武田信廉

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武田 信廉(たけだ のぶかど、天文元年(1532年) - 天正10年3月7日1582年3月30日)?) は戦国時代の武将。武田信虎の四男であり、武田信玄武田信繁とは同腹の兄弟。幼名は孫六。後に逍遙軒信綱と号す。

概要[編集]

武田二十四将で構成される「TKD24」のメンバーで愛称は「かどっち」。信玄に容貌が似通っていたため、彼の影武者を務めたが、そのせいで散々な目に合った。勇猛な兄達と比べると控えめで温厚な性格だが、悪く言えば陰鬱な根暗野郎である。芸術品の収集が趣味で、自らも画才に優れた風流人であり、父、信虎のフンドシ一丁姿や兄信玄の見たら誰もが笑ってしまいそうな寝顔などを描画した。また描いた絵を商人や公家などに売ることで軍資金の貯蓄に一役買った。しかし調子に乗りすぎて母大井夫人や信玄の妻達のヌードも描いてしまい、信玄にボコられた。また日本史上初の武将とエロ漫画家イラストレーターの二足のわらじを履く人物としても知られ、男性向け作品の他やおい系も手がけていたため全世界の腐女子たちからも絶大な人気を集めていた。

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活躍[編集]

軍才、武勇には乏しく病弱だったと伝わるが、病弱な人が信玄の影武者なんか務められるわけがない。上田原の合戦では、猛撃する村上義清にビビッて真っ先に逃げ帰ってしまった信玄の代わりに信玄の鎧兜を身に付け本陣に留まり、義清と一騎打ちを行い村上軍の足止めをした。また川中島の戦いにおいて信玄と上杉謙信が一騎打ちを行った折、一騎打ちの最中便意を催した信玄は、用を足してくる間自分の代わりに信廉に謙信との一騎打ちを行わせた。信玄が長ったらしく野糞を垂れること5分間、信廉は鬼の形相で毘沙門天の化身を相手に奮戦した。信廉との戦闘で謙信は疲労が溜まり、トイレから帰ってきた信玄との一騎打ちを優位に進めることができず、信玄を討ち取れぬまま退却している。謙信は後に「信玄がトイレから帰ってこず、あのまま信廉と戦っていたら俺が討ち取られていたかも知れん」と述懐している。

他にも信玄の命を狙う村上や長尾の間者をバッサバッサと斬り捨て、屠った忍者の数は軽く5000を越える。だが文化人ゆえに感受性の強すぎる信廉は人を斬る事に空虚を感じており、他の猛将達のように積極的に前線に立ち、首級の数を競い合う、そんな野蛮な事は嗜まなかった。元服したての頃、「人を斬るって虚しくないですか」と中二病患者のような戯言を兄信玄に対して言い、精神病院に入れられそうになった事も。

人物[編集]

  • 兄、信玄同様共産主義を信奉しており、日本におけるプロレタリア文学の先駆者でもある。ローゼンメイデンの愛好家でありローゼンへのハマリっぷりは兄武田信繁に勝るとも劣らなかったが、信廉は翠星石蒼星石姉妹、特に蒼い子の方を篤く信仰した。その理由は、地味でいらない子と呼ばれている彼女に自分の境遇を重ねていたからである。
  • 共産党なら真紅を唯一神として崇めるべしと唱える信玄や、水銀党員である信繁とは度々対立することもあった。信玄と風貌が似通っており、なおかつ控えめな人物であったからか、影武者の他にも、信玄の正妻三条夫人や側室の油川夫人諏訪御寮人などの愚痴の聞き役も任されたり、彼女達から似顔絵を描けと命ぜられる事もあった(そして書いたら書いたで大抵「似てない」と怒られる)。信玄は妻達に、「信廉は自分に瓜二つだから、信廉を自分だと思って、存分に愚痴を言ってくれ」と言っていた。いい迷惑だ、と内心で思いながらも、兄思いの信廉は黙って信玄の妻達の愚痴を聞き続けた。
  • 信廉は主に近隣諸国との外交、書状のやり取りなどにその手腕を発揮した。今川、北条との三国同盟の締結、長尾景虎と対峙した際の足利義輝への和睦の斡旋などには信廉の功績によるところが大きい。信廉は今川義元との外交の折には常に自ら描いた義元の肖像画を持参して献上、必要以上に美化されたこの肖像画が義元の機嫌を良くし外交を円滑に進めることが出来たと言う。
  • 武将としては初めての同人誌サークル主宰者で、サークル名は『逍遙軒』後に『信網音楽(しんこうみゅうじっく)』というサークル名も併せて使用していた。ちなみに後者の“音楽(みゅうじっく)”についてはかつて五大陸で怪しい外国語を使っていた山本勘助からテキトーに吹き込まれたもので、テキトーな日本語訳のつもりがまぐれ当たりしただけのモノなので気にしないように。活動内容はもちろん信廉自身によるエロ漫画作品やヌードイラスト制作とその販売である。しかもこともあろうにこれが各種イベントや通販でトップクラスの売れ行きを記録し遂には壁組扱いされるほどの大手サークルとなり、その売り上げは武田家の財政の80%以上を賄っていた。このためどんなことがあろうとも毎年8月と12月はコミックマーケットへのサークル参加のため必ず休暇を取っていた。
  • 兄・信玄の影武者を務めただけに変装の達人としても知られ「怪人二十四面相」を自称、一度顔を見たものにはそっくりそのままの姿に己の姿を変えることが出来る卓越した擬態能力を備えていた。これを生かして、時には敵国の武将に変装して敵陣へ潜り込む等の密偵活動も行っていた。しかし流石に身長などの細部に至るまで本人瓜二つに変身するのは如何ともし難い。もし信廉がhydeに変身しても、身長がhyde本人より圧倒的に高いことからすぐに変装であることが露見してしまうであろう。なお信廉はコスプレも堪能し、コスプレイヤーの先駆と今なお顕彰されている。
  • 信廉は放浪癖があり、家出をすることが多かった。その理由は、表向きは各国の景勝地を巡って風景画を描きたい、というものであったが、信玄の身代わりに扱き使われたり、信玄の嫁共の愚痴を聞かされるのに辟易しており、窮屈な武田家から開放されたい、という動機もあった。

勝頼との関係[編集]

信玄死後も武田家を支えるが、信玄の後継者である情熱の人武田勝頼とは折り合いが悪く、勝頼から暴行などの虐めを受けていた、あるいは勝頼から虐められ邪険にされている被害妄想を信廉が抱いていたと言う。勝頼が父信玄の共産主義から資本主義への転換を表明した時、馬場信春など他の家臣が必死の諫言をしたのとは対照的に、温厚な信廉は「主義主張は人それぞれ」と抗弁しなかった。しかし信廉が各地より収集した芸術品や同人誌の数々を軍資金の足しに勝頼が売り捌いてしまった事に激怒し、長篠の合戦では穴山信君らと共に勝手に戦場を離脱している。

さらに勝頼が信廉の書いた萌え画や風景画をトイレットペーパー代わりに使ってしまったことが二人の関係に決定的な軋轢が生じる原因となった。この頃から信廉は鬱病を患っており、世を偲ぶと言う意味を持つ逍遥軒を号する。

最期[編集]

厭世観に満たされた信廉は一画家として余生を密に過ごそうと心機一転。武田家滅亡の折勝頼には殉じずに行方を晦ます。しかし織田信長による武田の残党狩りは熾烈を極め、まともに逃げ延びる事も謝って許してもらう事もどちらも不可能と悟った信廉は、甲斐攻略を担当し、甲府に封ぜられた武将、河尻秀隆を殺害し、変装能力で彼に成りすます事を画策。激しい一騎打ちの果て見事に河尻を討ち取り、これに成りすます事に成功した信廉は河尻秀隆として甲府を統治し、趣味の描画を嗜んでいた。しかしその最中信長が本能寺の変で横死し、その混乱に乗じて武田の旧家臣が暴動を起こし、その殺意の矛先は甲斐の統治者である河尻秀隆(信廉)に向けられる。哀れ信廉は何も知らない嘗ての家臣たちに襲撃され落命する事となる。というのは記録上のことであり、実際は逃亡に成功して晴れて念願の一画家となり、誰はばかることなく市井の中で幸福に暮らしたという。