毛利輝元

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毛利輝元。
「まあ、ご先祖様は運が悪かったんだよね。」
毛利輝元 について、そうせい候

毛利 輝元(もうり てるもと、1553年 - 1625年)は、日本の戦国大名毛利元就の孫、毛利隆元の嫡子。温和な父の影響を強く受け継いだ、平和主義者のいい人であった。織田信長に終われて放浪生活を送っていた足利義昭を匿ったり、明智光秀を討つために備中高松からUターンで帰国した豊臣秀吉を追撃せず見逃したり、関ヶ原の戦いにおいても、石田三成からの再三再四にわたる出陣要請を無視して大阪城から兵を動かさず、戦後も大阪城で徹底抗戦を唱える立花宗茂らを諭して徳川方と合戦を交えることなく帰国するなど随所にその平和主義、いい人ぶりが伺える。ただ武将として、大名としては無能の評価が定着しており、減封された後、「残された僅かな領土も返上したい」と弱音を吐くなど、本人も自分が無能だという自覚があったようだ。

肖像画に見られる彼は比較的均整の取れた美顔の持ち主で、上背にも恵まれている。容貌だけは大将の風格を持ち合わせていたようだ。無能な点ばかりが強調されている輝元だが、関ヶ原の戦いで領土を減らされ、火の車となった毛利家を立て直すために改革を行うなど、藩主としての責務はこなしている。

前半生[編集]

輝元が11歳の時父隆元は急死する。和智誠春とかいう無名の武将に毒殺されたという風聞が飛び交い、愛息の急死に発狂した元就は和智を監禁し、やがては殺してしまう。祖父の憎悪にまみれた表情、血なまぐさい一面を垣間見たいい人輝元は早く戦がなくなって平和な時代になればいいのにと思うようになる。

尼子氏の本拠地月山富田城攻めで初陣を飾った輝元だが、月山富田城は元就の累年にわたる兵糧攻めで糧道を絶たれ地獄絵図と化しており、食料を求めて投降、脱走する兵士が相次いだ。しかし兵士に脱走されては兵糧の消費ペースが緩和されてしまうため元就は一切の投降を許さず、城から出てきた兵士を皆殺しにした。血も涙も無い元就の戦術に輝元は不快感を覚え、「尼子軍の兵士達がかわいそうだから、兵糧攻めを中止して欲しい」とKYなたわごとを口走り、元就や隆景を唖然とさせる。

その他、首実検を見ただけで吐血したり、山中鹿介に危うく殺されかけたり(この時品川大膳とかいう武将が身代わりになってくれたので輝元は一命を取り留めた)、敵が寡兵で破れかぶれの夜襲を仕掛けてきただけで周章狼狽するなど、将としての器量を疑わせる醜態を晒してしまう。

単なるお人よしで武将としての心得、覇気が欠如していることを憂いだ元就は、知略に長け、最も元就に似ていると言われた三男小早川隆景に、輝元を大将の器に相応しい男に育てて欲しいと頼む。隆景は輝元を一人前の将に育て上げるべく峻烈なスパルタ教育を行うが、これに耐えられなくなった輝元は幾度か家出している。そのたびに隆景に連れ戻され、尻を布団叩きで叩かれた。

スパルタ教育は奏功し、輝元は(少なくとも以前よりは)立派な武将になった。見違える孫の勇姿に安堵した元就だったが、一抹の不安を払拭する事は出来ず、最後まで元春、隆景に輝元の支えとなるよう言い残し、1571年、数え年75で逝去する。

織田軍との死闘[編集]

やがて織田信長に追われた室町幕府将軍足利義昭が落ち延びてくると人のよい輝元はこれを庇護した。そのため織田家と敵対関係となる。時勢を見る目に長けた叔父隆景は義昭を見捨てるべしと諫言した、などと講談では言われているが、これが事実なら隆景は相当な無礼者である。いくら形骸化したとはいえ元は室町幕府の将軍を勤めた人間を見捨てるなど不敬も甚だしい。

また1578年に伯耆で蠢動を繰り返していた尼子家残党を滅ぼした時、尼子家の忠臣山中鹿介の処遇を巡ってこんな逸話がある。叔父の元春、隆景は鹿介の忠義に感嘆し輝元に助命するよう懇願したが、器量の狭い輝元は辛酸をなめさせられた鹿介を許さず処刑し、隆景は輝元の偏狭ぶりに辟易した、という話だが、もしこの話も実話だとすれば隆景は最早阿呆としか言いようが無い。鹿介は反毛利の旗幟を鮮明にしており、一度捕虜になりながら便所から糞まみれで逃走するなど尼子家復興の為なら手段を選ばない、毛利家にとっては危険極まりない人物であった。そんな男を助命すればいずれ禍根となるのは明白であり、隆景が情に流されてそのような誤った判断を下すとはとても思えない。無論この二つの逸話は作り話で、鹿介に関しては実際は元春が有無を言わさず鹿介を処断したようだ。

織田家と対峙した輝元は同じく信長と敵対し篭城戦を行っていた石山本願寺に対して、村上水軍に命じて海上から兵糧を搬送した。それを阻止せんとする織田軍と二度に渡って木津川口で合戦を交える(木津川口の戦い)。平和主義者の輝元は初めは話し合いによる解決を望んでいたが、木津川口で織田水軍と遭遇するや否やいきなり向こうから焙烙を撃ちかけて来たので止む終えず合戦になった。

一戦目は快勝した毛利家だが、二戦目は九鬼嘉隆の鉄鋼船部隊に惨敗を喫する。ちなみに近年ではこの合戦まで何故か輝元が無能な所為で敗戦したということにされている。たしかに輝元は無能だが木津川口の敗戦は九鬼水軍の鉄鋼船に手も足も出なかったことと、味方の村上水軍がなにやら怪しげな行動をしていて本戦に参加しなかったことが敗因で、輝元の采配は何ら関係ない。ついでに言えば第一次木津川口合戦の快勝も織田水軍が海戦慣れしていなかったことと毛利水軍、村上水軍の精強さが勝因であり、やはり輝元の采配は一切関わりが無い。

中国地方攻略を任ぜられた羽柴秀吉が侵攻してくると、毛利氏は次第に劣勢に追い込まれる。秀吉とそのブレーン黒田官兵衛が播磨三木城に対して兵糧攻めを行い、城内は渇え殺しと呼ばれるほどの凄惨な地獄絵図であったと聞いた輝元は、そのような鬼畜な男に兵糧攻めで兵が苦しめられるのは忍びないと、安国寺恵瓊を通じて秀吉に五ヶ国を譲ることで降ろうとしていたが、元春、隆景から「降伏しても約束など反故にされ一族郎党皆殺しにされる」と脅され、止む終えず徹底抗戦することになる。この頃の輝元は実質元春、隆景の傀儡であり、特に隆景からは「無能のお前にとても采配は任せられない」との方便からいいように利用されていた。輝元も幼い頃隆景に受けたスパルタ教育トラウマとなっており、彼には逆らえなかった。

秀吉の傘下に入る[編集]

1582年、秀吉率いる中国方面軍は備中まで迫り、要衝備中高松城を水攻めにする。しかしその間、織田信長本能寺の変で横死したため、秀吉は急いで毛利軍と講和を結び、その条件として備中高松城城主清水宗治が切腹した。

こうして秀吉は退却したが、毛利軍はこれを追撃できなかった。秀吉は「毛利軍の武将のほとんどがすでに寝返りの約束をしている」と毛利側に伝え、毛利側は疑心暗鬼に陥っていたためである。これは毛利家の家臣の日記がソースなので100%間違いない事実なのだが、毛利家では後になって「吉川元春はこの時秀吉を後ろから追撃するべしと強硬論を説くが、輝元、隆景が反対したため追撃しなかった」といった恥知らずな捏造を繰り広げることになる。

関ヶ原における失態[編集]

大坂城より撤退する輝元公の雄姿~戦国絢爛チョコより

関ヶ原の合戦において輝元は不戦の態度を示し、石田三成の要請を無視して大阪城から兵を動かさず、戦後家康に「所領を安堵する」という空手形に騙されて大阪城を引き上げてしまい、挙句の果ては周防長門に所領を減らされた。この時の輝元の失態は後世に至るまで嘲笑されているが、むしろ輝元のこの行動は賞賛されるべきものである。輝元が出陣していれば西軍は圧勝できた、とよく言われるが、長い間叔父の隆景の傀儡だった輝元に総大将として采配を振るい、多くの西軍諸将の総指揮を取る事が出来たかは疑わしい。間違いなく合戦は泥沼化し、たとえ本戦に勝てたとしても、中仙道から来る徳川秀忠の大軍をさらに打ち破らなければならず、全国の局地的な合戦を含めると関ヶ原の合戦は相当長引いたと思われる。もしそうなれば多くの人命が失われ、日本は再び乱世に逆戻りしたかもしれない。

だが、輝元が本戦に参戦せず、また従容として大阪城を立ち退いた事で、戦争の犠牲者を最小限に抑えることが出来たのだ。そういう平和主義的観点から見ると、輝元は愚物どころかノーベル平和賞を授与しても差支えない偉人だったと言える。ちなみに幕末の将軍徳川慶喜は、この時の輝元の行動を戦火を収束させるための英断であったと褒め称えており、後年自身も鳥羽・伏見の戦いで、戦争の放棄を標榜し敵前逃亡している。

元就の遺言に背いた?[編集]

祖父、元就は臨床にて輝元の凡庸な器量を憂慮し、元春、隆景に「天下を手中にしようという野心など持たず、ただただ毛利家の安泰のみを考えろぉぉぉ!!! 隆元~~~~~~!!!」と遺言を残した、しかし輝元は元就の遺言に背いて天下を取ろうと高望みしたためその野心を三成に利用され、関ヶ原で総大将に担がれた結果減封された、とよく言われる[1]。が、天下を取ろうとする意思があったら大阪城に篭りっぱなしで関ヶ原本戦に参戦しなかったのか、いくらヘタレとはいえ大阪城に入った途端臆病風に吹かれ腰が上がらなくなってしまった、などということは有り得ない。毛利家の西軍参加は消極的なもので、輝元に天下を望もうとする意思が全くなかったことはは明白である。

毛利家は逸早く恭順したとはいえ秀吉から所領をそのままの形で安堵され、さらに輝元、隆景と一族から二人も五大老に抜擢されるなど秀吉の恩恵を多大に受けており、豊臣家とは密接な関係にあった。毛利家の西軍参戦は半ば必然だった。「東軍につくべきだった」などと抜かす無責任な輩もいるが、もし毛利家が東軍についていたら小早川秀秋以上の不忠、戦国最低の裏切り者の謗りを受けたであろう。中立不戦という手段もあったが、120万石という大大名であり、なおかつ五大老にまで名を連ねている毛利家に中立不戦を許すほど三成は甘くなかった。しきりに西軍への参加を要請する。

さらに安国寺恵瓊から「東軍に付いたところで、家康は120万石の大勢力である毛利家をそのままにしておくはずがない。必ず無理難題を押し付けて潰しにかかる」と脅され、逡巡していた輝元だがついに西軍へ属する事を決意する。たとえ恵瓊の讒言がなくとも、五大老の立場上西軍につかざるを得なかっただろう[2]恵瓊の脅し文句も決して口から出た出任せではなく、事実、戦後毛利家は減封されている。戦意がなくとも敵軍の総大将である以上重罪は免れない、と家康は弾劾したが、そんなものは方便に過ぎない。恵瓊の言うとおり、たとえ東軍に所属していても、福島正則のように言いがかりをつけられ毛利家は領土を減らされるか、最悪小早川秀秋のように病死に見せかけて暗殺されるか、豊臣家よろしく滅ぼされていただろう。

輝元は祖父の遺言に背くどころか、祖父の遺言どおり、毛利家安泰の為西軍に属した。こんな謹直な人物を中傷する連中の品性を疑ってしまう。まあ、無能なのは事実なんだけどね。

ウィキペディアにおける記述[編集]

ウィキペディアの輝元の記事は、関ヶ原の「愚挙」や、祖父や父、叔父達と比較してその器量を凡庸、愚鈍極まりないと酷評しており、とても公共性のある百科事典とは思えない、輝元に対する悪いイメージを受け付けようとする執筆者の悪意が透いて見える糞記事と化している。たしかに、三成に総大将に担がれ、本戦では何らアクションを起こさず、大阪城をあっさりと明け渡し戦後大幅に所領を減らされたという結果論で言えば輝元の行動は軽率であったかも知れない。しかしより広いグローバルな観点から見ると、一概に愚行とは断定し難い。しかしながら戦国オタクのウィキペディアンは結果論や武将としての優劣のみで全てを決め付けようとする偏狭な連中ばかりなので、現状輝元は正当な評価をされることがない。この点は今川氏真なども同様である。

醜聞[編集]

お人好しの平和主義者である輝元だが、いくつか醜聞がある。

  • 1589年、家臣杉元宣の妻(児玉元良の娘、後の二の丸殿)を寝取ってしまい、これに激怒した元宣が豊臣秀吉に直訴しようと動きを見せたため、叔父の隆景が止む終えず討ち取った、という事件があった。いい年こいてそのような大過を犯した輝元は小早川隆景から大目玉をくらい、押入れに1週間軟禁された。隆景はこの時輝元を隠居させ、養子となっていたまだ幼少の毛利秀元を当主に据えようかと考えたほどであった。ただ輝元の側にも言い分があり、正室との間に嫡子が生まれなかったので側室が欲しかった、また杉が自らの妻を虐待しているような素振りが見られたため、彼女を救うためこのような愚挙に及んだのだ、と言い訳した。無論隆景の逆鱗に触れ、輝元はさらにケツバット1000回を喰らう羽目になった。この輝元の行いは一国の大名にあるまじき行為として嘲笑、非難されているが、家臣の妻を寝取るというエピソードは「妊婦の腹を割いた」と並んで暴君にまつわるエピソードのお約束である(古くは雄略天皇武烈天皇桓武天皇など)。つまり創作の可能性が高い。しかも本当に家臣の妻を寝取ったのであれば、隣国の大友家のように、寝取りが端緒となって家中に内乱が勃発していてもおかしくない。しかし毛利家の場合は杉一人の粛清で事無きを得ている。やはり創作に違いない。ちなみに輝元はこの寝取った妻との間に秀就、就隆の二児を設けている事から、寝取った妻との夫婦間は良好で、杉が妻を虐待していたという輝元の言い訳もあながち嘘とはいえないのではないか、とも言われている。
ちなみに、二の丸殿を輝元が見初めたのは二の丸殿が幼少の頃、自宅の門の前で遊んでいたところである。あまりにも輝元がしつこく押しかけてくるため、それに嫌気が差した父親の児玉が杉に嫁がせたそうであるが…二の丸殿が杉に嫁いだのは12歳(数え年)の時である。つまり、輝元が彼女を見初めたのはそれ以前(恐らくそれより数年前。即ち満年齢で一桁台)のことであるため、これが事実であるならば輝元が検閲により削除・あるいは検閲により削除だったのは間違いないことになる。まあ、前田利家もそうだし、この時代はそこまで特異なことではないのだろう。
  • 朝鮮出兵(前期)の際、豊臣秀吉は「無抵抗な百姓には手出ししないように。略奪も厳禁」とお触れを出していた。朝鮮出兵の目的は「唐入り」、すなわち明に攻め入ることなので、これは当然の処置と言える。だが輝元はこの命令をガン無視し、朝鮮の百姓から略奪しまくった挙句、朝鮮農民を奴隷として日本に連れ帰った。
  • 大坂の陣の時、輝元は家臣の内藤元盛を改名させて密偵として大坂城内に忍び込ませている。所謂「佐野道可事件」と呼ばれるこの一件は、徳川憎しの感情から、輝元と側近数名のみの意思で実行されたと言われている。だが実際は薩摩藩藩主島津家久 (DQNな方)と密談、共謀の末練り上げられた策謀であり、豊臣秀頼、淀殿親子を救出し、そして薩摩へ無事落ち延びさせる事を目的としていた。しかし土壇場で家久が幕府側に鞍替えし、密約が交わされた事を幕府に洗いざらい密告してしまい、輝元は窮地に陥る。佐野道可こと内藤も捕縛されたが、柳生宗矩の尋問に対して本家とは一切関わりがないと口を割らず、戦後自害する。輝元は証拠隠滅の為、遺された息子達は不自由のないように処するという内藤との約束を反故にして遺子達を切腹させた。後に残ったのは輝元に対する非難と侮蔑だけであった。輝元は島津氏の変節を深く怨み、これより250年後、薩長同盟が締結されるまで両藩の不仲が続いた。

同性愛を尊重した輝元[編集]

ボンクラとしてのイメージが浸透している輝元だが、キリスト教に対しては苛烈な弾圧を行っており、宣教師が残した史料では鬼畜と呼ばれてこき下ろされている。何故ここまで輝元がキリスト教を弾圧したのかというと、キリスト教が同性愛に対して徹底的に非寛容だったからである。

長門国、周防国(山口県)はかつて大内義隆が繁栄を極めた地域である。その義隆が同性愛を愛好していたことはよく知られており、山口はホモの国としての側面が強かった。衆道は戦国時代なら当たり前の慣習なのだが、山口においては男と男の同性愛は嗜みを通り越して危険な領域へと突入しており陶晴賢が謀反を起こした理由の一つに大内義隆がジジイの相良武任とばかりズッコンバッコンやって自分の相手をしてくれなくなり嫉妬が爆発したという見解が有力視されるほどである。輝元も叔父の隆景とよくヤッていたという話は文献にもチラホラと出てくる。何にせよ、同性愛に対しては理解の深い人間であったであろうことが推察される。ところが宣教師達は、キリスト教の教義に背く同性愛を徹底的に排斥しようとしたため、これが輝元の逆鱗に触れたのである。また隣の大分の大友宗麟はキリスト教に洗脳され、ホモ達を迫害した為、大量のホモが難民として山口に押し寄せ、輝元が彼らを庇っていたという背景もある。

注 釈[編集]

  1. ^ 最近の毛利家研究だと、むしろ輝元のほうが野心のために三成の政治力を利用し、あげく最終段階でブルって敵前逃亡したという話もある。当記事は輝元を賞賛するのが目的なので、そんなことには言及しない
  2. ^ 彼以外の五大老、上杉景勝宇喜多秀家も西軍に属している。4人なのに五大老