橋本龍太郎

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橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう、1937年7月29日~2006年7月1日)とは日本人最後のポマード剣士である。なお内閣総理大臣をやっていたようだが、本人いわく、「剣士を増やすためのパフォーマンス」だそう。余談だが、本籍地は大都会岡山である。

生涯[編集]

生まれる~大学時代[編集]

1937年に大蔵官僚の父と父が警視総監である母の間に生まれる。まもなくして、母は中耳炎に罹って何故か死んでしまう。中耳炎ごときで死ぬとは・・・その後、武家の末裔である為か、剣道の道を進みいつしか「突貫検死」とまで言われた。なぜなら、一般市民に向かっても木刀をXXXXXからである。この頃から、龍馬かぶれが密かに出ていたらしい。

なお、目の下に微かにある。コレは別荘でほっつきあるいてたらチンピラが来て、色々あったからといわれるがその時の音声がなぜか残っていた。以下はそれ

橋本  「チンピラは世のクズじゃけん、ワシが成敗してつかーサイ」

チンピラ「なんやとぉ!やるンか貴様?!」

チンピラ、ナイフを取り出す

橋・ピラ「おらぁ、こらァ、ソラァ、とらぁ、ノらぁ・・・・・・・つかーサイ」

グサ!

チンピラ「うっ、しまった。」

バタ・・・

橋本  「ふッザコめが。これだから困るんだ。おっとワシが人殺したのがバレたらいかんけん、こうやって」

橋本、自分の顔に傷を入れる

なお、そのチンピラは15年と1日経った所で死体となって発見された。

政治家を目指す[編集]

こうやって、人を殺した大学を卒業した龍太郎だったがある日、金が欲しかったので不意を突いて父を木刀で殴ることにした。それは成功するが当たり所が悪くそのまま父は死んでしまった。「やれやれ、これくらいで死ぬのか。情けないでつかーサイ」。龍太郎は逃亡を図ったが後援会の皆さんが「あんたがお父さんを継ぎなさい」と捕まえられた。仕方なく政治家の道に進んだ龍太郎だがまさか総理大臣になるとは思いもしなかったろう。

41歳にして、厚生大臣になり厚生省による死亡事故が起きた時に省の幹部が慰謝料を出し渋っているのを見て、「貴様、よくもそんな事やったなぁ!貴様の給料全額慰謝料にしてつかーサイ」と言ってその人物らの給料をボッシュートする。また、国鉄の大臣になったら自分用のお召し電車がない事に怒って、「貴様ら民営かじゃぁ」とキレた。挙句の果てに大喪の礼の際は自滅党幹事長代理だったそうだが自分を目立たせるために弱虫息子を持つ人を病気に罹らせ、さらに延命治療中の昭和天皇の呼吸器をプッツンしたようだ。この際「せっかく時効が経ったのに、また15年コソコソやってかないといけないか・・・」とつぶやいていたとのこと。

首相就任[編集]

1990年代に入り、自滅党総裁に就任。やっと総理就任と思ったら自民党は野党から転落していたので総理にはなれず。しかし橋本は自身の人脈を生かし、村山に「総理をさせてつかーサイ」とXXXXXを持って言った。そのXXXXXとは細くて長くてキレ味がよいとのこと。ただ村山が党首を務める社会党は自滅党とは犬猿の仲である。それなのに社会党は連立を組んだ。その為に自滅党が自滅せず社会党が破滅した。(議院数は一桁)

特筆すべきは94代内閣掃除大臣イラ菅を厚生大臣にしたことである。彼は就任した後、カイワレ大根の早食いをした。さらに官僚らに怒鳴りつけた行為も橋本を喜ばせたが第2次内閣で諸事情により小泉純一郎に代わった。その小泉も厚生大臣と言いながら、ライオン・ヤギなど自分に似たような動物の世話しかしなった。また、第二次内閣に亀井静香を建設大臣にしたのは有名である。彼は当時から、「人からコンクリートへ。コンクリートに人を」などと言っていた。なお、改造内閣では彼に代わって瓦力という何とも、建設大臣にピッタリな名前の人が就任した。あと難読王も入閣していた。誰も気にしない

また在任中にペリーだかペルーだかでドジな日本人が左翼の下痢らによって拘束された。この際、虐殺王と協力して人質を解放した。この際、アンパンを用いたのは有名。

さらに在任中に消費税を3%から5%にした。ある時、100円ショップで物を買った際、103円を支払うのだがなかなか3円が出てこず仕方なく、10円を渡したら7円が全て1円玉で帰ってきた。彼の財布は常にパンパン(この時期に献金があったと言われる)で、7円を入れた時に割れてしまった。これを見かねた秘書が「消費税、5%にしてやったらどうや!」とあの人風に言った。そのことが原因で5%にしたのであったが、不景気も重なり、参院選でぼろ負け。辞職。

辞任後[編集]

辞任したものの、後任のブッチから「首相外交最高顧問」という、キダ・タロー関東ウケしない深夜番組で名乗ってそうな名前の役職に就任。だが誰も気にしない地味に、死ぬまで務めている。また小渕に「厚生大臣をやりたまえ」と言われたもののある物を持って断りに行った。そのある物とは、前述のとおりである。

さらにゴルフ内閣で「ギョウセイカイカクタントウダイジン」というカクカクした名前の役職に就き、100ぐらいあった省庁を仕分けた。その辺りから調子に乗り出し「また、総理できるかもつかーサイ」と戯言を言いだした。その言葉の通り、2001年の総裁選で満を持して出馬。しかし相手は小泉純一郎。結果は言うまでもない

2004年はさらに受難だった。消費税を導入した辺りに「献金があった。」と記述したがその献金とは「日歯連闇献金事件」というパソコンで変換できない事件を起こしていたことが発覚。結局、彼は死んだも同然の扱いをされていたが2006年、本当に死んでしまったのである。死因は多臓器不全という何とも、橋本に似合う死因であった。[要出典]

死後[編集]

現在は大都会岡山の神として崇拝されている模様。

関連項目[編集]

つながりが深い人物[編集]