海部俊樹

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海部 俊樹(かいふ としき、うみべ としき1931年1月2日 - )は自由民主党の所蔵するクリーン神輿。第76・77代内閣総理大臣。自民党や新進党で、クリーンさや政治改革のシンボルとして担がれた。水玉模様の飾り紐が特徴的である。

概要[編集]

自民党三木派・河本派において製造された、軽量で扱いやすく、わかりやすく、きれいな神輿である。ちなみに飾り紐の水玉模様は汚れが付いても沈着せずにはじいてしまう様子をイメージしたもので、クリーンさのアピールの一環である。傷や汚れが付かないように細心の注意を払って保管されていた。

首相として[編集]

就任[編集]

1989年7月23日参議院議員選挙での自民党の敗北の責任を取って当時の総理大臣「指3本」こと宇野宗佑が退陣表明すると、後継総裁にはリクルート事件ともその他のスキャンダルとも無縁のクリーンさと、「指3本」のような不明瞭な表現を排したわかりやすさが求められた。そこで、その条件に合う政治家として、神輿である海部が担ぎ出されることになった。海部そのものはクリーンでありながら、その扱いやすさからダーティーな担ぎ手も多数参加した。

首相指名選挙では、自民党が過半数を占める衆議院では海部が指名されたものの、野党が過半数を占める参議院では神道の神の乗り物たる神輿を首相とすることに特に仏教勢力の公明党を中心に強い反発があり、社会党マドンナが指名された。両院協議会が開かれたもののまとまらず、結局衆議院の優越により海部が無事に第76代内閣総理大臣となった。神輿が首相に就任したことは、物質的側面において後に眉毛の首相就任の理論的根拠となり、宗教的側面において公明党の存在や政権参加の理論的根拠となった。

主な成果[編集]

自民党幹事長に就任した小沢一郎は海部の担ぎ手の筆頭として活躍し、翌1990年2月18日の衆議院議員総選挙では自民党勝利に導いた。なお、小沢が「剛腕」と表現されることもあるが、これは海部の軽量設計を無視した表現である。

湾岸戦争時、小沢は海部をイラクの希望する火祭りの神輿として担ぎ出し、サダム・フセインをなだめてイラク・連合国間の調停役となることを模索するが、油田の近くや砂漠といった環境で汚れが付いてしまっては取り返しが付かないので、結局海部はクリーンが第一であるとして、連合国に対する多額の戦費援助とペルシャ湾への海上自衛隊派遣を実施するにとどまった。

海上自衛隊派遣とは、海部の理念である「クリーン」の初の海外における具現化として、掃海艇を派遣して海の清掃を行わせるという歴史的偉業であった。具体的にはとりあえず嫌いなものを排除して精神的クリーンさを実現するというものであった。海外での活動ではあるが、これは後年の掃除大臣のさきがけとも言える。

退任[編集]

軽量でクリーンで担ぎやすいから担いだだけという自民党議員も多かった。しかし、軽量ではあるものの長く担ぎ続けるには政治改革関連の筋力がそれなりに必要であることが次第に判明してきた。若手議員には平気な者も多くいたが、年配の議員には辛かったため、担ぐのをやめてしまう者が増え、1991年11月頃地面に下ろされた(海部おろし)。

自民党離党~新進党党首[編集]

1994年6月野党となっていた自民党ツトム君退任後の首相指名で社会党村山富市という眉毛を指名して社会党・新党さきがけ両党と連立し政権の座に返り咲こうと計画した。対する連立与党新生党代表幹事小沢一郎は連立与党の統一候補として海部を自民党から離党させて担いで、その担ぎ手も自民党から引き抜くことで社会党抜きでも政権を維持しようとした。衆議院の首相指名選挙では、自民党議員の一部が村山富市を「村山富一」と書き間違えて大量の無効票が生じたり、そもそも状況がわからず自分の党の総裁である河野洋平の名を書けばいいものだと勘違いしたりして混乱、異例の接戦となり決選投票までもつれ込んだが、村山が勝利した。

敗れた海部は自民党を正式に離党し、今度は野党の立場で再び小沢に担がれることとなった。同年末、新生党公明党日本新党民社党等の旧連立勢力が合併してできた新進党の初代党首として担がれた。このとき公明党からは以前の首相就任時のような反発はなかったため、神道仏教の融合という極めて日本的な理念の宗教政党が誕生したことを意味した。

新進党党首としては、村山首相が「阪神大震災初体験だった」と釈明したことに対し、実は阪神大震災より前にはるか」相手に初体験を済ませていたのではないかという疑問を、ツトム君と共に提示している[1]

なお、自民党総裁経験者たる海部が反自民勢力に担がれたことについて野中広務が激怒し、党科学技術調査会に保管されていた海部の設計図を破棄するよう指示した。この指示には二度と党を裏切るような神輿が製造されることのないようにとの思いが込められていた。

その後[編集]

1995年末、それまで海部を担いでいた小沢一郎神輿を担ぐ政治から名実共に自分が行う政治に方針転換して新進党第2代党首に就任した。以後海部は神輿としての利用をされていない。

1997年末~1998年初め、新進党解体工事が行われた際には小沢が、政治改革のシンボルに丁度良いとして自由党最高顧問室への収蔵を希望したが、意思を持って拒絶したとされる[2]。その後約1年無所属の会で保管された。しかし1999年初め、自由党と自民党が連立した際には小沢の希望に応えて自由党最高顧問室に収蔵された。

2000年4月の自由党分裂時には、連立継続派の保守党に所有権が移転した。具体的な扱いとしては自由党最高顧問室を保守党最高顧問室と改称するだけで済んだ。

2002年末、「歴史と伝統文化を大切にし、自らの能力や個性を発揮できる社会をつくるとともに人類の恒久平和を求め、国際社会で名誉ある国づくりを目指す」[3]という崇高な目標の下、保守党は発展的に解消し、保身党が結党された。これについては海部(あるいは周囲の議員)が神輿本来のあり方に立ち返って「神道」と同音の響きを含む党名に変えたくなったという説や、新進党が恋しくなってやはり「しんとう」を含む党名に変えたくなったという説もある[4]

2003年11月9日に行われた衆議院議員総選挙で保身党は大敗し、同月、自民党と合併することでその保身の理念を華々しく発揮して散った。これにより保身党の目標としていた人類の恒久平和や国際社会で名誉ある国づくりが遠ざかってしまうとして、残念がる声もあった。また、この合併により海部は約9年ぶりに自民党に復党した。

2004年、1年後に控えた愛知万博のPRのため、トレードマークである水玉模様の飾り紐の代わりに森憎&木殺仕様の飾り紐が付けられた[5]

2009年8月30日、重要文化財に指定される議員在職50年を目前にして、衆院選において8万票の大差でまさかの敗退。 議席を失った海部は政界引退を表明、息子に後を託した。 首相経験者の落選は46年振りの快挙であった。

脚注[編集]

  1. ^ 衆議院会議録情報 第132回国会 本会議 第36号
  2. ^ 自自連立に際してとある議員の行動
  3. ^ 保守新党結成大会
  4. ^ 民主党からの合流者の一部を合法的に受け入れるための便宜的な名称変更に過ぎなかったという説もある
  5. ^ 『水玉』返上 愛知万博PR

関連項目[編集]