池田輝政

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池田家の次男坊は謙虚なナイト

池田 輝政(いけだ てるまさ、1564年 - 1613年)とは、本人曰く(ここ重要)、本気で槍働きと権謀術数を尽くせば造作もなく天下取りができるほど器量があったにも拘らず、豊臣秀吉徳川家康に天下人の座を譲渡し、その補佐役の一人に徹する事を選んだ、謙虚なナイトである。

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人物[編集]

輝政の親父は、魔王織田信長幼馴染に加えて乳母兄弟という美味しい立場にありながら、秀吉、滝川一益ら後から入ってきた新参連中の後塵を拝し、本能寺の変後は織田家を乗っ取った秀吉にあっさり懐柔させられた挙句、小牧・長久手の戦い徳川家康に散々翻弄されあっけなく戦死した残念な凡将ぶりに定評のある池田恒興(またの名をヲルト)である。ついでに池田元助という兄貴もいたのだが、この合戦で恒興と一緒にいつの間にか首を獲られていたので、輝政が家督を継承した。親父はこんな体たらくだったが、輝政自身は、本人がその気になれば天下人になれると豪語しているその自信に裏付けられるような卓越した才覚の持ち主で、俄然頭角を現して最終的には播磨姫路という要衝を拝領するほどの功績を重ね、また徳川家康からも才覚を認められて島左近直江兼続と共に「家康が最も恐れた男シリーズ」に名を連ねる事を許されたばかりか、家康の娘督姫を娶る事まで認可された。戦国時代の勝ち組の一人といっても過言ではない。今日に至るまで壮麗な威容を誇る姫路城の城郭を築造したのも彼の事績の一つで、文化面においても貢献を果たした。

そんな輝政だが、嫁に迎えた家康の娘督姫には頭が上がらなかったらしい。彼女は相当な烈女で「提督御前」の二つ名で畏怖され、輝政は終始彼女に主導権を握られ尻に敷かれっぱなしであったという。そのため、周囲の大名からは京極高次よろしく、嫁の威光に縋って出世した「蛍大名」という烙印を押され、福島正則からは「股間の槍働きで栄達した」などと揶揄された。しかし、輝政は謙虚なナイトだったので、外野の揶揄は罵詈雑言など柳に風と平然と受け流していた。彼にとっては、周囲の陰口やバッシングより、提督御前の怒号の方が、よっぽどこわかった。日々この鬼嫁に鞭撻された輝政は心身ともに頑健になっており、この程度の逆風はものともしなかったのである。

名前の由来[編集]

「輝政」という名前は、かの剣豪将軍足利義輝に肖ってつけられたものである。まだ10代前半のころ、父恒興と共に温泉にいった輝政は、道中野盗の群れに襲われたが、輝政は抜刀すると、鮮やかな剣捌きで十人以上の野盗を渡り合い、迅速に成敗してしまった。輝政の鮮やかな剣術に感嘆した恒興は、まるで剣豪将軍義輝のようだからという理由で、元服時にその一字を拝領して輝政と名付けたのである。ちなみに、足利将軍家の許可は貰っていない。普通、将軍の一字を貰うには使者を送って交流し、色々貢物とかもしなければならないのだが、この時既に義輝は死んでいたばかりか室町幕府は権威が形骸化して幕府そのものが瓦解しかかっていたため、勝手に名前を拝借しても全然問題なかったのである。

…なに?このエピソードは出羽の鮭様の話じゃないか、勝手に横着するなだって?ここはアンサイクロペディアですよ?こまけぇことはいいんだよ!