毛利秀元

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毛利 秀元(もうり ひでもと、1579年 - 1650年)は、日本の武将。戦国時代も終わりかけた頃に誕生したが、朝鮮の役関ヶ原の合戦に参戦したので、ぎりぎり戦国武将と定義できる。咀嚼が身体に良いということを熟知しており、飯を食べる時間が異常に長かったことで有名。関ヶ原の合戦では一日かけて飯を食っていたことで知られる。

生まれ[編集]

秀元はあの毛利元就の孫に当たる人物である。父親は元就の四男穂井田元清。三本の矢で有名な兄貴達に劣らず有能だったらしいが、親父からは五男以下とまとめて虫けら呼ばわりされていた。その虫けらの子としてそのままさえない一生を過ごすはずだった秀元だが、朝鮮出兵で華々しい武功をあげた為、わが子のいない当主の毛利輝元に目をつけられて養子となった。虫けらの子が元就の正当な後継者となった瞬間でああった。一方、吉川元春小早川隆景には、それぞれ吉川広家小早川秀秋という、後世の人間からゴミ屑呼ばわりされる人間が後継者の座に座っていた。歴史とは皮肉である。

養子辞退[編集]

しかし、輝元に実子の毛利秀就が生まれてしまった。ちょうどこの頃、天下人豊臣秀吉の養子になっていた豊臣秀次が、実子豊臣秀頼が生まれたせいで疎まれ、ついには殺生関白などと呼ばれる悪行をでっち上げられて切腹に追い込まれた事件があったので、秀元は秀次と自分をダブらせた。そしてあっさりと後継者としての養子の座を降り、秀就に毛利家当主の玉座を譲ってしまった。小早川隆景穏便に脅迫したとも伝わっている。

関ヶ原[編集]

隆景が死去すると、秀元は安国寺恵瓊、吉川広家とともに毛利の首脳となっていた。そして当主は毛利輝元、この時点で最若年の秀元しか毛利の良心的存在(他と比べて)がいないというとんでもないドツボに毛利家はハマっている。既に毛利は詰んだも同然であった。

1600年の関ヶ原の戦いでは、恵瓊の口車に乗せられて輝元は軽い気分で西軍総大将に就任したが、石田三成の高圧的な態度が気に入らなかったので大坂城に引きこもる。一方で秀元は恵瓊や広家と共に徳川家康の本陣から南東にある南宮山に2万近くの大軍を率いて布陣した。毛利家は陣取りだけは最高の位置を選んでいた。ここから家康に攻撃をしかければ西からの三成本隊と挟み撃ちにして家康を殲滅させることができたからである。では実際には秀元はどのような行動をしていたのかというと、南宮山で一日中弁当を食っていた。

この弁当は料理人吉川広家が用意したものである。徳川家康に内通した広家は、毛利軍を妨害するために、2万人分の弁当を用意して彼らを南宮山に釘付けにしたのである。あまりに美味かったので秀元は合戦のことを忘れてしまったという。さらに秀元にはある癖があり、これが彼が食事に夢中になることに拍車をかけた。

その癖とは咀嚼癖である。秀元の祖父元就は75歳という当時としては長寿であったことからもわかるとおり健康に気を使う人間で、息子達にも健康に気を使うよう日々教えていた。その一環が咀嚼である。現代でも言われているが、よく噛んで食事をすれば程よい食事で満腹感を満たすことができ、過食に陥ることがなく糖尿病などになりにくい。食糧が乏しかった中世であれば、少ない食事で満腹感を満たすことはなおさら重要であった。

秀元は父の元清からこの教えを受けており、それを忠実に励行していた。さらに、この日馳走された広家自前の鮭弁当はとにかく美味だったので、いつもの2倍咀嚼に時間をついやした。その結果、食い終わった時には西軍の惨敗という形で合戦が終わっていた。なお広家の方は進撃を要請する安国寺恵瓊と合戦が終わるまで一日中口喧嘩をしていた。かくして毛利秀元は、天下分け目の合戦でずっと飯を食っていた男として、歴史に名を残すことになった。

その後[編集]

その後の秀元に関してはあまり知られていないが、秀元が本領を発揮するのはむしろこれからである。関ヶ原の合戦後、毛利家は西軍の総大将であったことを咎められ、周防長門二ヶ国に大幅に所領を減らされた。吉川広家と安国寺恵瓊が互いの反発からそれぞれ家康と三成に加担して足を引っ張り合ったことから生じた悲劇であり、責任を問うなら明らかにこの二人の私闘のせいである。だが恵瓊は関ヶ原の合戦後戦犯として首をはねられたため、追及は生き残った広家の方に集中した。そして秀元も広家を恨むようになる。なにせあの日あまりにも美味い飯を食わされたせいで、戦場で一日中飯を食っていた男という不名誉な印象が全国に流布してしまったのである。飯は美味かったが、その反動でそれ以上の苦味を後日味わされた秀元であった。

その後秀元はどうなったかというと、益田元祥らと共に毛利家建てなおしの中心人物となり、毛利家家中における発言力、立場は鰻登り、遂には長府に長州藩の支藩を立ち上げそこの初代藩主となった。そして、輝元が秀就に家督を継承するとその後継者になったのだが…

老害化[編集]

秀就が生まれてきたせいで輝元の世継ぎを降りねばならなくなった屈辱を秀元は忘れなかったらしい。秀元は自身の毛利家における発言力、影響力の高さをいいことに、秀就に嫌がらせをしたり勝手な振る舞いをするようになった。親父の輝元が死ぬとより顕著になり、ついには幕府が仲裁するほどの自体になっている。そしてDQNの島津忠恒から、最上みたいに内紛高じて潰れてしまえばいいのになどと言われた。奇しくも秀元が関ヶ原で食っていた弁当は鮭弁当であり、最上義光は鮭様と呼ばれている。鮭様の実家同様、内紛により毛利家も潰れてしまうかという危惧もあったが、うまく仲直りできたようで結局は潰れなかった。北の鮭と違って西の鮭は生存戦略が下手ではなかったようだ。

秀元は1650年、72歳で死去した。祖父元就には及ばなかったが、中世で言えば相当な長寿である。父元清から聞かされた咀嚼による健康法を忠実に遵守していたおかげだといわれる。もっともそのおかげで関ヶ原では一日中飯を食うという醜態をさらしてしまったわけだが、終わりよければすべてよしと言えよう。晩年は立花宗茂とかと一緒に、将軍徳川家光に戦国時代の思い出話をよく語っていた。家光は秀元の話に強く興味を持っていたようである。「関ヶ原で一日中飯を食っていた毛利元就の孫」という色濃いキャラクター特性に興味を持っていたことは言うに及ばない。