淵蓋蘇文

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淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)とは、滅亡直前の多民族国家高句麗に西方より現れたカスミである。

概要と王権収奪まで[編集]

ヨンゲソムンとは、当時の高句麗王だった栄留王を642年殺害し、傀儡の宝蔵王を擁立して国を思いのままに操った莫離支(マンニジ)である。漢字表記は淵蓋蘇文が一般的だが、泉蓋蘇文と表記されることもあり、日本書紀ではイリカスミと表記される。貞観の治鮮卑の国だった大唐帝国の第一次全盛期を築いた李世民朝貢関係を巡って争い、安市城の戦いで国を疲弊させながら防衛に成功したことが現在の朝鮮民族に高く評価されている。

しかし、生没年を含め史料がほとんど失われているため、実像を描き出すことは極めて困難である。韓国人の希望によると、彼は生まれて間もなく、新羅で恐怖のキム・ユシン将軍の下僕となって育ち、将軍の妹と結婚しようとしたら将軍に激怒されて奴隷身分に落とされた。しかし、ひょんとしたことからに逃れ、そこで自称朝鮮人の商人李密と出会い、煬帝にも従軍したが滅亡の危機をみてすばしこく逃れ、高句麗に逃れたところを高句麗の軍師に見出されたことになっている。

しかし、上に描いたことはすべてフィクションである。韓国人もその辺は意識しているらしく、日本の粉飾の斜め上を行く韓流大河ドラマでは、演者を途中からそれなりのイケメンから全くつり合わない殺してやるおじさんに切り替えて、フィクションであることを強調せざるをえなかった。これでも不足したのか、外国人があまり本気にしないよう、孔子は朝鮮人だ」などと主人公に発言させ、作品内容がフィクションであることをアピールした。

真の出自は何か[編集]

商人だったとする説もあるようだが、ヨンゲソムンの真の正体を知るためには日本書紀の記すイリカスミという名に注目する必要がある。なぜなら、これがヨンゲソムンという朝鮮読みでないツングース的でモンゴル的な高句麗の原語に基づく表記とみられるためである。

そう考えると「カスミ」は霞であることは分かるが、「イリ」とは何なのだろう。この答えは簡単だ。中央アジアのウイグル人が多く住む地域をイリ地域と呼ぶことはこの項目に来る者なら常識の範囲内だろう。そこが真の渡来地なのだ。つまり、ヨンゲソムンの正体は、イリ地方からやってきたウイグル人であり、その敵を裁く手腕がカスミのようと評されたためにイリカスミという名前が生まれたのだ。朝鮮人の姿が霞むほどに多民族国家だった高句麗、パルティアの騎士たちがいた高句麗に相応しいではないか。

大莫離支として[編集]

栄留王は朝鮮人の意見を受け入れて唐の朝貢国となっていたが、642年栄留王を殺したヨンゲソムンは家臣の圧倒的な支持のもと、朝鮮人を中心とする媚唐勢力を一気にカスミのごとく粛清し、唐に朝貢しない姿勢を示した。その頃、国の綱紀は緩み切っていた。そこでヨンゲソムンは常に6本の刀を手に持ち、朝廷を引き締めることに専念した。栄留王が時代遅れにしようとしたウイグル的武闘精神を取り戻そうとしたのである。

すると、唐の使者たちが抗議しにやってきた。沈寿官ら使者は再朝貢を求めたがヨンゲソムンは聞く耳を持たなかった。そして、「孔子は我々のものだ。文明の真の起源は我々にある」と言い放った。多民族国家高句麗の面目躍如だった。現代の韓国人はこの発言を「孔子は朝鮮人だった」と短絡するが、これは誤りである。当時は高句麗も唐も王座に就いていたのは鮮卑族の血を引く者だった。よって、中華性において両国は対等であり、文化上は何の問題もなかったのである。

644年、キム・ユシン将軍に命令され、金春秋(キム・チュンチュ)王子が新羅から密偵にやってきた。ヨンゲソムンは早速王子を捕まえ、剣を突き付けたが王子はたじろがない。理由を聞いたヨンゲソムンに春秋はこう答えた。

貴方の怖さはキム・ユシン将軍には及びません。キム将軍が常に10本の刀を手に持ち、毎日1万回剣の素振りをしているのに比べれば貴方はまだ寛大な方です

ヨンゲソムンはこれには流石に憐れみを感じ、亡命させてやろうとした。しかし、キム・ユシン将軍が報復として将軍自身のを焼き殺すとの書簡が届いたので、仕方なしに解放してやった。

兄を殺しを幽閉して天下を取った自称道徳王の2代皇帝李世民はその翌年、先軍政治で高句麗が自ら国を疲弊させるのを傍観する方が良いという諌める義徴が死んだのを期に、高句麗征伐の兵を起こした。

ヨンゲソムンの無策の前に城は続々と降伏し、満州には安市城などわずかな城が残るばかりとなった。しかし、ここで安市城主の楊万春は秘密部隊の妖怪娘子軍を出陣させ、形勢を一気に逆転させた。これはヨンゲソムンの妹スジョンが率いていたともいわれる。

髭もじゃの契丹人契瑟何力らが率いる唐軍は壊滅状態になり撤退を開始した。皇帝李世民もこの戦いで矢を受け、間もなく死去した。唐の薛仁貴将軍は「手抜かるな!あれは陛下の姉平陽公主の軍隊のパクリじゃないか!」と正体を暴き、一瞬にしてその弓でこの妖怪軍団をカスミにした時はもう手遅れだった。ともあれこれで高句麗は危機を乗り切ったわけだが、当時の朝鮮人の歴史家たちは娘子軍を無駄使いしたと楊万春城主を糾弾し、民族の歴史書からその名をカスミのように抹殺した。  

唐との戦いを終えて[編集]

これで唐との戦争は一息ついた。百済偵察を終えた新羅の金春秋は続いて648年唐に行かされ、すべての文物を唐のものに変えることを誓って帰国の途についた。ヨンゲソムンは情けとして、春秋を高句麗に留め置くを決め、船を呼び込んだ。作戦はうまくいったと思われたが、従者が勝手に春秋の服を奪い取って自分が春秋だと嘘をついたため、従者を間違って連れてきてしまった。ヨンゲソムンは怒ってその従者をカスミにした。

その後もヨンゲソムンは何度もカスミをつくり続け、666年までに死去した。朝鮮人たちは息子の淵男生淵男建淵男産3兄弟を建てて相争った。ここで唐の実権を握る則天武后は衰微しきった高句麗の命運を見抜き、薛仁貴を派遣して国を滅ぼした。朝鮮人たちは大挙して南に逃れた。残った民族は、乞乞仲象靺鞨族を中心に渤海国を建て、元山の北辺りまでを支配して、新たなる多民族国家をつくった。


参考項目[編集]

Wikipedia
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