武田信虎

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武田 信虎(たけだ のぶとら)は、戦国時代の大名。日本で平清盛に継ぐ二番目の共産主義者武田信玄の父親である。通称組長、及び虎さん。世間一般には諫言する家臣を殺し、また信玄を疎み他国へ追放しようとした暴君のイメージが膾炙しているが、それは息子の信玄によって流布された偽りの人物像である。信玄はツンデレという概念を全く理解できず、彼を精神疾患だと断定して駿河へと追いやってしまった。

戦国時代有数のツンデレとして有名であり、晴信や重臣達に称賛のつもりでもそっけなく尖った態度をとってしまうが多かった。晴信や重臣にはそのツンデレっぷりは理解されず、かえって反感を買う要因となった。息子に追われ駿河にお預けとなってからはデレ全開となり、桶狭間や武田家の駿河攻めの裏には彼の活躍があったとかなかったとか。しかし武田が駿河に攻め入り感動の親子対面を果たす直前に「親不孝者の顔などみたくない」と再びツンツンになり行方を晦ましてしまう。

生涯[編集]

武田家当主時代[編集]

14歳で家督を継承した信虎は、諏訪頼満北条氏綱今川氏親らの強豪に囲まれ、また当主の座を狙う叔父の油川信恵に謀反を起こされるなどまさに内憂外患、安穏を知らぬ日々を送っていた。信虎はこの弱肉強食の世には稀な人格者として知られており、落ち目の扇谷上杉氏を幇助して著しく躍進する新興勢力北条氏との分の悪い戦に望んだり[1]、今川氏の家督継承をめぐる花倉の乱では前当主今川氏輝生母寿桂尼の意見を尊重して梅岳承芳(今川義元)擁立に尽力を惜しまず[2]、周囲から信虎は高く評価されていた。

そんな信虎の唯一の失態は家臣の統率や子供の養育に失敗してしまったことである。信虎は諏訪頼重や今川義元、風魔小太郎太原雪斎、屈服させた小山田信有など、他国の大名や武将、新参の外様をとやかく評価したが、その一方譜代の家臣に対する知行や配慮にはいささか手抜かりがあり、重臣らを叱責し、怒号を飛ばす事も多く、譜代の家臣の心は離れていった。息子晴信に対しても同様であったが、これは彼らに対する深い信頼と愛情の裏返しであった。だが相手は蔑ろにされ、疎んじられているとマイナス感情を抱く一方であり、信虎は次第に周囲との乖離を感じてゆく。

特に筆頭家老の板垣信方とは何かにつけて方針を巡り対立する事が多かった。さらに信虎と板垣が仲違いする決定的要因となったのは息子晴信(後の武田信玄)を巡ってのドロドロの三角関係である。板垣は晴信の傅役であったが、事もあろうに晴信に対して恋情を抱いてしまい、晴信とのホモセックスに興じるようになる。信虎としては愛息が家臣と密通するなど許しがたいことであり、嫉妬と焦りから晴信や板垣に辛く当たるようになり、また両者の間を引き裂こうと策謀をめぐらせた。無論、信虎は晴信の事も板垣の事も好いており、両者が自分から離れてゆく事への恐怖感と一種の嫉妬から彼らに辛く当たっていたのだが、周囲からは信虎は板垣と晴信の間を裂こうとする悪人の印象を抱かれ、人望が著しく低下した。信虎と晴信を奪いあっていた板垣の薫陶を受けた晴信は、当然父親に対して良い印象を抱かない。板垣は信虎は精神疾患であり、もはや晴信が実の息子であることさえ覚えていない。晴信を廃嫡、果てには粛清しようとしているなどとあることないことを吹聴し、晴信もすっかりこれを信じ込み、信虎を老人ホームにぶち込む事を画策する。

晴信はこの時代に珍しいオタクであり、日夜フィギュアや限定版DVDの収集に明け暮れていた。しかしサブカルに対する造詣、理解の薄い信虎は戦国の世を行き抜くための教養にすらならないと晴信からサブカルを取り上げようとしたため晴信は信虎に激烈な怨恨を抱くようになり、親子間の亀裂は益々深まる事となった。しかし後に信虎は反省し、京都の公家より晴信の正室を迎え入れる折、なるべくサブカルに対して理解のある女性を娶らせて欲しいと請願したことは意外と知られていない。また信虎は今川義元には娘定恵院を、諏訪頼重には同じく三女の禰々を嫁がせるなど融和政策を採り、周辺諸国の趨勢に柔軟に対応していったが、晴信は姉を取り上げられた、これから誰に水銀燈のコスプレさせればいいのと憤慨し数日間個室に篭城し、自慰に明け暮れた。

将来が危ぶまれた晴信だが、初陣となった海ノ口城攻めで鮮やかな武功を飾った。信虎は素直に晴信を誉めようとしたが、晴信は父よりも板垣に誉めてもらう事を誉と思っていたらしく、板垣にばかり擦り寄り信虎にはそっけない態度を取ったため再び信虎はツンツンになってしまい、本意では誉めたいところ、晴信を叱責してしまった。

追放[編集]

晴信は遂には板垣ら家臣達と結託して信虎を施設送りにするプランを練り上げ、今川義元と共謀して信虎を甲斐より追い出す。この時忠臣の一人工藤虎豊は、当初は板垣らに協力したもののこの暴挙に罪悪感を覚え、信虎を甲斐へ迎え入れようとしたが板垣に粛清された。工藤の息子は後に武田四将の一人として知られる内藤昌豊である。彼は上田原合戦の直前に武田へ帰参したが、上田原の混乱の最中討ち死にに見せかけて板垣を闇討ちして葬ったという疑惑はあまりにも有名。

駿河で義元と面会後甲斐国境に戻る折、国境を遮断され息子に身を追われたことを悟った信虎だったが、あくまでツンツン態度を崩さず棘のある台詞を吐きながらも元来た道を駿河へと戻っていった。しかしこの時晴信や板垣達がわざわざ国境まで信虎を見送りにきた。おそらく信虎のツンデレぶりが晴信らにも感染したと思われる。信虎は思わず落涙した。

かくして甲斐国主となった晴信だが、まだ青二才の晴信には治世や経済の流通などが全く理解できず、甲斐の国内は混乱に陥る。慌てた晴信は岐秀元伯に助言を求めたが、岐秀がプラトンを深く信仰していたため、その薫陶を受けた晴信は共産主義者として赤旗で信濃を恐怖に塗り変えてゆくのだが、それは後の話である。

フーテンの虎さんとしての余生[編集]

Nemurineko.jpg この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。
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脚注[編集]

  1. ^ 実は上杉氏の娘を妾にしたいという下心が動機であった
  2. ^ 寿桂尼に今川焼を餌に買収されただけとも言われている
Wikipedia
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