者でありながら、無断で自分の娘を頼朝に嫁がせて、千鶴丸という男子を儲けでいるのです。これは清盛公に対して謀反を企んでいる見方もある模様ですよ」巧みに讒言をしたのである。

激怒した清盛は「ただちに祐親に出頭するように命じよ!」と顔をタコのように紅潮して、四男の平知盛を伊豆に派遣したのである。

祐親の屋敷にて、知盛と面会した祐親自身は身の覚えがないために、知盛に向かって「わが伊東家は祖の維幾以来から、貞盛公に忠節を誓ったのです。けつして他意はございません」と弁解した。さすがの知盛も躊躇したが、知盛の傍らにいた時政が口を挟んで、「知盛公、この祐親の疑いを晴らすためには、祐親の娘の八重姫と、その子の千鶴丸を粛清することでござる。さすれば、祐親の罪は晴れましょう…」と薄笑いして進言したのである。

これを聞いた祐親は激怒し「おのれ…時政!!この場で叩き斬ってくれん…」と身を構えた。だが、時政は「知盛公、あれが祐親の本性です。謀反は間違いござらん」と言い出したため、知盛も「祐親よ、わしはそなたの忠節を疑っておらん。のう、わしの顔を立てて、娘の八重と外孫の千鶴丸を時政に引き渡し、その処置をまかせて、これで一件段落にしようではないか?」と祐親の心情を察して言った。

祐親は顔を引き攣り、をながして、「敬愛する知盛公の御為なら…」と泣く泣く八重と千鶴丸を時政に引き渡したのである。

この時に千鶴丸は元服して、「忠頼」と名乗っていた。岳父の祐親からこの話を聞いた頼朝はまだ31または32歳の若者で、この話を聞いて錯乱した。何としてもわが子を助けたかったが、頼朝自身も14歳のときに処刑寸前だったのを、清盛の継母の池禅尼・藤原宗子(平頼盛の母)が「こんなか弱い少年の命を絶つのはやめとくれ…」と継子の清盛にせがんだ。清盛も「ツァッ」と舌打ちし、こうして頼朝は助命された過去があるから、祐親は「すまぬ…婿どの。わしには何もできん」と頭を下げて、頼朝に詫びたのである。 

こうして、頼朝と祐親は観念して、ついに八重と忠頼は時政は娘の政子に拉致される形で引き渡され、母子は哀れにも毒殺され、その遺骸はに投げ落されたのである…まさに外道の政子である。忠頼は享年7であった。

吾妻鏡』では、祐親が清盛の機嫌を取るために、自らすすんで娘を幽閉し、外孫の忠頼を絞殺し、に捨てたことになっているが、これは北条氏とその縁戚の足利氏の都合で書かれたものだから、信用してはならない。

こうして、妻と子を喪った頼朝は、時政の言うがままのロボットとなり、政子を妻に迎えて、翌年に大姫をはじめとして、次々と頼家・実朝らを儲けたのである。

その後のエピソード[編集]

1180年に、頼朝は時政にそそのかされて、挙兵し伊豆目代の山木兼隆(「関兼隆」とも。貞盛の孫の平正済の末裔)を討ち取った。婿の頼朝の背後に時政がいることを知った祐親は時政の無節操に激怒し、時政の同族で、自分の婿でもある大庭景親梶原景時ともに石橋山の戦いで、これを撃破した。

頼朝と時政は安房国にのがれ、千葉常胤を頼った。翌81年に相模国三浦義村の援助で、祐親と景親らは景時の裏切りで、大敗した。だが、頼朝は岳父の祐親を許して、自分の幕僚に加えるつもりだった(女婿の景親は許されずに、斬首された)。

これを聞いた時政は「やばい…このままでは、祐親はこの俺に復讐するだろう。こうなれば先手を打って、俺が祐親を斬る!」と呟いた。こうして、翌82年に祐親は時政の刺客の兇刃に斃れた。祐親の最期の言葉は「わしは八重と千鶴丸とともに怨霊となり、時政を祟り殺してやる!!」だった。

頼朝も岳父の非業の死をかなしみ、伊豆の住人に祐親の石碑をつくらせ、手厚く供養させた(前述の『吾妻鏡』で、富士川の戦い以後にもうひとりの婿の三浦義澄の嘆願で助命されるも、祐親はこれに恥じて自害していることなっているが、これも北条貞時らの捏造である)。

はるか後になるが、1999年に落馬した頼朝が急死したのは、亡き長男を忘れられない頼朝の復讐を懸念した政子と祐親と八重と千鶴丸(忠頼)ら亡霊に悩まされて錯乱した時政の仕業といわれる。

悪事を繰り返した時政は1215年に祐親と八重と千鶴丸(忠頼)ら亡霊によって、ついに祟り殺されたのだった。

忠頼(千鶴丸)よ…安らかに成仏しておくれ…

それにしても、頼朝の息子たちは全て北条氏の魔手によって非業の死を遂げているのは、非常に残念なことだ。

関連項目[編集]

Wikipedia
ウィキペディア専門家気取りたちも「源忠頼」については執筆を躊躇しています。そのような快挙を手際よくやりおおせたことは、我らの誇りです。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「伊東祐親」の項目を執筆しています。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「伊東八重」の項目を執筆しています。


歴史の渦に巻き込まれる! この項目「源忠頼」は、歴史に関連した書きかけ項目から歴史に残る記事進化しなければならない。
歴史は今作られている!君の名をこの記事(の履歴)に刻むのだ。 (Portal:スタブ)