横浜F・マリノス

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横浜F・マリノス(よこはま エフ・マリノス、Yokohama F. Marinos)とは、横浜国横浜市を本拠地とするサッカークラブであり、日本プロサッカーリーグJリーグ)に所属している。略称は「横鞠」「」。

神奈川を救済する存在のひとつ「カナザワ・ブルー双翼」であるともされる。

概要[編集]

親会社は日産自動車であり、Jリーグ開幕の時からの最古参組「オリジナル10」の一つ。元は「横浜マリノス」であったのだが、横浜フリューゲルスが解散してしまいその魂を吸収してしまったため、その名に「F」が加えられた。つまり、このFは「フリューゲルス」を表す。リーグ優勝歴も一応あり、名門サッカークラブとされる。

ところが、とある事件により「方向音痴」の疑いがかけられているクラブでもある(ただし親譲りではないらしく、日産のカーナビはちゃんと働くので安心されたし)。また同時に「九位偏執症」という噂もある。

ダジャレ解説で有名な早野乙がいたのもこのクラブである。

歴史[編集]

上記のとおり、J開幕時からこのチームは存在している。それ以来ずーっと一部(J1)で過ごしていた。ここではその歴史について解説する。

開幕前(~1992年)[編集]

1960年代、スポーツによって神奈川県を救済しようという計画が進められた。これをプロジェクト・カナガワブルーという。神奈川から「真っ青な海」を連想したことからこの名がついた(ただしこれと同様の動きは1930年代から見られたらしい)。このプロジェクトの一環としてこのクラブは生まれた。

当時の名称は「日産自動車FC」。緑化軍団東京ヴェルディ(当時読売サッカークラブ)はこのころからのライバルであった。「緑化だ! 緑化だ!」「海は緑化できねーだろ!」の試合という名の喧嘩は「黄金カード」として扱われていたという。

2006、2007、2009年はヴェルディ側が「『金』という文字にトラウマを持った」「チームがJ2に降格した」「天皇杯で当たらなかった」などの理由でこの対決は行われなかった。(さらに2010年現在ヴェルディが存続の危機に瀕しているため、今後このカードがあるかすら疑問である)

Jリーグ黎明期(1993年~1998年)[編集]

前述のヴェルディ(この時ヴェルディ川崎と名を変えている)との試合は相変わらずの黄金カードとして人々に愛されていた。だがJ初年度(1993年)はそのライバルにリーグ優勝をもっていかれてしまう。さらにはこの二年のステージ優勝も森の魔物たちに奪われてしまった。

だがこちらもそれで黙っているわけでもない。1995年には監督席に設置したエターナルフォースブリザードマシーン・ハヤノの効果によって対戦相手を凍えさせ、1stステージ及びリーグ優勝に成功する。(ただし2nd優勝は奪われた)しかしこのまま覇権はマリノスの手の中にあるわけではなく、他のクラブへと逃げて行った。

そして1998年、すぐ近くで異変が起きていた。同じ町をホームタウンとする横浜フリューゲルスの存続問題である。いろいろと抵抗が起こったが結局、フリューゲルスはスポンサーの経営不振が理由となり、存続不能・解散が決められてしまった。そして同郷のよしみでこのクラブはフリューゲルスを吸収合併、Fをつけた今現在の名前となった。そう、「F」とはフリューゲルスのFである。

しかし合併した現在でもここはしばしば「横浜マリノス」と呼ばれる。「F」の一文字を忘れているのだ。これは「Fがつこうがつくまいが、マリノスはマリノスだ」というある意味感涙ものの思想からくるものである。確かに「横浜Fマリノス」の基は「横浜マリノス」、そして「日産自動車FC」であり、「横浜フリューゲルス」から来るものは少ない。(数少ない例は全日空がスポンサーであることであろう)

だが、少し待って考えてほしい。なぜマリノスは名前に「F」の字を加えたのであろうか。それは「プロサッカークラブ・横浜フリューゲルスの消滅」というプロサッカーにおいてあってはならないことが、Jリーグで起きてしまったことを記憶するためではなかろうか。名前にフリューゲルスの形見である「F」の字を掲げることで「かつて横浜フリューゲルスというサッカークラブがあった」ことを忘れないこと、そしてサッカークラブが経営難で消滅してしまうことを戒めようとしているのではないか。今後どこかのクラブが消滅しそうになったら「あの悲劇」を思い出すように警告しているのだ。

つまり「F」、このたった一つの文字には「翼」にかけた様々な思いが込められているのだ。この通り名前の「F」は無視してはいけない。そして「横浜F・マリノス」は二つの名の重みを背に受け、サッカーの舞台に立っている。

おっと話がずれた。先に進めよう。

Fがついた後(1999年~2004年)[編集]

翼の加護によるものなのか、2000年は1stステージ優勝。したのはいいが、またも森の魔物に年間王者の冠は奪われてしまう。だが翌年の2001年には一気に降格危機に。このせいで社長がぶち切れて存続危機にまで陥ってしまう。

まったく、「弱いから解散」などという言葉はかつて経営難で解散してしまったクラブ関係者の口から出る言葉ではないだろう。確かに成績が悪ければサポーターの購買力も下がり、ひいてはクラブの収入の低下にもつながる。そしてマリノスは一度リーグ優勝してしまっている。このような「王者」にとっては下位に甘んじるなど屈辱であろう。だからといって「弱いから解散」という言葉は口に出していいものではない。第一、そもそもJ2のクラブたちはどうなる? 彼らがすべてJリーグに必要ないものであると思っているのだろうか?

おおっと、熱くなりすぎたようだ。

それはとにかく、これにビビった2002年、各クラブの主力選手を分捕り補強することでめでたく年間2位となる。成績も上位となりプラス社長の気まぐれにより存続は決まった。さらに岡ちゃんの力により2003年、2004年の連覇を達成する。しかも3ステージ連続優勝のおまけつきである。

黄金期は始まったばかりかと思った。が、しかし――。

そして安息<中位>の地へ(2005年~2009年)[編集]

2005年はうってかわって優勝・残留争いを避け中位へといつくようになる。そのまま2006年も中位に在住することになった。

2007年、とうとうあのクラブがJ1にやってきた。「横浜フリューゲルスの真の後継者」を自称する横浜FCである。公式戦の対戦成績は1勝1敗(合計スコは8対(2+生卵数個))ただ彼らはあっさりと一年で降格したため、「どちらが後継者にふさわしいか」という問題を十二分に(試合で)討議することができなかった。そのため「フリエ問題」はJリーグきっての未解決の問題の一つである。決してマリノス側が「自分たちが偽物(横浜FC)に一回負けた」のを認めたくないから問題解決に至らなかったのではない(余談ではあるが、横浜FCはJ2にて自分のマスコットにあからさまに「フリューゲルスが元ネタ」の名前をつけるなど好き勝手やっているという)。

また監督という肩書の全自動冷房機から繰り出される冷気に苦戦しながらも結果は7位。ただあまりに寒すぎたため、手たちの健康を害する可能性を考慮に入れて監督を解任せざるをえなかった。

2008年は苦戦したが、終わってみれば成績はやはり中位であった。ただし夏場に降格すれすれのところまでいったことも事実である。去年の夏があまりに涼しかったからその温度差で体を壊したか?

ただこの年に、思わしくない状況がこのクラブ、そしてJリーグを襲った。不況である。実は横浜という都市は、意外にもこの町を本拠地とする企業が少ないらしい。そのためこのクラブは親会社の日産が頼りであったのだが、もちろん日産自身も不況のダメージは大きい。その証拠に都市対抗野球に毎年出場していた野球部も解散した。 そのため日産はこのクラブに独り立ちをさせようと「小遣い」を減らした。だが、もちろん当時の戦力を満たすことができるほどの資金はクラブで出すことができなかった。そこで戦力をそぎ落とし次年のリーグ戦へと進むこととなった。

もっとも2009年の順位としてはやはり中位だったので、まだJ1の戦いを乗り切れるだけの力は残っていると証明された。でも木村浩吉クビ長期契約しててもクビ。

さらば、「ミスターマリノス」~出会いと別れ~(2010年~)[編集]

2010年、日産FC時代のレジェンドであり、「ミスターマリノス」の呼び声高い木村和司が監督に就任する。チームのコンセプトに「ちゃぶる」という謎の呪文を挙げ、サポーターはもとより選手や首脳陣までをも混乱に陥れた。その結果、瓦斯を相手に迎えた開幕戦を見事に落とす。しかし、チームには一筋の希望の光が差していた。それは――


中村俊輔、帰還。


そう、イタリアではレッジーナをクラブ創設以来最高位へと導き、スコットランドの強豪セルティックに所属して欧州の強豪マンチェスター・ユナイテッド相手に華麗なFKを決め、エスパニョールから泣き寝入りして満を持して横浜の地に帰ってきたのである。俊さんの加入によってチームは徐々に調子を取り戻し、また俊さん自身も、個人的にはちょっと残念な結果に終わったあの2010年大会以降、何かが吹っ切れたかのようにキレたパフォーマンスを見せるようになる。あと、ユースから小野裕二っていうのも上がってきた。っていうかこの小野、なかなかできるんだよね。

一時はACL出場も射程圏内だったが、前年の新人王である渡邉千真をあんまり使わなかったり、あれほど2列目の選手だっつったのに山瀬功治をFW起用したり、CBいないからって波戸さんにお願いしたり、さらには超絶テクニシャンの狩野健太を干すという暴挙にまで達した結果、天皇杯を早々に敗退した上にシーズンを8位でフィニッシュ。いやまぁ、例年よりかはちょっとだけ良かったけども。

でもこのシーズン、サポーターはもっとやりきれないことがあった。山瀬功治、河合竜二ジローサンキュー坂田、そして和司と同じくミスターマリノスの呼び声高かったマツの戦力外通告である。俊さんが帰ってきて、お金の面でいろいろ大変だったのはわかってたんだけど、マツに関してはみんな納得がいっていなかった。というか、マツを経由してマリサポになったという人も少なくはなく、最終戦はなーおーきー♪っていうチャントがずーっと続いた。一方で和司との確執が噂されていて、和司の挨拶したときにはそれはもうものすごいブーイングが飛んだ。そしてマツがサポーターに別れの挨拶をした際、あの名言を残す。


「俺マジサッカー好きなんスよ!もっとサッカーやりたいっス!」


みんな泣いた。そしてこれがフラグになるだなんて、この時は誰も思いもしなかった

失意の中に2010年を終え、マツは無事に松本山雅FCに移籍。また河合は札幌、ジローは盟主に、サカティはギリシャのなんとかっていうチームに移籍した。みんな再就職先が決まってよかったね、なんて和やかムードの中、

「山瀬功治選手 フロンターレ川崎移籍のお知らせ」 「田中裕介選手 フロンターレ川崎移籍のお知らせ」

特に2つ目が意味不明だった。ポジションも理由も似ていたことから小宮山のにがーい思い出がフラッシュバックし、それ以来神奈川ダービーは白熱するように。これも経営戦略のうちだったら、文字通り嘉悦社長は鬼才だろう。

その代わりに神奈川からは谷口博之を獲得。他にも木白から小林祐三を獲得し、山形からキム・クナンをレンタルバック。そしてあの大黒将志が加入。そんな2011年シーズンは、HKT(ハイパー・クナン・タイム)「そこにタニ」、そして俊さん→オグリのホットラインが見事にマッチし、前半戦を首位で折り返す。マリサポ大歓喜。そんな中――


8月4日。マツ、逝く。


みんな泣いた。それからというものチームは勢いを完全になくし、ACLの出場可能性圏内である4位すらけさいに明け渡し、5位でシーズンを終える。ちなみに天皇杯では3位までのチームが軒並み敗れ、宮城県民にはちょっと失礼だが、けさいは結局けさ位だったことはポジっていいかもしれない。

天皇杯。そう、天皇杯はまだ残っていた。うどんに勝ち、栃木に勝ち、そしてドラマチックにも対戦することになった松本山雅にも勝ち、にまで勝った。誰もが元日決勝を信じていた。迎えた京都戦、先制→追いつかれる→勝ちこされる→後半ロスタイムにツインシュートで同点という劇的な展開を見せる。誰もが信じていた。しかし延長後半、まさかの2失点。そして――


木村和司、電撃解任。


わずか2年の間に、2人のミスターマリノスが去ったのであった。

再び新たな出会いと別れ、シティ参入してからの今日[編集]

2012年、木村前監督の後継として、前年度コーチだった樋口靖洋が監督となり、新体制がスタートする。だが、開幕から5試合以上未勝利で序盤にして降格危機を迎えた。そんな中、岡ちゃん時代を支えた有能外国人、動く虎が復帰した。この年は、自身と同じく開幕早々低迷し、そのまま降格した脚や史上初の年間2桁順位に終わった鹿とは対照的に終わって見れば4位と躍進した。さらに翌年、開幕から6連勝と久々のリーグ優勝へ順調なスタートを切る。一時的に他チームに首位を譲るが、安定して首位の座に居続けた。最終節を前に首位に立っていたが、その最終節で海豚に敗れ、2位の熊が3位の鹿に勝った為、熊の2連覇を許してしまった。この時、フィールドで踞った中村俊輔の姿はそのシーズンを象徴するシーンとなった。それでも俊輔は最年長MVPを獲得し、チームは天皇杯で優勝した。なおF・マリノス体制での天皇杯優勝は初めてである。翌14年は7位に終わり、樋口監督が辞任。夏には虎さんが引退し、マンチェスターシティが属するCFG(シティフットボールグループ)の参入が決定した。2015年は、フランス人監督のエリク·モンバエルツ氏が就任した。2ステージ制に戻ったこのシーズンも7位、翌年は10位に終わる。そして16年シーズン。シティ参入の影響が意外な形で表れた。まずキーパーのテツが赤へ、ディフェンスの要の小林が鳥栖へ、中盤の兵藤が札幌へ、そしてミスターマリノスの中村俊輔がジュビロ磐田へ移籍したのだ。主力流出の危機となったが、シティ主導の有能フロントは助っ人外国人として、ウーゴ·ヴィエイラ、ダビド·バブンスキー、ミロシュ·デゲネクを獲得した。さらに、次のミスターマリノスの声が高い練習生こと齋藤学が、海外移籍から一転、残留した上、キャプテンと背番号10を担うことになった。また俊輔離脱で懸念されたセットプレー担当は、アマジュンこと天野純が補完し、攻守を支えるボランチは喜田拓也と、オリ10仲間だったがついに降格した名鯱にいた扇原貴宏改めマリノスケが軸となった。これにより、一時期は来シーズンの降格候補とマスコミに煽られたが、むしろ戦力的には底上げされた形となり、彼らに赤っ恥を掻かせる羽目となった。そして、実際にシーズンを5位で終え、現監督下では最高順位だったが、監督は辞任の模様。しかし、まだ天皇杯が残っており、監督の最後の花道を創れるように、トリコロールの戦士たちは今日も奮闘中である。

エピソード[編集]

ああ天皇杯[編集]

全日本サッカークラブさらし上げ大会」こと天皇杯において、このチームはしばしば「ジャイアントキリング」の対象として血祭りにあげられていた。日産自動車サッカー部時代はリーグ戦よりも天皇杯のほうで多くタイトルを獲得していた過去から、毎年初秋くらいになると「長いプレシーズンマッチはもうすぐ終わる。これから始まる天皇杯が本番」「今年はJ1残留と天皇杯の2冠が目標」と言い出す古参サポーターが多く存在するが、現実はかくも厳しいのである。

愛知FC事件[編集]

2006年度から愛媛FCがJリーグに参戦することとなった。この当時、このクラブの公式ホームページには全Jリーグクラブの公式ホームページへ繋がるリンクページがあった。このため愛媛FCもそのページに名を連ねることとなった……はずであった。

しかしそこにあった名は「愛知FC」の名。そして愛知FC公式ホームページへのリンクであった。もちろん愛媛の名はどこにもなかった。このことから「横浜F・マリノスは愛知県は四国にあると思っている」というジョークが生まれた。

余談であるが、2chで行われていた「サッカークラブ擬人化」の会場では「怒った愛媛FCが横浜F・マリノスを襲撃する」という作品が立て続けに発表されることとなったという。

「九州の徳島ヴォルティス」事件[編集]

またある年、このクラブは九州にてキャンプを行った。このキャンプ中に同じくキャンプを行っていた徳島ヴォルティスと練習試合を行うこととなった。……のだが、この模様が公式ホームページに発表された折に書かれた文章には「地元九州の徳島ヴォルティス」という言葉があった。

このことから「横浜F・マリノスは徳島県を九州にあると思っている」というジョークが生まれ、「横浜F・マリノスは方向音痴である」という噂が生まれた。

九位ファン[編集]

次に挙げる年度の最終順位を見て頂こう。

  • 2005年 9位
  • 2006年 9位
  • 2007年 7位
  • 2008年 9位
  • 2010年 8位

このようにやけに九位あたりに収まりたがるため「九位力」とあだ名されることとなった。

それにしてもリーグ優勝を3度も経験したクラブがなぜ中位にいたがるのか。それについてはある仮説がある。それは中位を「優勝のプレッシャーにも降格の恐怖にも怯えることのないJ1の楽園」とみなしていたためということである。

たしかに2001年、降格の危機そして存続の危機を経験した。しかしそこから這い上がった3ステージ連続優勝もある。

ここで考えられることは「プレッシャーに疲れてしまった」ということではなかろうか。降格のプレッシャーと優勝のプレッシャーは負けることを許さない。そして負けた時には厳しい罵倒の声が響く。これから逃れるために「中位」の悟りを開き、中位に長らく滞在することとなったのであろう。そして「中位」の真実に気づいたことから中位力を身につけ、新たなる一歩を踏み出したのである。

攻撃の要はDF[編集]

代々レギュラークラスのセンターバックを日本代表に送り込むDF王国である。しかしその凄さは守りだけでなく攻撃にも力を発揮し、ここぞと言う時に試合を決定付けるゴールをしばしば挙げる。横浜F・マリノスのDF1人が全得点を挙げて3-1で勝利とか1-1で引き分けという試合も珍しくない。

ゴールチャントの呪い[編集]

マリノスの伝統として、チャント(応援歌)のフレーズに「ゴール」がある選手がことごとく師匠化するというゴールチャントの呪いがあると言われている。以下、その信憑性を検証する。

外池大亮(2000~2001年、2002年)
2000年に湘南ベルマーレから加入した電柱系FW。同年1stステージは中村俊輔とのホットラインを確立して得点を重ねて1stステージ優勝に貢献。活躍を認められて2ndステージから『外池、外池、トノゴール』という専用チャントが作られたが、その2ndステージ以降沈黙。外池は同年を最後にJ1でゴールを挙げること無く大宮・広島・山形などを転々として2007年にひっそりと引退。しかし引退後の再就職先が電通であったため、第二の人生では一躍勝ち組に踊り出ることになった。これはゴールチャントの呪いがピッチ外では別の効果が現れることを示している。
清水範久(2002~2010年)
2002年ジュビロ磐田より加入。2001年にハットトリックを記録したことでサポの期待が高かったため、2002年シーズン開始直後から『清水~ゲットゴール~、清水~オー清水~』というチャントが作られたが、同シーズンは開幕戦と最終戦で1ゴールずつ挙げただけで終了。ノーゴール世界記録も記録するというオマケ付きであった。その後も準レギュラークラスとして長年活躍したが、最後まで「年間3点まで」の制限を破ることは無かった。
久保竜彦(2003~2006年)
2002年にサンフレッチェ広島がJ2に降格したことに伴ってマリノスに加入した代表クラスのFW。移籍初年度から『久保ゴール 久保ゴール 久保ゴール たつひこー』というゴールチャントが与えられたにも関わらず2003年シーズンはリーグ戦で16点を挙げてマリノスの年間完全優勝に貢献。ゴールチャントの呪いは久保には効かなかったと思われた。しかし以降は怪我がちになり、以降のシーズンはリーグ戦で4点→1点→5点と低迷。挙句の果てに2006年ワールドカップでは、本大会直前まで代表に選出されていたにも関わらず本大会ではメンバー落ちしてしまい、失意のあまりメンバー発表後一時的に行方をくらます事態にまで発展した。その後2007年に横浜FCに移籍してリーグ開幕戦で35mロングシュートを決めて世間を驚かせたが、J1におけるゴールはこの1点が最後になってしまった。
大島秀夫(2005~2008年)
モンテディオ山形に所属していた2004年の天皇杯でマリノスから得点を挙げたことがきっかけで加入した「山形のキング」。当時のマリノスは久保竜彦安貞桓坂田大輔とFWの層が厚くサポの期待度は低かったが、その3人が怪我で出遅れていた2005年シーズン開幕直後の第2節セレッソ大阪戦でハットトリックするなど最初の12試合で6点と量産。その活躍が認められ『大島ひでゴール』という専用チャントが作られたが、その後は16試合で3得点と急ブレーキ。翌2006年も「クロスバーが恋人」と言われるほどシュートをクロスバーに当て続けてリーグ戦わずか4点に終わり、呪いに勝てないまま終わるかと思われたが、翌2007年は1試合4ゴールを記録するなどシーズン14点と大活躍して一度は呪いに打ち勝った。しかしその代償で腰を痛めてしまったため、翌2008年はシーズン7点に留まり、同年限りでマリノスを解雇されてしまった。その後も呪いの後遺症で思うような活躍は出来ていない。
狩野健太(2005年~2012年)
清水エスパルスとの争奪戦を制して静岡学園高等学校から獲得した生え抜き。マリノスが残留争いに巻き込まれた2008年の後半に木村浩吉監督に抜擢されると大活躍し、翌2009年もレギュラークラスとして君臨したことで『か~の~う、狩野健太ゲットゴール!』というチャントが作られた。しかし2010年に中村俊輔がマリノスに復帰加入したことで一気に出場機会を失い、2011年後半からはベンチ入りすらもままならない状態が続いた。その状況から脱するために2012年シーズン途中にアビスパ福岡へのレンタル移籍話が出てきて契約寸前まで行ったが、発表前に狩野の知人が「福岡に移籍する健太くんの壮行会」という宴会の様子をブログに掲載してしまったことで移籍話が消滅。その後も出場機会はほとんど得られず、同年限りで解雇。ゴールチャント付与後は一貫して長い地獄モードが続いてしまっている。
吉田孝行(1999~2000年、2006年~2007年)
2006年の再加入の時は『よ!し!だ!ゲットゴール!!』というチャントが与えられたが、主にMF起用されていたこともあり、所属していた2シーズンとも年間1点にとどまった。その後移籍したヴィッセル神戸では4年掛けてゴールチャントの呪いから脱却し、2011年はリーグ戦9点と34歳にしてキャリアハイを漸く迎えることになった。
齋藤学(2008~2010年、2012年~)
出場機会を求めて2011年に愛媛FCにレンタル移籍し、そこで「エヒメッシ」と呼ばれるほどの活躍を見せて2012年に凱旋出戻りを果たす。2012年シーズン序盤はマリノスのアタッカーとして活躍し、ロンドンオリンピック代表にも選ばれ、その功績を称える形で『ネットに、突き刺せ、学ゴール』というチャントが作られた。しかしチャントが出来てからはノーゴール街道をひた走り、動きも精彩を欠いて先発落ちする機会も発生。ホーム戦ノーゴールで2012年シーズンを終えた。以降もシュート本数は多いものの決定率が10%あるかないかという決定力不足が続き、2016年には一部のサポーターから「ネットに、突き刺せ、たまにゴール」と言われるようになっている。
渡邉千真(2009~2011年)
大卒FWとして入団し、1年目から背番号9を与えられエースFWとして高い期待がクラブから掛けられていた。千真もその期待に見事応え、同年途中から『オ~、カズマゴール~』というチャントが与えられたにも関わらずシーズン13点を記録して新人王に輝く。しかし翌2010年以降は少しずつ出場機会を失い、得点も8点→7点と下降の一途。この現状から脱するため一念発起してFC東京に移籍するが、逆に出場機会が減ってしまいベンチを温める日々が続いている。入団1年目がキャリアハイになってしまう可能性が高い。
小野裕二(2010年~2012年)
ユース卒業前の2010年シーズン後半にトップチームに登録され、同シーズンではサポから「戦術:小野」と言われるまでの活躍を披露。活躍の見返りとして2011年は背番号10と『小野裕二小野裕二~、小野裕二ゴール~、みんなが待ってる~小野裕二ゴール~』というチャントが与えられ、リーグ戦29試合に出場したが、4得点、シュート決定率が8%に終わる。翌2012年はさらにシュート決定率が落ち、ドフリーの決定機に宇宙開発を続け、自ら得たPKも枠外に外すなど順調にゴールチャントの呪いが継続している。サポーターはいつ来るか分からないゴールを待ち続けていたが、願いかなわずベルギーに旅立ってしまった。
大黒将志(2011年~2012年)
ゴール職人として2011年から加入。専用チャントの無かった2011年は裏への飛び出しを武器にして2桁得点を記録し、翌2012年は『大黒ゴール 大黒ゴール この想い届け 大黒ゴール 大黒ゴール ゴール奪い試合決めろ!』というチャントが作られたが、その2012年はGKと1対1になってもことごとくシュートを外すようになってしまい、シーズンわずか2点にとどまる。さらシーズン終盤に監督との対立が表面化し、事実上の戦力外状態となり、そのまま退団。ゴールチャントの呪いは大黒のような職人系ゴールゲッターをも飲み込んでしまったのである。

このように、ゴールチャントがある選手はほぼ確実にゴールに嫌われる「師匠」となってしまい、久保などのように一時的に呪いに打ち勝つケースもあるが、その後は更に悲惨な目に遭うという強烈な呪いに掛かってしまうことが分かる。また狩野のようにサッカー人生そのものが狂わされるケースも散見されている。

その他[編集]

  • 2chにて降格・昇格を語り次ぐ者たちの間では、このクラブは「方向音痴の鞠くん」として表されている。登場する度に視聴者もびっくりの地理知識を披露する。
  • 中位論者からは「鞠姫」と呼ばれている。これは「鞠」という語感がかわいらしかったこと、名古屋様新潟さんに次ぐ中位力を持つことに由来する。なおこれに瓦斯男を加えたものが「中位四天王」とされている。
  • それにしてもこのクラブはJリーグ開幕当時から愛知県のクラブと試合をしているはずであるのだが……。案外「名古屋県」があると思っていたのかもしれない。しかし明治5年4月2日までは名古屋県を名乗っていたので仕方ない。

関連項目[編集]

ExSport.png この項目「横浜F・マリノス」は、エキサイト不足のようじゃん。
さあ、君もこの記事に胸が高まるような文付け足してみるべ。レッツトライ!! (Portal:スタブ)