清原和博

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「清原さんは大変な物を盗んで行きました、僕等の給料です!!」
清原和博 について、オリックスバファローズ選手一同

清原 和博(きよはら かすひろ、1967年8月18日 - )は、2008年ようやく現役引退したスラッガー。引退したにもかかわらず“未完の大器”とか“練習不足”とか言われている。フライデーが張り付くうちに番長がニックネームになってしまったが、横浜の某リーゼントのほうが先である。

グラウンドへの礼を欠かさない、本来非常に礼儀正しい男であったが、巨人に入ってから怪我と強制出場のオンパレードでヘタレと化している。

人物[編集]

高卒新人1年目からプロ野球の4番をはるという偉業を達成すると、その後も一塁手一筋でゴールデングラブ賞を5回受賞し、その他のポジションは殆ど守らなかった。高卒ルーキーから一塁手でレギュラーをとった選手は非常に珍しく、あとにも先にもこの清原和博くらいである。黄金期西武の選手らしくいろいろ遊んでたようだが、巨人に入るまではそれなりにマトモだったような気もしないでもない。いや、凄いバッターだったんだよなあ。ただ、努力をする才能に恵まれていなかっただけで。外角の球を右翼ポール際へネジ込む技術(ただの流し打ちなら、スライス掛かってファールになるのに)を褒めてもらってた。かっとばせ!キヨハラくんなんて漫画にも出てたし。

西武時代には主軸として頑張っていたが、顔がお馬さんであることを顧みず、巨人に入ると肉離れしようが靭帯を切ろうが怪我でも休めなくなってしまい、スケープゴートの先輩格の原辰徳と同じ運命を辿ることになってしまった。

ボロボロの下半身をボブサップのような筋肉のヨロイで固めてみたが結局一時しのぎ。というより全く裏目。重くなった身体がヒザをボロボロにしていった。原も手首とアキレス腱を痛めてからは4年が限界だったっけ。あの時、ナベシネのアホが休ませてやってれば。

結局、巨人を石もて追われてしまうが、阪神ブームにケンカを売った仰木彬に拾われ九死に一生を得る。

オリックスじゃ逆転サヨナラ満塁ホームランを打ったりもしたが殆ど活躍できずプロリハビリストと化。盛大に引退をセレモニーを行ってもらうが引退後は帰京、西武のユニフォームを着たりしている。

オリックスに感謝せんでもええ。死に場所を与えてくれた仰木さんにだけは恩返しせえよ。

西武での現役時代の応援歌は名曲として有名。「光り輝く 日陽はまた昇る 燃える男だ チャンスに強い清原」の歌詞は名前の部分を変えチャンステーマとして引き継がれているが、最近ではキヨ本人の頭が光り輝いていたり893化したり歯が嫌にまっちろかったりといった外見の不気味さが話題となっている。どこに行くんだか。

備考[編集]

内角球を避けられないことに定評がある。どちらかというと外角打ちが得意なので、苦手な内角球にはわざと当たりに行っていると誤解されがちだが、内角球を避けるような清原はただの清原である。というか、実際問題死球を避けられないだけである。若い頃、「死球の避け方なんてどうでもいいんじゃ。打ち方教えろ」みたいなやり取りがあった、多分。避けたいけど避けられない。好きだけど好きじゃない。一種のツンデレでもある。まあ落合とか内角にべったりと構えるような奴しか見本が居なかったのだからしょうがない。

ロッテガムズ四死球攻めにブチ切れ乱闘を自分から仕掛けていったところ所属の外人に返り討ちにされてしまった。このため外人には自分から喧嘩を売らない見掛け倒しという評が立ってしまった。どうにもヘタレである。

  • なお、副業ではお笑い芸人をやっている。高校時代は桑田真澄とのKKコンビという漫才コンビで当時の女子高生を中心にアイドル漫才コンビとして一世を風靡した。しかし、早稲田大学進学を表明していた桑田真澄の巨人電撃入団により解散。当日まで何も聞かされていなかった清原は号泣。語り草となる。
  • オリックス時代は2億貰っていた。どこかに寄付しないとそろそろ罰が当たるぞ。
  • 福岡ソフトバンクホークスの投手OKANEにパウエルという登録名を名づけた。
  • 日ハムの武田久のシュートがどうしても打てずに、「頼むからもうシュートは投げんでくれ」と懇願。その後本当に武田久は清原が打席に立つときはシュートを投げなくなったとか。頼むほうも頼むほうだが聞くほうも聞くほうだ。

KKコンビ時代[編集]

PL学園高校在学中にもかかわらず、数々の賞を総なめ。ネタの完成度はリアルきっずとは比べ物にならないと一部では囁かれる。次世代のヤスキヨと関係者から絶賛を受ける。桑田のシュールなあ!ボケに清原が爽やかに突っ込むという今からでは予想もつかないスタイルが女子高生を中心に幅広い世代に大いに受けた。順風満帆かと思われたが、電撃解散

初期ピン芸人キヨマー時代(1980年中盤~1990年代序盤)[編集]

電撃解散と某占い師に唆さたこともありキヨマーに改名。さわやかなスタイルはそのままにピンで活動開始。KKコンビのアイドル的人気はそのままに外人に対して積極的に絡むなど体を張った芸風も得てお笑い新人賞を独占。1988年には内角攻めしてきたロッテの投手にジャンピングニーパットを見舞うという武勇伝もあったが、まだ後年の番長的なイメージとはほど遠かった。またピン芸人として活動する傍ら、期間限定で秋山幸二とのコンビ「AK砲」、さらにタイラー・リー・バンバークレオ(バークレオ)を含めたトリオ「AKB」を結成するなど、その斬新な活動で世間から「新人類」と称された。不動産トラブルに巻き込まれた元相方桑田真澄とは対象的に人気を不動のものにしていくと思われたが…。

低迷期(1990年代中盤)[編集]

アイドル芸人路線でやってきた清原に分岐点が訪れる。グレートチキンパワーズふかわりょうといった若手ライバルの出現である。ネタの完成度は清原の方が高いという声が多かったものの徐々に人気を奪われ影が薄くなっていった。清原に憧れてこの世界に入った後輩・山田太郎とのコンビ「プロ野球編」を結成するも、上層部山田中心の売り出し方針により清原の評価は思うように上がらなかった。

キャラ変更苦悩期(1990年代後半)[編集]

このような状況を打破すべく、元相方桑田真澄にコンビ再結成を持ちかける。一応、再結成という形にはなったもののかつての精彩はなくかつての勢いを取り戻すことは出来なかった。他にも織田裕二似の相方と組んだがすぐに解散。かつてのように外人と絡もうにも実はキヨマー時代がトラウマになっており、満足のいく結果が得られなかった。

そして筋肉芸人へ(2000年代前半)[編集]

そして清原は大きな決断を下す。当時、無風だった筋肉芸人への参入だ。当然、当時の肉体で筋肉ネタを披露できる状態ではなかった。そこで、和製ダイジョーブ博士ことケ○ン山崎氏により肉体改造手術を行うことを決意する。肉体改造は成功しかつての勢いを取り戻すかに見えた。しかし待っていたのは氏による非情な宣告だった「医学ノ発展ニハ犠牲ガツキモノデース」このことにより一見強靭そうに見えるもガラスの肉体となってしまった。このことが原因か毎年のように来る24時間テレビ100キロマラソンのオファーを太ももの故障という理由で毎年断っている。このころから子分を集め本業である893稼業に力を入れだす。

この手術失敗以後飛躍的に肉体改造の技術は進歩し、なかやまきんに君レイザーラモンHG小島よしおといった強靭な肉体を持つ筋肉芸人が現れるようになったのは実は清原のおかげなのだ。

突如復活[編集]

そんな不運に見舞われた清原だが、転機が訪れる。ローズという外国人とコンビを組むことになったのだ。キヨマー時代のトラウマが原因でイマイチはじけたノリが発揮できない清原であったが浪速仕込フレンドリーギャングローズに対しては違った。偶然出来たフレーズ「俺はチュッパチャップスや」「タフィもあきれとったわ」「○○ポコついとんのか」といったギャグが大うけ。長らく、年末のオールザッツMANZAIにおいて大取のリットン調査団の前をケンドー・コバヤシ野生爆弾土肥ポン太らと競うという状況から一転、久々に全国区の舞台に立てるようになったのだ。危機を救ったのはキヨマー時代のトラウマの残る外人だとは皮肉なことである。

現在[編集]

2014年頃から一部週刊誌によって「清原、ヤク疑惑」と報道され、コンビを解散した清原がプロ野球・東京ヤクルトスワローズに入団するかのような噂が立った。しかし清原本人は出演したテレビ番組でこれを否定。この一件はこれで落ち着いたかのように思えたが、すでに多くの国民は多くの友人や知人と共に芸能人ヤク漬けチェックのレギュラーメンバーだと見なしていた。そして2016年2月、速報で「清原、ヤクから檻へ」と報道され、プロ野球・オリックス・バファローズへ入団することが決定した。この際に一部報道ではヤクルトとは実は20年ほど前から関わってきたこと、そして2月にオリックスのスカウトが自宅を訪問し、半ば強制的に入団にこぎつけたことが報道された。なお、ヤクルトからオリックスへ入団する例は多々あり、田代まさし選手や酒井法子選手、ASKA選手などが挙げられる。その後、お薬を飲んで、捕まりました〜えへへへへへへ〜

初代プロリハビリスト[編集]

清原は言わずと知れたプロリハビリストの第一人者である。もともとプロリハビリストは多く存在していたが、それにスポットライトを当てたのが知名度、収入、人気ともに抜群の清原で初代と言われる由縁である。彼のプロリハビリストとしての生活は我々一般人の日常生活とは異なり、プロと言われるだけの厳しい生活管理が要求される。まず彼が起きてから決まってする事が体の状態のチェックである。プロリハビリストであるが故、些細な異常にも気を配らなければならず、少しでも体に痛みが伴う場合は自宅休養または、チームメイトをからかいに行く程度しか許されない日々も多かった。しかし、実際にはプロとしてリハビリ行為をファンに見せる必要もありいつも家で寝ている訳ではない。たまにはテレビの前で、「家の周りを散歩できるまで回復した」「バット握れるようになった」等のコメントをし、復活しようとしている事を巧みにアピールする必要があった(実際に復活はプロリハビリストとして御法度である)。このような過程から、清原はプロとして立派に選手生活おくるリハビリストの鏡と絶賛される。2008年に引退と同時に福岡ソフトバンクホークスの斉藤和巳が二代目プロリハビリストを襲名(彼はプロブロガーとしての知名度のほうが高い)。2009年、アメリカTIME誌において世界で最も影響のある10人に日本人として唯一選ばれた。

外部リンク[編集]

清原和博伝説

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