浅草

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浅草(あさくさ)とは東京台東区の地名。または浅草寺を中心とする繁華街の地名。戦前は東京随一の繁華街として栄えた。関東大震災と戦災で壊滅的な被害を受けたが、そのたびに目覚ましい復興をとげてきた。「不死鳥の如き浅草」とも呼ばれるのはこうした経緯からである。

ここの住民は典型的な下町の庶民で、踏まれても踏まれても雑草のようにしぶとく生き残っている。こうした彼らのしたたかさと、あつかましさと、ふてぶてしさと、調子良さと、いいかげんさと、その他諸々がこの浅草の町でちょうどほどよくブレンドされているステキな街。言うまでもなく東京では上野と並んで大阪民国に対抗できる数少ない地区のひとつとされている。

地名の由来は諸説があるのだが「朝」が「臭い」から「浅草」と言う説が一般的である。

概略[編集]

浅草は古来、江戸の街(ひいては東京市街地)の中心的な繁華街であったが、高度経済成長期以降は山手線沿線の新宿池袋渋谷などの発展により、東京を代表する繁華街としての地位はこれらの地区に譲った。一見江戸情緒を感じさせるジジババや外国人向けの観光地として賑わっているように見せながら、これら新興都市に対する対抗心が常に湧き上がっており、連中を叩き潰さんばかりの気迫がもえたぎっている。

そうした街に引寄せられるかのように、カムバックを図る芸能人や、どん底から這い上がろうとする事業家などが、ドサ回りをしながら集結し、リベンジの闘志を燃やす街として現在でも有名である。特に観光客用と思われている雷門前の人力車の車夫は、ほとんどがまるごとリベンジ魂のような人々で、ここでは、車を引いて威勢よくタッタッタと走り出すや「轢き殺すぞゴルァ!」と怒鳴る彼らの悲痛な叫びを聞くことが出来るのである。

結局、「浅草」とは一体どこにあるのかよくわからなくなった。山手線にも小田急線にも京急線にも駅は無い。目印は東京スイカツリーと金色に輝くウンコビルに近いらしい。

浅草の歴史 その1:浅草の古代史[編集]

浅草の起源[編集]

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古事記』『日本書紀』によると、イザナギノミコトイザナミノミコトらが、国生みに先立って、陸地とも海ともつかぬ瀬に海がうじゃうじゃ生えていたこの地域を「浅草」と呼び習わしたとされている。

残念ながらあまりに海草があまりにうじゃうじゃ生えていたので、国生みにふさわしくないとされ、国生みは淡路島の方で行われたらしい。この海草がいわゆる「アサクサノリ」の始まりだとされており、この海苔(ノリ)を巻いて、日本最古のおむすびが浅草神社の神前に奉納されたと伝えられる。またこの「海苔食えばハゲなし」と言われるように、今でもこの地域に住む人たちには相対的にハゲが少ないと言われている。というか毛髪に恵まれないハゲはこの海草をかき集めて、ハゲた頭を覆い隠し、そ知らぬ顔してごまかしていたのが実情のようである。

こうした海草を用いたカツラへの感謝から「アサクサノリ」=「髪」=「神」という流れで、「神」の語が生まれ浅草神社の起源になったという説もあるが、信頼するに足りない。余談だが、小学生あたりだと股間にアサクサノリを貼り付けて「ぴーだよーん」などとおよそどーしよーもないたわけた振る舞いをすることがあるが、良識と品性を兼ね備えたアンサイクロペディアン諸氏はそんなことやったらダメだよ。

観音出現と浅草寺建立[編集]

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さて東京最古の寺といえば浅草寺だが、寺伝によると創建の経緯は次の通りである。

「推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、この人物の氏名には諸説あり)は出家し、屋敷を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという」。

この仏像こそ、欽明天皇13年(552年)に排仏派物部尾輿が政敵である崇仏派蘇我稲目を押さえ込み、難波の堀江に流した日本最古の仏像が黒潮に乗って、浅草に漂着したという説がある。しかしこの説だと76年近く仏像が一体だけ海をぷかぷか浮かんでいることになり、かなり不自然である。観音に防水加工がしてあったとも言われる一方で、フジツボなどがびっしりくっついたという説もあるが推測の域を出ない。

おそらくこの76年間の間に日本でも仏師による大量の造仏がされるようになり、海に厄を洗い流すための「流し雛」ならぬ「流し仏像」の行事によって、海に数多の仏像がうじゃうじゃ浮かぶこととなったことと関係しているようである。そうした仏像の一つがアサクサノリに引っ掛かり、キンキラキンの仏像を漁師の檜前ブラザーズが、面白半分に拾ってきたというのが事実だと思われる。

なおこの観音像は海に漂っていた時分から、その神々しさとまばゆいばかりの光で、居並ぶ人々を圧倒したというから、飛鳥時代には、敵の目つぶしをもっぱらとする兵器としても利用されたと考えられている。特に悪人が近づくと、すかさず目から観音ビームが放射され、敵を焼き尽くし殲滅する最終兵器として用いられていた、と寺伝では伝えられている。現在でもこの観音像からビームを飛ばすことはできるらしいのだが、住職がけち臭いらしく、奥にしまって「秘仏」として封印して見せてくれない。しかし実際は余りに怖ろしい兵器なので公にできないのだとも噂されている。

このビーム観音の珍しさから、この近辺の野次馬が集まって市を開き、平城京以東ではここだけと呼ばれるほどに門前町が発展した。これが仲見世である。名物雷おこしもどうやらこの時代から始まったようである。ちなみに浅草寺遺跡の発掘調査が今日もなお行われているが、奈良時代に鋳造された「和同開珎」がジャラジャラ発見されている。奈良時代の仲見世の活況を伝える遺物であるとともに、ゼニを飛ばして悪党を捕まえる「銭形平次」のような職が、律令国家体制の時代にもあったという有力な物証となっており、歴史学会からも熱い注目を集めている。

この観音はビームで敵を焼き尽くすことから、「戦争の観音」「戦いの観音」として古来から名高く、インドの戦闘女神カーリーを間違えて「観音」としてしまったのではないかともいわれている。余談だが、ある観光パンフレットには「浅草寺 = War Temple」と印されているそうである

浅草の歴史 その2:浅草の暗黒時代[編集]

律令国家体制の成立した奈良時代から、徳川家康江戸幕府を開くまで、多くの資料が散逸して不明な点が多いが、すでに古刹として名を知られていた浅草寺とその界隈は東国江戸における、信仰の中心地として発展していく。在原業平菅原孝標女あたりはどうやら東国での旅の途中で浅草寺に立ち寄った気配が濃厚である。また能楽の「隅田川」では浅草が舞台とされているといわれている。それらの記録にはビーム観音の記録が一切欠落している。おそらくこの時期にビームを放射する観音像が封印されたのだと考えられている。

浅草の歴史 その3:すべてのものは浅草から始まる[編集]

吉原遊郭の始まり[編集]

それはともかく家康が江戸に入ってきてすぐさま江戸の人々に命じたことは、新開地の江戸にやってきて、あれがたまりにたまった男たちにキャッキャウフフを提供するために「遊郭」を設置することであった。「さすが天下人の将軍様、話がわかるじゃねぇか」とムラムラしていた男たちの喜ぶこと、喜ぶこと。そして初めは日本橋近くにあった遊郭も明暦の大火を期に、浅草に程近い吉原に移転し、ここで驚くような絢爛たる悪所が生まれたのである。すべてのものは浅草から始まる。花魁(おいらん)もありんす言葉もやり手婆も「さくらん」も浅草から始まったのである。つまりエロが江戸の歴史を切り開いたのである。

吉原遊廓を参照。

芝居小屋の始まり[編集]

江戸時代には「名所」に対して「悪所」と呼ばれる場所があった。特に浅草は、吉原遊郭が近いだけでなく、天保の改革で追い出された芝居小屋が歌舞伎役者を伴って移転してきたこともあって、遊郭・芝居小屋の二大悪所がそろったとんでもなくいかがわしい場所だったのである。言ってみれば幕府の悪口をこっそり忍ばせたアングラ演劇が行われ、とんでもなくエロい浮世絵などが回し読みされているような雰囲気、さしずめ罵詈雑言が飛び交い、エロ画像グロ画像が貼られまくる殺伐とした2ちゃんねるVIPPERあたりを想起してもらうといいだろう。それでも浮世絵業界から、エロ蛸(タコ)が女の股間を弄ぶ春画を描いて世間をあっといわせた巨匠葛飾北斎が生まれたように、悪所はとんでもない才能を生み出すことがあるのである。VIPからはまだそうした逸材が生まれる気配は全くない。これからも無いと思うが。絶対に。

ミ濾しの始まり[編集]

ミ濾しを参照。

ロックの始まり[編集]

このように悪所として幕府に常に監視されていた悪所・浅草。しかし1868年に徳川幕府が崩壊すると、吉原の女たちは健気にも、上野戦争で逃げてきた彰義隊を匿うなど、明治政府に抗う姿勢を見せた。それが明治政府を刺激することになり、浅草寺を除く浅草から吉原一帯に火が放たれた。いわゆる「吉原炎上」である。その時のキャッチコピーが「燃えろいい女」だったと言われている。

こうして焦土と化した浅草は明治政府によって公園化され、東京初の都市公園である浅草公園となったのである。ちなみにこの公園は六つの区域に分けられ、通称「浅草六区(ロック)」と呼ばれた。この公園には音楽好きの若者が集まり、オッペケペー節などの音楽を演奏し、一躍人気者になったといわれている。それがいわゆる「ロック」の起源であり、「オレはロックだ! お前もロックだ!」というセリフは「板垣死すとも自由は死せず」と並ぶその当時の流行語になったのである。

高層建築の始まり[編集]

かくして明治時代の文明開化の風潮から、調子に乗った浅草の地元民が誘致したのが「浅草十二階」の名で知られる「凌雲閣(りょううんかく)」である。1890年(明治23年)に開業したこの建物こそは日本発の高層建築であり、言うなれば六本木ヒルズのご先祖様のようなものである。お調子者の浅草住民や物見高いそこいらの下町の住民は、こうしたイベントが大好きなもんだから、連日押すな押すなの大盛況であったと伝えられている。昔から「バカと煙は高いところに行きたがる」とよく言ったもので、あまりIQの高くなさそうな人が展望台で喚いているのを見ると、なんとなく心が寒いものである。とは言え、下にいる奴が利巧かというとそうでもなかった。

浅草十二階の周辺は有名な繁華街であり、「歓楽の魔窟」とも評されていた。そこへ毎日のように訪れていたのが、岩手県渋民村出身であの日本で最も良心的と呼ばれる朝日新聞の校正係を務めていた石川啄木である。名うての借魔である啄木は給料が出ると、すぐさま浅草十二階の周辺のおねえちゃんのところにやってきては、有り金はたいてキャッキャウフフのサービスを受けていたらしい、そればかりか、手をぴーにつっこんだとか、そんなことをわざわざ自分の「ローマ字日記」にあますところなく書き残しているからとんでもないことである。借魔だけでなく色魔でもあったのである。こんな男が「働けど働けど我が暮らし楽にならずじっと手を見る」だなんて歌詠んで賞賛されているって言うんだから、世の中間違っているよね。っていうか啄木がじっと見つめていた手は何を隠そうぴーに突っ込んだ手なんだよな、浅草の観音様も知らぬが仏だよな。

こうした啄木のような男たちが群れていた十二階の周辺であったが、浅草十二階自体が1923年(大正12年)関東大震災で燃え尽きて、中折れしてしまったのである。いつもギンギンとびんびんに建っているというわけには行かなかったのである。

地下鉄の始まり[編集]

昭和に入ると大震災からの復興からも目覚しく、1927年(昭和2年)には日本で最初に浅草田原町稲荷町上野間で地下鉄銀座線が開業した。当時のポスターでは杉浦非水の手によるイラストに「道鐵下地の一唯洋東」というキャッチコピーが使われている。何か勘違いしている人がいるが「東洋唯一の地下鉄道」と読むのではなく、「道鐵下地の一唯洋東(みちてつしたじのいちゆいようとう)」と読まなくてはならない。

それはさておき極東では初めての地下鉄路線であったため、これまたお調子者の浅草のおっさんやおばさんが大挙して押し寄せ、地下鉄の出入り口がおっさんやおばさんの肉で埋まって身動きできなくなってしまったとも言われている。兎にも角にも、高いところへ行けば大騒ぎ、地下へ行っても大騒ぎなのは、お祭り大好き下町の浅草住民のクセみたいなもんだが、この鉄道建設の総責任者であった早川徳次は激怒し、浅草を通過駅にしようとしたとも言われている。これに恐れをなした浅草住民は町民総出で、雷おこし一年分、大黒屋てんぷら一年分、電気ブラン一年分、浅草寺拝み放題一年分、花やしき出入り自由一年分などを徳次に納めて、浅草通過の話は無くなり、事なきを得たと言う。残念ながら浅草住民のお行儀の悪さはそれ以後も全く改善された様子は見られなかったと言うが・・・。

それとよく考えると田原町稲荷町上野しかない路線など乗る意味がほとんど無いと思うのだが・・・。

ストリップ・ショーの始まり[編集]

昭和初年は「エロ・グロ・ナンセンス」の時代と呼ばれ、戦争が始まるまでは娯楽を求めて多くの人々が浅草に集まった楽しい時代であった。浅草国際劇場を舞台に松竹歌劇団が人気を集めたのもこの時代のことである。とりわけ水の江滝子が髪型を刈り上げ「男装の麗人」となって、戦前のオタクをハァ・・・ハァ・・・させていたことはよく知られている。

落語・漫談・手品・曲芸・紙切などの演劇に加え、トーキー化された映画も浅草各地で上映され、それこそ上野日本橋銀座なんて浅草に比べれば面白くもおかしくも無かった時代のことである。ただただ浅草だけが輝いていたのである。やがてそのスポットライトはアダルトな方にも向けられていく。すなわちストリップ・ショーのお目見えである。

ストリップを低俗なものと見ている頭コチンコチンのウィキペディアンみたいなあんぽんたんな手合いがいるが、そうした考えはそもそも大間違いのコンコンチキである。古事記にも天岩戸の前でアマノウズメ裸踊りして、天照大神を暗闇から引っ張り出したと言う話がある。

ストリップという外国語からは想像もつかないが、これは神代の昔から続いてきた立派な神事である。それが証拠に浅草でも名だたるストリップ・フランス座からは、世界的大監督であるビートたけし氏や、老骨に鞭打ってマラソン70キロで臨死体験スレスレまでいった欽ちゃんこと萩本欽一、中高年おばちゃんのアイドル綾小路きみまろなどさまざまな才能が生まれている。どこかのインチキ大学に入学させるよりはるかに将来性が高い教育機関であり、ストリップの神の奥深さを知る思いである。

なおガキめらやご婦人にはストリップは刺激的過ぎると言うことで、ソフト・ヴァージョンとして開発されたのが、1981年に始まったのが「浅草サンバカーニバル」である。あれも最終的には一糸まとわぬ生まれたままの姿の全裸になって踊るのが神事としてふさわしいとされている。食い入るように踊るダンサーの胸部や股間をへらへら覗き込むようなヒヒ顔のおっさんがいるが、神事に参加する態度としてはあれが一番礼節にかなった仕草なのである。

浅草橋との関係[編集]

浅草と浅草橋は違う。距離にしても1.5kmほど離れている。しかし、両者とも都営浅草線の駅になってしまっているため、よく地方から出てきた人が同じものだと混同し、浅草に向かうはずだったのが浅草橋で降りてしまうという事態が起きている。しかし、こればかりはどうしようもないのだが、東京都の計画で、まもなく遊歩道で直結することが発表された。

関連項目[編集]