武田氏

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武田氏(たけだし) とは、正式には「甲斐武田饅頭株式会社」と言い、日本戦国時代甲斐の国を中心に活動した超粉飾決算企業である。古くは平安時代末から活動していたらしく、清和源氏屋和菓子本舗からのれん分けされて成立した。安芸の国、若狭の国、下総の国にも同名の別会社が存在したが、そういう訳で先祖は一緒。もっとも、そちらは激動の企業競争の末に倒産、夜逃げなどの顛末を辿ったらしく、余程の戦国ヲタでもないかぎり存在すら知られていない。まあ、当甲斐武田氏も粉飾しまくって最後は破産するんだけどね。

概要[編集]

ろくな商品も無いのにキャンペーンばかりぶち上げて、売上げも少ないのに営業エリアばかり拡大して、シェアも上がらないのに増産繰り返して、経営戦略もまともに立てないで大手に喧嘩売って、利益も無いのに会社の規模ばかり大きくした。その営業力は戦国最強というには程遠く、粉飾により水増しされたものであった事は言うまでも無い。
経営危機に陥ると、隣人とわざと揉め事を起こして内部の結束を図るという北の三流独裁国家みたいな経営を展開。更に大陸の無法国家の様な、詐欺まがいの行為で他社を乗っ取る行為を繰り返した。最後は従業員に見捨てられ、まあ・・・ 潰れるべくして潰れた会社である。

歴代社長[編集]

武田信光[編集]

武田屋創業者。織田信長叔父ではない。まあ、最初ということで名前だけ。

武田信虎[編集]

1494年(明応3年)~1574年(天正2年)享年81歳
武田屋第18代社長。在任期間1507年(永正4年)~1541年(天文10年)
かなり乱暴なワンマン社長。

武田晴信[編集]

武田信虎の子。1521年(大永元年)~1573年(元亀4年)享年53歳
武田屋第19代社長。在任期間1541年(天文10年)~1573年(元亀4年)
重臣のアジに乗せられ、自分の父親から社長の椅子を強奪したバカ息子。父親も悪人だから血は争えないと言ったところか。罰が当たるのを恐れたか、後に仏門に入り信玄を名乗る。

武田勝頼[編集]

武田晴信の子。1546年(天文15年)~1582年(天正10年)享年37歳
武田屋第20第社長・・・の代行。在任期間1573年(元亀4年)~1582年(天正10年)
本人も確かにぼんくら社長だったが、しかし倒産の原因は元を正せば親父の経営方針にあった事は、武田フリークの方々は絶対に認めたがらない。

武田信勝[編集]

武田勝頼の子。1567年(永禄10年)~1582年(天正10年)享年16歳
こっちが武田屋第20代社長ね、念の為。在任期間1573年(元亀4年)~1582年(天正10年)
傀儡社長として責任だけはしっかり共同で負わされた可愛そうな人。合掌(-人-)

しかし武田屋の跡継ぎ達、年々寿命が短くなってるのって・・・

武田信虎の時代[編集]

戦国時代に突入しそれまでの名門武家企業が没落していく中、甲斐武田屋も御多聞にもれず没落しかかっていたが、武田信虎によって立ち直る。しかしその企業内容はといえばとんでもないブラック企業で社員をさんざんこき使った挙句、残業や手当てはまったく無視、文句を言う奴は即左遷。しまいには給料払うのが嫌だからといって、重役である内藤虎豊(内藤昌豊の父)、馬場虎貞(馬場信房が跡を継いだ)、山県虎清(山県昌影が跡を継いだ)等に難癖つけて懲戒免職。その後は後腐れが無いようにと社屋の地下室で検閲により削除
営業戦略も惚れ惚れするほどのブラックぶりで、その強引な営業攻勢に晒された甲斐の国の同業者はことごとく潰されたか、もしくは無理やり傘下に入れられてしまった。甲斐の国のシェアを独占した後はとにかく苛烈なボッタクリ営業を展開、顧客はもちろん従業員からも大いに嫌われた。
1541年(天文10年)、業務提携を結んでいた駿河今川焼き本舗に視察に行っていた間に副社長の武田晴信を発起人とした社長解任劇がおきた。これは番頭の板垣信方甘利虎泰らが裏で糸を引いていたらしいが、他の家臣たちも嬉々として賛同。「くそったれ社長、ざまぁ見ろ」事件として甲斐の国じゅうから喝采を浴びたそうな。

武田晴信(信玄)の時代[編集]

飲めや歌えやうふふの日々[編集]

父親の信虎を追放した後、武田晴信は早速酒池肉林にふけり、武田屋のの蓄財を食い潰すというバカ旦那っぷりを見せ付けた。最初こそ傀儡社長の晴信が遊び呆けるのは好都合だと放っておいた板垣信方だったが、晴信の桁外れの放蕩三昧の前に武田屋の身上(しんしょう)が傾きだすに至って流石に慌てたらしく、めっを呈している。
信虎がセコセコ溜め込んだ悪銭が底を突いてきたことから、仕方なく会社経営に乗り出した。

信濃の国に営業展開[編集]

諏訪神社兼霊感商法を営む諏訪屋、その親戚の伊那高遠屋を倒産させる
高遠屋と結託して諏訪屋を敵対的買収、更には高遠屋から株式を詐欺で取得。乗っ取りいっちょ上がり。なお、諏訪屋の看板娘を無理矢理うふふしてこさえた子供が後で武田屋に引導を渡しました。因果応報。
深志の老舗小笠原屋の商品管理の甘さにつけ込み倒産に追い込む
もともと財務内容まっかっかだった小笠原屋は難癖同然のリコール請求に対応できずあっさり倒産。
長野の村上カンパニーを排除
北信濃で堅実経営を営む村上カンパニーに対し、不当なダンピング攻勢を展開。村上だけでなく越後の国の上杉屋からも苦情が上がるが、無視。
しかし、武田屋の饅頭は余りに質が悪かったためさっぱり売れず、二度にわたり大赤字を出す。番頭の板垣信方、甘利虎泰、(ついでに)責任を取らされ辞任。晴信ぼん、なかなかどうして奸智だけは信虎以上だ。やめさせられた二人のその後の運命は悲惨というほかにない。
結局饅頭では勝負にならないため村上カンパニーの主要社員の頬を札束でひっぱたくという極悪非道な作戦でシェアを奪う。その後、社長の村上義清は越後上杉屋に重役として雇われ、武田屋を目の敵として立ち塞がる事となる。

越後上杉屋と泥仕合[編集]

経営音痴二人の押し売り合戦。戦場にされた川中島の方々、ご愁傷様です。

上野の国出店[編集]

箕輪長野屋に敵対的買収をかける
上野の頑固親仁の地盤でも武田屋饅頭はクソ扱い。「一昨日来やがれ」と追い返される日々。しかし頑固親仁が(-人-)してしまった為、買収成功。しかし上野の国なのに長野屋とはこれ如何に。

駿河今川屋乗っ取り大作戦[編集]

駿河今川焼き本舗(今川屋)の前社長の今川義元は、織田コンツェルンのお膝元の尾張に出店攻勢をかけたが、逆にコテンパンに打ちのめされ大赤字を抱えた挙句、営業所で過労死した。武田屋はこれにつけ込んで今川屋乗っ取りを目論んでいる。
だがこれは直ぐにばれて、塩止めを食らい逆にピンチ。塩が無いと饅頭を作れないと焦っていたら 越後上杉屋から塩が届く。・・・ええ話や~~。え?只じゃない?おい、何だよ、このボッタ価格は!!・・・まあ背に腹は代えられんよね。
長男の武田義信の嫁さんが今川屋の娘だったこともあり、ごたごたがおこる。
業務提携を結んでいた相模北条商会から絶縁状をもらうに至り、逆恨みした晴信は北条屋本店のある小田原で強引なシェア奪取キャンペーンをしかけたが、結果は・・・大赤字を抱えてすごすご帰ったとさ。「武田饅頭の質の悪さをナメんなよ!!」-故板垣信方談-
しかし、どさくさにまぎれて何とか今川屋乗っ取りは果たされた。

三方ヶ原キャンペーン[編集]

1573年[元亀4年]、武田屋は遂に徳川商店の営業テリトリーに殴り込みをかける。
残念、時間切れです。
甲斐武田屋饅頭株式会社代表取締役社長、武田晴信、死亡。
「死んでない事になっているので告別式やりません。お香典だけ承ります。」

武田晴信の遺言[編集]

「武田屋の粉飾決算を3年の間は秘匿し、裏帳簿を諏訪湖に沈める事」、「(勝頼は)信勝継承までの後見として務め、越後の上杉屋とのダンピング合戦を止める事」他云々
「遺言を聞いて全身から血が引いた」後日、勝頼は武田屋の財務内容を知った瞬間をそう語っていた事が「甲陽軍艦大福餅帖」で紹介されている。また同書には当時の武田屋営業所の実態が記されている。
甲斐の国
  • 躑躅ヶ先エリア
本店お膝元。圧倒的なシェアを確保するも、 「甲斐商人の歩いた後はペンペン草も生えない」と言われるように、大変利潤の少ない地域である。
  • 岩殿山エリア
子会社小山田商店のフランチャイズが展開。消費者希薄につき売上げ不振。
信濃の国
  • 諏訪・伊那エリア
圧倒的なシェアを確保し黒字計上。
  • 木曽エリア
子会社木曽屋のフランチャイズが展開。消費者希薄につき売上げ小額。
  • 深志エリア
圧倒的なシェアを確保するも、管理販売費かさみ黒字小額。
  • 上田・佐久エリア
圧倒的なシェアを確保するも、越後上杉屋とのダンピング合戦で利潤小額。
  • 海津エリア
圧倒的なシェアを確保するも、越後上杉屋とのダンピング合戦、経費倒れで大赤字計上。「決して私が悪いのではない。」-高坂昌信発言者不明-
上野の国
シェアが小さい上、相模北条商会、越後上杉屋と三つ巴の大接戦地。大赤字計上。
駿河の国
圧倒的なシェアを確保し消費性向も良好。だが子会社穴山商会のフランチャイズがのさばっており直接経営できず。社長が社長だけに利潤が掠め取られていると言う噂は事実です。
美濃の国
エリアマネージャーの秋山信友が年増の奥さんを通じて販路を開拓したが、未だシェアは小さく、織田コンツェルンに押され気味。
飛騨の国
シェアこそ大きいが、消費者人口壊滅的。赤字。陸の孤島は伊達じゃない。
越後の国
越後上杉屋への嫌がらせの為に出店しているが、ダンピング以前に顧客皆無の大赤字。
遠江の国
戦略上必要だったのかも知れないが、山ばっかじゃん・・・という閑散地。もちろん赤字。  
三河の国
同上。言うまでもなく、赤字。
越中の国
何故こんな所に?と思うような山間地(閑散地?)。案の定、完全マイナー扱い。売上不振で赤字。
具体的に言うと
  • 最大売上………120万石
  • 営業範囲………甲斐、信濃、駿河、上野、美濃、飛騨、遠江、三河、越中、越後(1573年[元亀4年]当時面積では最大)
  • 従業員………3万人(ただし、あと1万人は臨時雇用してたかも。)
確かに大会社ではあるが同時期の織田コンツェルンの売上が400万石(推定)、相模北条商会220万石(推定)であった事を考えると、ちょっと・・・かなり寂しい。まあ、これで織田とか北条とかと遣り合おうっていうんだから無理がある。つまり武田屋は背伸び経営で財務内容は壊滅的であった。損益計算書は経費倒れの大赤字を計上、貸借対照表は累積赤字が目を覆わんばかりの大幅債務超過であった。
では武田戦国最強の呼び声は?・・・単に粉飾決算です。あしからず。
「親父、なんでこんな所にばっかり出店してんだよ!(怨)」-武田勝頼-談

武田勝頼の時代[編集]

第一回不渡[編集]

武田勝頼は借金返済のため東奔西走する・・・かと思われたが、やっぱりぼんくら社長。結局やった事は親父とおんなじ。こせこせと僻地開拓に貴重な運転資金を費やし、財政逼迫の度合いは更に深刻になる。
1575年(天正3年)三河の国長篠支店のフランチャイズ会社奥平屋が突如として徳川商店傘下に乗り換える事件が起こった。怒った勝頼は長篠支店の近所の設楽ヶ原エリアに営業員1万5千人を投入し、一大嫌がらせキャンペーンをぶちかますが、織田コンツェルンがチョコレート菓子やらケーキやらの舶来スウィーツを供給して支援。武田屋饅頭は全く売れずキャンペーンは空振り、武田屋は不渡りを出してしまう。
社長の勝頼、ここは重役達に(これまで通り)全責任を転化し乗り切ったが、武田屋は多くの優秀な営業員を失った。

第二回不渡~そして倒産へ~[編集]

1581年(天正9年)遠江高天神支店が徳川商店の進出により閉店。遂に二度目の不渡りが発生。武田屋経営陣は完全に信用を失墜してしまう。その後は自主廃業に向け、ジェットエンジンを背負って甲斐の山道を42.195kmダッシュ。
1582年(天正10年)織田コンツェルンが自慢の舶来スウィーツ特別価格キャンペーンをもって攻勢をかけると、甲斐や信濃の田舎者には効果覿面。 武田屋饅頭の質の悪さもあり、無事倒産とあいなりました。お疲れ様。なお、廃業寸前で粉飾決算をしていたことがバレ、小山田商店社長の小山田信茂に「このオトシマエどうつける気じゃぁ、ぼげぇぇぇ」と殴り殺されたとか何とか。
「僕が悪いんじゃないやぃっ、親父がどえらい借金残したのがいけないんだいっ!」勝頼ぼん哀れなり。

関連項目[編集]


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