毛利隆元

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毛利 隆元(もうり たかもと、大永3年(1523年)-永禄6年9月1日(1563年9月18日))は毛利元就の自慢の息子で、毛利輝元の親父。実は親父と拮抗するほどの名将だったとか言われているが、親父より早死にしたため実力は未知数なところが多い。暗殺や流言など、手練手管を用いて成り上がった元就と違って廉直な人物で、弟の小早川隆景ほど親父に似てないと評されている。その隆景からは「方針が温すぎる」と苦言を呈された事もあったとか。親父の元就に先立って突然の頓死を遂げたため、元就は悲嘆するあまり発狂してしまい、腹心の赤川元保を譴責して切腹に追い込んでしまうほどであった。しかし、その後も毛利秀包を生むなど子作りに元気に精励し、隆元の死後10年近くも生きた事から、さほどショックではなかったかもしれない。

人物[編集]

前述の通り、毛利家の繁栄の為には二枚舌外交や暗殺など権謀術数を平気でやった元就と違い、信義に厚い、現在の平和ボケした観点から見ても人格者だった、と伝わっている。何故、このような人格が形成されたのかというと、やはり大内義隆の元で養育されたことが大きいだろう。

隆元は幼い頃から、元就が大内氏に従属し、その頚木から脱出しないための人質として義隆の下に送られ、少年時代を過ごした。大内氏が拠点としていた当時の周防は西の京都と呼ばれるほど殷賑しており、隆元は裕福な環境で育ったのである。義隆にも大いに気に入られ、夜這いをかけられた事もあった。また、義隆の腹心で、後に謀反を起こすことになる陶晴賢とも交流を深め、隆房の下で武勇の研鑽に励んだ。文芸に耽溺する傾向のあった義隆は無論の事、後に元就の権謀術数に翻弄されて滅びた隆房も、謀は不得手な人物であった。そういう人々に囲まれて育ったのだから、自然と隆元は彼らの影響を受けて謙虚で実直な、悪く言えば狡猾さが欠乏した人間に育った。ゆくゆくは大内の忠実な走狗となるよう一種の洗脳教育を施された点も大きい。

弟二人(吉川元春小早川隆景)からは、謙虚を通り越して卑屈な印象を抱かれており、単刀直入に「卑屈すぎてウザイ」といわれた事もある。親父があまりに偉大だったのでコンプレックスを抱いていたらしい。親父と自分を比較してコンプレックスを抱くという点では、隆元が影響を受けた大内義隆も共通しており、義隆から愚痴や世間話を聞かされるうちに隆元にもそのような卑屈さが形成されてしまったのだろう。後に元就は義隆の下なんかに人質に送るんじゃなかったと後悔している。

正直者隆元[編集]

正直者隆元。

正直すぎて周囲から心配されっぱなしの人生であった。

  • 詐欺に引っかかる確率100%。
  • 落し物はたとえ1円でも交番に届ける。
  • 道に落ちているものは全部落し物であると思い込み、ゴミでも交番に届け逮捕。
  • 正直者すぎてあのスターリンでもソ連共産党幹部に迎え入れようとする。
  • だけど策が苦手なため、諸葛亮とは折り合いが悪い。

…そんな正直者であった隆元だが、親父の元就に先だって41歳で死んでしまった。元就は「親不幸だ!」と激昂したらしいが、中世の人間にしてはこの親父はあまりに長寿すぎるのだから、息子に先立たれても仕方がない。隆元は元就に生命力を吸われて死んだという風聞も流布したらしい。隆元の突然の死を認められない元就は精神を病んでしまい、隆元は毒殺されたに違いないと妄信し、隆元の側近であった赤川元保が刺客だと勝手に決めつけ、文字通り元保に詰め腹を切らせた。何も悪い事をして無いのに死を命じられた元保はあまりにも不憫である。後に元保の同僚達が元保の潔白を証明したが、これを聞いた元就は「そうか、でももう元保は腹を切って彼岸の向こうに逝っちゃったし、今更後悔してもしょうがないよね」と放言し、過ぎた事は忘れろ、と家臣達に通達した。ますます報われない元保であった。

テーマソング[編集]