永六輔

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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永六輔(えいろくすけ、1933年4月10日 - 2016年7月7日)とはラジオの投稿から日本の放送業界に覇を唱えた超一流のヒマ人である。なお、彼の業績は多岐にわたっており、インターネットにおける記録の本場ウィキペディアですら漏ればかりでとてもじゃないけれども常人には把握することは不可能である。

そのため、アンサイクロペディアでは彼の行った業績について手短に説明するだけに止める。

概要[編集]

永六輔氏をアンサイクロペディアで語るならば、一にも二にも投稿戦士及びハガキ職人としての立場から語らなければならない。2016年現在、ラジオ週刊誌、インターネットにおいて一般的に投稿戦士、もしくはハガキ職人という単語が蔑視の対象となっていないのは、ひとえに氏の尽力のおかげである。それは、投稿から出発した永氏が何か面白いことをしようという意識のもと、日本の文化史に残る様々な偉業を達成したおかげで、一般人がネタを担ってもよい時代が訪れて、センスのある投稿者はそのまま放送作家という業界関係者にランクアップ、DJやプロデューサーに直接ネタを提供することが一つの職業のプロセスとなっていく。

他にも上を向いて歩こうの作詞を担当し、アメリカの音楽史上2組目となる外国人歌手によるランキング制覇に関わった事実だけで普通はおなか一杯なのだけれど、氏の場合はアフリカの餓えた子供たちに食料を提供するレベルで、そんな事実ばかりである。

というのも、永氏の場合は生涯の中で求め続けた楽しいことの数および、求める意欲が一般人と4つほどケタがほど違っており、その異常な数、もろもろが全て賞賛されるわけもない中、タチの悪いことにそんな数々の軋轢をまったく意に返さないことでも知られている。その結果、良い話と悪い話が見事に混在。有名なところでは学生時代に話術の神様として知られた徳川夢声翁、趣味人として生きた時代に厚生省の役人連中、さらにはオイボレてからはなーんも時代の裏を知らねえネトウヨのガキどもと、自分の好き勝手から実に多彩な人間に恨まれる恨まれる。特に古希を迎えてからはその傾向が顕著に現れ、積極的に左翼活動に参加、一部の人間から晩節を汚しまくったとされることが多いのだけれども、それですら一筋縄ではいかない。

事実、彼ほど左翼へのカウンターに影響を与えた人物もいなかったりする。

特に、彼が昭和40年代に残した戦前の朝鮮半島の風俗についての記録がいわゆる従軍慰安婦に関する問題を覆す原動力となった件については、それまでかわいそうな朝鮮の一般人が日本兵により無理やり手篭めにされたとかいう話がまかり通った時代に、永氏のインタビューが突破口となって、実は朝鮮には売春婦専門の学校があっただの、日本の芸者よりも朝鮮人の妓生のほうが優雅だったの、一発やる際の値段から日本の植民地への遠征売春から何から丹念に永氏が記録、発表した結果、インターネット時代にそのインタビューが掘り起こされた直後から、かわいそーなちょーせんじんが即座に銭ゲバな売笑婦に変貌。下世話な週刊誌の一コーナーのための笑い話が、後世になぜだか政治の題材になり、2000年代に自前の嘘で酔っ払っていた連中を真冬の池に放り投げる。永氏の友人知人がどれぐらい巻き込まれたかについては、知る由もないけれどもまあひでえひでえ。

でも、皇室コントについてはこっちも知らん。

あわせて、そういった下世話な話が余りにも多すぎて、永氏の業績はあの記録キチガイであるウィキペディアですら把握しきれていない。てゆうか、足りなすぎ。これは、ある意味、自分でネタを探し、自分の言葉で世間にネタを提供するハガキ戦士及び投稿職人、さらには放送作家としては最高の到達点である。

逸話2つ[編集]

永氏の最大の功績。それは、明治大正昭和初期にかけての古書、それも飛びっきりゲスな芸能関係の週刊誌等を好んで収集した結果、一般的には知られていない芸談や噂話にホラ話。さらには悲劇や喜劇といったものに若くして精通。そして、そういった知識で得た人間関係を持って放送業界を席巻し、なおかつ趣味人として昭和40年代にいろいろと活動した結果、まさに忘れられようとしていた数々の芸や逸話、文化を盟友小沢昭一とともに後世に残したことである。んで、インターネット隆盛時代にいろいろと爆発する。

インターネットにまったく乗っていないとんでもない話がそこかしこで現れる

ペニシリン [編集]

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一例を挙げると、彼と小沢氏が戦前に京都の先斗町で芸妓をしていた飲み屋の女将にインタビューした話の中に、太平洋戦争開戦前に京都の陸軍のトップがお茶屋遊びの最中に病気を移されて、アメリカから当時最先端の医薬品を極秘に輸入、事なきを得たなどという話が残されていて、戦後の新薬というイメージが強かったペニシリンが実際には戦前にも日本に輸入されていたという衝撃の事実が語られている。

なお、下の病気とは言うものの、ペニシリンが特効薬とされる泌尿器関連の病気は、梅毒しかない。

しかし、その詳細を調べてみると中身はフクザツかつ矛盾を有しており、特に昭和14年(1939年)に京都の陸軍師団長だった人物が芸者遊びをした際に下の病気に感染したときに輸入され治療されたという話は、そもそもイギリスでペニシリンが抽出、精製されたのが1940年であるため、そこはそれ。よくある色街の笑い話、噂話であって引っかかる永氏も小沢氏もなんだかなあ。と普通は考えるべきである。

その師団長が石原莞爾でなかったら

というわけで、そんな小話の裏を見ようとネットでいろいろと調べると、当時の京都第16師団には大日本帝国陸軍きっての天才かつ変人の石原莞爾元関東軍参謀が師団長として赴任していたことが判明。即座に頭が痛くなると同時に色街の噂がいろいろな憶測を呼び込むこととなる。ちなみに、彼は昭和15年に行った講演でナポレオンが晩年に没落したのは淋病にかかり才能が枯渇したためという噂があるけれど、そうではなく、周囲の敵が天才ナポレオンから学んだ結果、没落したという話をしている。

その上で、石原元参謀はペニシリンの治験が終了した1941年に師団長を辞し予備役に編入されており、京都の大学で軍事学を講義しつつ無聊をかこつ時点で、むしろ実際に語られる歴史のほうが、下世話な色街の噂話を正確に追随してくる。

さらにこの噂にはもう1つの肝があり、本来なら陸軍と仲の悪い海軍が率先してアメリカからペニシリンを持ち込んだ上、佐世保から飛行機で輸送して陸軍病院で師団長の治療に当たったという話があるのだけれど、これは、太平洋戦争直前、当時の東条英機陸軍大臣を海軍が牽制するため、関係が最悪だった石原元参謀を治療することは理に適った動きであり、なおかつ、インターネットで京都にある舞鶴鎮守府について調べると、なおさら永氏のインタビューについて信憑性が高まることとなる。とりあえず、この時期における海軍の動きについては、1941年12月に開戦した太平洋戦争の際に舞鶴鎮守府のトップだった小林宗之助中将(1886年-1975年)がこの問題に深く関与したと思われる。

ちなみに、ペニシリンの一般販売は1942年なので、本来であれば1941年に日本に持ち込むことは不可能である。本来ならば。

けれど、少々補足するならば、小林中将の後任で太平洋戦争開戦後に舞鶴鎮守府に着任した新見政一中将のほうにこそとんでもないルートがある。というのも、海軍きっての英米派である新見中将は、過去にイギリスのオックスフォード大学に国際法を学ぶために留学。欧米の知見を得ると同時に得がたい人脈もまた有しているのだけれど、実はオックスフォードこそがペニシリンの精製法の発見により1945年にノーベル医学賞を受賞したハワード・フローリー博士とエルンスト・ボリス・チェーン博士が研究していた場所である。

つまるところ、当時の大日本帝国海軍には真珠湾攻撃の直前に新薬ペニシリンの存在と薬効を知り、なおかつそれを極秘に輸入できるツテが存在し、なおかつ石原元参謀には秘密裏に陸軍病院で梅毒を治す時間が存在した。もちろん、単なる噂話である。けれど、傍証を積み上げれば積み上げるほど戦史研究者にとっては頭が痛くなるレベルでの噂である。実際、永氏の残したインタビューには、わずか数行の笑い話にもとんでもない破壊力が秘められていることが多い。

殿様[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「井伊直忠」の項目を執筆しています。

もう1人、永氏がインタビューした人物の中に曾我廼家桃蝶という日本演芸史に残る女形兼日本で初めて同性愛であることを告白した人物がいる。当時、日本どころか世界中で禁忌とされた同性愛が、日本において演芸という文化に深く根付いていたことを詳細に語ったそのインタビューは、ある意味、大変に貴重なものであり、また、その軽妙な語り口もあいまって読んでいて頭が痛くならなければ、気持ち悪くならなければ、抱腹絶倒のとんでもない内容である。

その中に、最も長期間にわたって彼と関係を結んだ人物についての話があり、1930年代に桃蝶さんは関西地方出身で爵位を有し、殿様という愛称を持ち、さらに戦後に一度会ったきりという人物と10年以上にわたって関係を持ったと話しており、インタビューの行われた昭和40年代では、そういった人物を調査する方法はほとんどなかったのだけれども、悲しいことにインターネット隆盛時代では、それらに該当する人物、すなわち、戦後すぐに亡くなった関西地方の有力大名の子孫を逐一ピックアップできる。できてしまう。

その結果、滋賀県彦根藩の殿様の血を引く人物で、1947年に亡くなった井伊直忠伯爵(1881年-1947年)が悲しすぎるぐらいに該当。しかも、伯爵は生涯にわたってに打ち込んだことから、おもいっきり演芸という分野で曾我廼家桃蝶さんとつながりがあるため、真相は不明なものの、改めて、永氏の残したインタビューには調査したことを深く後悔する重みがある。そして、そんなネタがありすぎる。

表現[編集]

翻って2016年。世の中から、何が面白いか面白くないかを計るものさしが失われた時代。過度な宣伝にバカみたいな演出、新しいことのみを持ち上げ続け、過去の財産を断舎利させることこそがヨシとされ、何か面白いことをやるよりも、何か儲ける話がないかが重要視される状況になっても、なぜだかラジオや雑誌では投稿戦士やハガキ職人たちが血道をあげ、自分が面白いと思うものをやり続けている。

とりあえず、その道を舗装した永六輔氏の功績だけはたたえられるべきである。

関連項目[編集]

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