毛利勝永

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「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」
毛利勝永 について、神沢杜口

毛利 勝永(もうり かつなが、1577年(天正5年) - 1615年6月4日(慶長20年5月8日))は、戦国時代の武士、豊臣秀吉の家臣。毛利勝信の嫡男。数々の男気溢れる逸話を持ち、大坂の陣真田幸村に引けをとらない獅子奮迅の活躍をしたにも拘らず、後世ではそれほど語られることのない気の毒な人。功績と知名度が釣り合わない、戦国有数の「もっと評価されるべき武将」である。[要出典]

勝永には吉政と言う別名があり、こちらの方が正しい名ではないかと言われているが、真田幸村ほどメジャーではないため、歴史家気取り達がケチをつけてくだらない論争になる事もない。ウィキペディアでは改名論争で揉めに揉め、幸村と言う名称についてなどという無駄な節が加筆されている真田信繁(真田幸村)の記事と対照的に、毛利勝永の記事はノートページが未だ赤リンクなほど平和である。

勝永と言う名前は「永遠の勝利者」を示し、大坂入城の際に真田信繁が真田幸村と改名するのにあわせて自らも縁起担ぎの為に改名した、などとも言われている。もっとも、それだけだと入城前に死んじゃってるお父さんの名前も勝信だったり吉成だったりするのは説明できないんだけど。

生涯[編集]

豊臣時代[編集]

元々は森姓を名乗っており蘭丸らの森一族とは遠戚か、あるいは親戚のお隣さんの別居中の妻の不倫相手の隣の隣の隣の同姓の森さんであるとも言われる。

勝永もその父勝信も卓越した武勇の持ち主であり、数々の武功を重ねたが、本人達は温厚かつ物静かな性格であり出世にも無欲であった上に極度のマイペースであり、出世街道に乗り遅れ、福島正則石田三成など、秀吉子飼いの小童共に溝を開けられることとなった。しかし地道な活躍が評価され、豊前国小倉6万石を与えられる。勝信が森から毛利姓に名乗りを変えたのはこの頃であり(余談だがある地域で、もり蕎麦を毛利蕎麦というのはこれに由来するらしい)、通説では、秀吉が箔を付ける為に改姓させたといわれているが、実はこの改姓には秀吉による毛利家乗っ取りの画策も絡んでいた。秀吉が毛利輝元に子がいないことに付け込んで、甥の秀秋を養子として送り込もうと画策し、叔父小早川隆景が「あんなボンクラが跡継ぎになってはたまらん」と、自分の小早川家の養子とすることで毛利家を救ったという話は有名である。しかしこの話には続きがあり、毛利家乗っ取りを諦めきれない秀吉は、今度は勝永を毛利家の養子として送り込み、毛利家を乗っ取ろうとしたのである。これに対して用心深いはずの隆景が、申し出拒むどころか是非養子に下さいと進んでこの縁組を快諾した。そればかりか凡庸な輝元を今すぐ隠居させて勝永を当主に据えてもいいとまで言ってのけたのである。いかに勝永が聡明で皆から嘱望されていたかが伺えるエピソードである。養子縁組の縁談は円滑に進むかと思われたが、当主輝元が自分を除者にした隆景の無礼に憤慨し何が何でも養子には迎えんと猛反対した事と、謙虚すぎる勝永が自分には過ぎたる縁談と断ってしまった事で結局は破談となった。しかし勝永の人柄と武将としての素養は輝元も高く評価していたらしく、毛利の姓を名乗る事は許した。

朝鮮出兵の折、勝永は若輩ながら父勝信と共には従軍し、堅実な用兵を以って、時に果敢に攻め、時には手堅く守りを固めて武功を重ねた。長丁場となる戦の中で諸将にフラストレーションが累積し、知恵者の脇坂安治さえも功に逸って失態を犯す中、毛利親子は陣形を崩すことなかった。冷静沈着で無欲な勝永は功名などには全く興味がなく、逼迫した戦場においても平然さを全く失わなかったのである。だが結局、朝鮮出兵では目立っで活躍することは叶わず、やった事といえば無鉄砲な福島正則らの尻拭いくらいであり、本人達にとっては踏んだり蹴ったりの戦であったはずだが、温厚篤実な勝信、勝永父子は全く気にしなかった。

関ヶ原[編集]

秀吉の死後勃発した関ヶ原の合戦において、勝永は毛利秀元部隊の与力として南宮山に布陣したが、吉川広家が南宮山で料理を振る舞い、前日から何も食べておらず空腹の南宮山の諸将を足止めする。伏見城攻め以来ロクに食事を取っていない毛利軍は腹が減っては戦は出来んとばかりに飯に群がり、もはや関ヶ原参戦どころではなくなっていた。勝永はこの時、自分だけでも東軍に攻めかかる決意を固めていたが、広家や、他の武将達に酒や肴を勧められると、いい人である勝永は断りきれず、まあ飯食いながら戦を観戦するのも悪くないかと思い、一緒に肴をつまむ事になる。後で騙された事に気づいた勝永だが、極端に温厚な彼は広家を(少なくとも表面上は)怨むことなく豊前へと帰国した。

関ヶ原の後、捕虜となった毛利父子には加藤清正山内一豊などから多くの助命祈願が寄せられた。加藤清正は12になってまでおねしょをしていたことをおねね様に叱責された際に勝信に庇いだてしてもらった事があり、勝永に恩義を感じていた。また山内一豊は、他の誰にも名前を覚えてもらえず、その存在感の希薄さゆえ挨拶をしても誰も彼もまるで一豊の存在に気付かないように素通りされてしまう中で、勝永だけがいつも自分の名前を覚えてくれており、逢うたびに会釈を欠かさなかったことにこの上ない感謝の念を懐いていた。そして、何より徳川家康自身も、伏見城でおやつの油揚げをトンビにさらわれ、それを勝永に取り返してもらったと言う借りがあった[要出典]。毛利父子に対する畏敬の念も合さり、家康は勝信、勝永父子の命を助け、おそらく彼らにもっとも恩義を感じているであろう山内家にその身を預けた。

一豊は「武功抜群ながらも地味であまり着目される事のない遅咲きの武将」と言う自分との共通点に共感し、親近感を抱いたこともあってか毛利父子の身柄を厚遇した。やがて一豊は逝去し、毛利勝信も世を去るが、勝永は2代目藩主山内忠義やその未亡人千代からなおも手厚くもてなされたという。未亡人となった千代と勝永はデキていたなどと謗る不届き者がいるがそれは真っ赤な嘘であり、実際は若き藩主忠義の夜伽の相手を務めていた。アッー!

大坂の陣[編集]

しかし安穏は長くは続かなかった。1614年、日本のチェ・ゲバラこと真田幸村から全国の元西軍の浪人に対して「お前ら、このまま惨めな負け犬として一生を終えるのか」と檄文が寄せられ、全国各地から明日の飯の種にも困る貧乏浪人達が結集する。勝永は山内家で厚遇され生活に何の苦も無かったが、この檄文は勝永のもののふの魂を目覚めさせ、勝永は大坂へと上る決意を固める。しかし、勝永が大坂へ上ってしまう事で二度とそのアナルの好感触を堪能できない事を悲観した山内忠義は何が何でも勝永を引きとめんとし、彼を後ろから羽交い絞めにして断固として離さなかった。そのため勝永は止む終えず忠義の股間に金的を食らわせ、忠義が悶絶している間に土佐を去った。

真田幸村ら浪人達は淀殿豊臣秀頼らを人質に大阪城に立てこもり、徳川家康ら幕府軍に無理難題を押し付け、さもなくば人質である秀頼達の命はないと脅した。無論、家康に秀頼らを助ける魂胆などないことを知った上での要求であった。当初、勝永は大恩ある太閤殿下の妻子を人質にとって戦火に巻き込むとはなんたることと幸村達を指弾したが、幸村に「内府はどの道豊臣家を滅ぼそうとしている、それを事前に防ぐため、あえてかような行動をとった」と粉飾した。

また徳川方との交渉の最中、痺れを切らした浪人の一人が秀頼達に刃を向けようとしたところ、極端に真面目な勝永は「かつての主、太閤殿下の忘れ形見である秀頼公に粗略な振る舞いをすべきではない」と諭した。これに感心した幸村はここで機転を利かせ、ならばこの戦は秀頼公を大将と頂いての義戦であると高らかに公言、無理矢理秀頼を大将に据えて豊臣家をテロ戦争の親玉に仕立て上げてしまったが、大阪城の士気は一斉に昂揚し、浪人達は一致団結した。当の秀頼や淀殿からすれば迷惑千万であったことは言うまでもない。勝永は幸村の魂胆あるいは気付いていたかもしれない、だが結果として自分達の戦いがテロから義戦になったのだから、まあいいやと妥協した。

1615年の大坂の陣は勝永の最初で最期の見せ場であった。最期の決戦となる夏の陣において、勝永は真田幸村と共に徳川の本陣に突撃、小笠原秀政本多忠勝の次男本多忠朝など名だたる勇将を次々と討ち取り、榊原康勝酒井家次仙石忠政らの部隊を次々と撃破するその奮闘振りはまさに眠れる獅子が目を覚ましたと言うに相応しいものであった。幸村が家康の本陣へ肉迫し得たのも、勝永のバックアップの恩恵あってのものであった。この激戦の最中、遂に幸村は戦死するが、勝永は降りしきる矢の雨を掻い潜って大阪城まで帰還している。弾幕シューティングゲームの達人でもかような芸当は困難であり、このことからもいかに勝永が精強な戦上手であるかが伺える。ちなみにこの時、幸村が「ウォヤカタサムァ!」など怒声を張り上げながら突撃してくるのとは対照的に、勝永は無言のまま太刀を振るっており、敵兵達は幸村の剣幕と勝永の無言の威圧感に恐れおののいたという。

豊臣秀頼の介錯を勤めたのは勝永だと言われている。介錯を任されるほど勝永は秀頼から信頼されていたのである。一説には、ジャンケンで負けたほうが秀頼の介錯をするという条件で大野治長とジャンケン勝負をし、秀頼の介錯をするのを忍びなく思っている治長の心中を慮り、あえて勝永が後出しで負けたと伝わっている。なんていい奴なんだ。

人物・逸話[編集]

  • 温厚篤実な人柄ゆえ敵を作ることはなかったが、反面世渡りが下手であり、加藤嘉明から「己の立身出世に貪婪であったら太閤の下もっと高禄を食んでいたであろう」と評された。
  • 大坂夏の陣の折、敵の奇襲により後藤又兵衛が討死にしたことを知った真田幸村は嘆き悲しみ、我も後を追わんと取り乱して敵陣に単騎特攻を仕掛けようとしたが、この時勝永は幸村の顔面を殴り斃して制止した。勝永のグーで殴られた激痛により幸村は正気を取り戻したが、爾後しばらく幸村の顔面はクレーターのように陥没してしまった。

評価[編集]

毛利勝永の知名度は悲しいほどに低く、辛うじて玄人気取りの戦国オタクが「俺こんな隠れた名将知ってるんだぜ凄いだろ」という自己満足の為にその名を挙げるくらいである。

何故知名度が低いのか?その理由の一つとして、真田幸村の華々しい活躍の陰に隠れてしまった、勝永の見せ場らしい見せ場が大坂夏の陣くらいしかなく、語りづらい、寡黙な人柄で多くを語らなかったため名言も少ない、伝記などでは架空人物の真田十勇士が活躍するせいで、大坂の陣における本来の幸村の盟友である勝永達の出番が奪われてしまう、などの点が挙げられる。

信長の野望においても実際の戦果からは思えないほど低い能力にされ、革新でようやく上の下くらいの武将となった。 一方の幸村が親子共々チート使ってんじゃないかと思うほど強くされてるのも悲しみを誘う結果となっている。

しかし数少ない毛利勝永のファン達の間では「勝永は隠れた名将だからいいのさ」と言う意見で概ね一致している。漫画『常住戦陣!!ムシブギョー』では早々に十勇士(の大半)が死んでしまったため、後半のボス敵として出てくるが、せいぜいそのくらいでしかない。これからも勝永は隠れた名将として語り継がれてゆくだろう。

ちなみに、幸村、勝永、明石全登後藤又兵衛長宗我部盛親の5人合わせて「ネオ義レンジャイ」と呼ばれることがある。