江良房栄

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江良 房栄(えら ふさひで、1515年 - 1554年)とは、知勇兼備の名将と呼ばれているくせして、毛利元就の謀略に引っかかった陶晴賢に殺されたことぐらいしか有名な事績がない戦国武将。

概要[編集]

厳島の合戦で毛利元就に敗れた陶晴賢の右腕として知られていた名将らしく、武勇にも知略にも長けていた名将であったようだ。元就が晴賢と厳島合戦で決戦するに当たって、房栄の知略、戦略による補強を受けた晴賢と真っ向から対決しては苦戦は必死であると判断した毛利元就は、晴賢と房栄の仲を裂く謀略に出た。元就は房栄が晴賢を裏切り元就に内通しているという流言飛語を飛ばした。すると脳筋単細胞の陶晴賢はまんまとこれに引っかかり、謀反人として房栄を殺害した。名将である房栄を失ったことで陶側は大きく戦力を削がれることとなった。

名将のくせに有名な話がない[編集]

名将と呼ばれただけあって地元山口県には逸話の一つや二つ転がっているかもしれないが、戦国時代関連の書籍やネット上のサイトでは、房栄は元就の謀略に引っかかって晴賢に殺されたことぐらいしか言及されることがない。陶晴賢が大内の家臣だった頃は、房栄は家臣の家臣だったわけで、そのような末端社員のような人物であれば活躍しても文献に記述してもらえなかったことが推察されるが、それでも元就が恐れて謀略を使って葬ったほどの器量の人物なのだから、輝かしい武勲などが広く流布していてもおかしくない。しかし今日、江良房栄は謀略によって殺された武将としての話ばかりが伝わっている。

尼子の新宮党との関連性[編集]

この房栄謀殺と似たような事件が時を同じくして起こっている。尼子晴久による新宮党抹殺である。元就と敵対していた出雲(島根県)の尼子家には、新宮党という卓越した武勇を誇る軍人達で構成された軍事組織があった。それを束ねるのは尼子家当主尼子晴久の叔父尼子国久とその子尼子誠久であったが、国久親子は尊大な振る舞いが多いので晴久とは仲が悪かった。そこに元就は付け込んで、国久が元就と内通しているという流言飛語を飛ばしたら、単細胞の尼子晴久がまんまと引っかかって、国久親子はじめ新宮党を逆賊として滅ぼした。おかげで尼子家は大幅に弱体化し、滅亡へと進んでいった、というのが経緯である。

だが現在では晴久が中央集権化のために言うこと聞かない国久親子を自発的に滅ぼしたことが判明している。元就の謀略による介入という話は元就を礼賛する長州藩士あたりの捏造だろうという見解で史家達の間では一致しているのだ。とすると、江良房栄暗殺も、案外陶家の家内で起こった単なる内輪揉めに過ぎず、たまたま内輪揉めが起こって陶の力が減退し、元就に有利な状況が生まれただけという可能性もある。

房栄の態度[編集]

房栄抹殺の経緯についても二通りの説がある。一つは、元就と出会い、そのすばらしい器量を知った房栄が、晴賢に和睦を提案したが、猜疑心の強い狭量な晴賢は房栄の内通を疑って殺害した、というものである。あまりにも元就側に都合が良いようにできすぎている話である。もしこれが事実であったとしたら、晴賢はただのアホウにしかならない。いくらなんでもそこまでアホウではないだろう。また、この話に添えば江良房栄は元就に親しみを持っていた人物ということになるが、その割には偏屈な元就はともかくいい人だった長男毛利隆元すら厳島合戦後にその死を惜しんだ形跡が見られない。そのため房栄が和解を提案したという説の信憑性は乏しい。

もう一つは、房栄は本当に元就に内通していたという説である。しかし自信過剰で野心家の房栄は、自分を召抱える俸禄として膨大な石高を要求してきたため、不信感を抱いた元就が内通の話を横流しにして陶に知らせ、房栄は殺害されたというものである。戦国時代という下克上の風潮をうかがわせるリアリティに溢れる話であり、江良房栄が知略と武勇に優れた人物であれば自らの実績と実力に驕り自信過剰になっていたという可能性も考えられる。どちらかを事実とするならこちらに軍配が上がるだろう。

惜しまれなかった死[編集]

江良房栄はいずれにせよ名将と呼ばれ、謀反が事実であったにせよ彼を殺害したことで陶軍は大幅に力をそがれたと言われている。

…と、言われている割には、江良房栄が生きていたら厳島合戦は陶の勝利に終わったなんて話は全く聞かれない