榊原康政

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「小平太は俺の趙雲のような存在だ。」
榊原康政 について、徳川家康

榊原 康政(さかきばら やすまさ、天文17年(1548年)- 慶長11年5月14日(1606年6月19日) )は、戦国時代の武将。通称は小平太。口癖は「だまらっしゃい!!」だとか。土臭く愚直な人物が多いとされる三河武士の中にあって、珍しく弁舌に長け、また健筆であったことから能筆も務めた。シニカリストで余計な一言が多かったため「減らず口の小平太」と呼ばれ、「家康に過ぎたるものが二つ在り、平八の槍と小平太の口」などという落書も読まれた。

徳川家康を支えた徳川四天王の一人に数えられる。他の四天王である酒井忠次本多忠勝(小平太の兄弟分)、井伊直政と比べると地味な印象が強く、隊旗には「無」の一字を配したことなどから無口で寡黙な人柄であると先入観を抱かれ、小説や時代劇などでも寡黙な人物として描かれる事が多いが、前述の通り史実の彼は毒舌家で腹黒、血の気も多かった。また挑発のスキルは人並み外れており、小牧・長久手の合戦では豊臣秀吉を怒らせ、晩年の臨床においては主の家康さえも挑発する生意気さを見せた。本人曰く、歳の近い本多忠勝と差別化を図るために毒舌キャラを売りにしようとした、らしい。

榊原康政の挑発伝説[編集]

姉川における榊原康政の雄姿。
  • 姉川の合戦において、朝倉方の猛将真柄直隆真柄直澄の兄弟を挑発して味方の陣の奥深くに誘い込み、本多忠勝、向坂式部兄弟らと共闘して見事討ち取る戦功を挙げるが、その挑発があまりに腹立たしいもので、近辺で戦っていた美濃三人衆が不快感を抑圧しきれずキレてしまい康政の陣に特攻、あわや康政は味方に殺されかけた。
  • 三方ヶ原の戦いで家康は武田信玄相手に大敗し浜松城に逃げ帰った。城に迫る武田に対して、酒井忠次がわざと城門を開放して相手の出方を伺う「開城の計」を用いた。しかし康政は「敵を誘うにはその程度では物足りない」と、城外の武田軍に対して罵詈雑言を浴びせた挙句、家康が信玄に対する恐怖のあまり脱糞してしまったその糞を、城外の武田軍に向かって投石器を使って投げつけるなどして挑発した。城門を空けることに同意した酒井忠次も「流石にやりすぎだろう…」と蒼白になったほど。無論、小心者の家康は激怒した武田軍が浜松城を押し潰しにかかってくるものと確信して恐怖のあまり失神してしまったが、慎重な性格の信玄はこれを罠と判断し追撃を控え、結果家康は命拾いした。
  • 本能寺の変直後の家康の伊賀越えにおいて、康政は岐路の中途襲い掛かる落武者狩りの野武士らを挑発して自分に注意を引き寄せ、安全に家康を落ち延びさせた。しかし康政本人は挑発をやりすぎて100人近い野武士に囲まれてしまい、茶屋四郎次郎が銭をばら撒いて落武者狩りの注意を誘うという機転を利かせた事で危うくこの窮地を脱した。だが康政はこの一件で茶屋四郎次郎に借りが出来てしまい、以降彼に頭が上がらなくなってしまった。
  • 小牧・長久手の合戦において、戦況が膠着状態を保っている最中、家康が秀吉の陣を眺めながら「野人の子の分際で」とぼそりと零したのを耳にした康政は、突如何かを閃いたかのように筆を取り、文を書き始めた。秀吉の織田家乗っ取りを非難する檄文である。その中で康政は、家康の零した一言をやたら誇張し、秀吉が出自の知れない卑しい身分の出であり、恩ある信長公に背き織田家を乗っ取らんとする極悪人であると痛罵した。無論秀吉は激怒し、康政の首に十万石の賞金首を掛けたが、康政はむしろ喜び、俺は10万石の価値がある檄文を書いたと忠勝や直政の前で自賛し、天下人秀吉をも手玉に取る自らの文才に陶酔していた。しかし主の家康は康政の命知らずな行動に腰を抜かして三方ヶ原の時と同様に脱糞してしまい、生きた心地がしなかった。秀吉との間に講和が成立した後、シニカリストの康政は「自分はただの右筆で、主が言った事を書き写しただけ」と秀吉の目前で言ってのけ、またもや家康を狼狽させた。
  • 長久手の戦いでは森長可池田恒興らに対して全裸でキタキタ踊りを踊って挑発し、両者を誘い込んで味方と挟撃、見事恒興、長可を討ち取っている。だが家康は康政の秀吉に対する挑発が自分を窮地に陥らせたと逆に康政を咎め、この戦功を認めなかった。
  • 1590年の小田原攻めでは、小田原城に篭る北条氏政らに対して、自らの持つ挑発芸の限りをつくして城外に誘い出そうとしたが、我慢強い北条氏は一向に挑発に乗らず、康政の挑発は空回りし、滑稽な姿を衆目に晒しただけに終わる。戦後、康政は「俺に恥を書かせた北条一門、ひいては小田原の城兵は一人残らず全員打ち首にすべきだ」と逆切れした。
  • 関ヶ原の合戦において、井伊直政や本多忠勝のように家康の軍に編入されなかったのは、同行している福島正則達豊臣恩顧の大名のご機嫌取りをしなければならないのに、毒舌家で皮肉屋の康政なんか同行させたら何が起こるか分かったものではない、そう懸念した家康の配慮によるものである。しかし、犬猿の仲である本多正信と共にボンクラ秀忠のお守りを負かされ険しい山道を歩かされた康政としてはたまったものではなく、戦後になっても愚痴を零していた。
  • ちなみにその関ヶ原の合戦で秀忠に従軍し家康とは別行動で中山道を通って関ヶ原へと向かっていた康政であったが、途中秀忠が道端に生えていた毒キノコを食べたため腹を下して1週間寝込んでしまい、関ヶ原本戦に遅参してしまった。怒り心頭の家康が秀忠を叱責する中、康政は「途上、上田城真田昌幸真田幸村親子に足止めされたため間に合わなかった」と秀忠の罪が少しでも軽くなるようにありもしない真田との合戦を捏造した。家康は康政の言葉を信じ、この康政の機転のおかげで秀忠は救われた。ついでにこの康政の嘘のせいで真田親子は領地を召し上げられ蟄居処分を下される羽目になった。

その他逸話[編集]

  • 彼の挑発芸のレパートリーはアッカンベーやお尻ペンペンなどの簡素なものから身体を張った名人芸まで多岐に渡り、「人を怒らせる方法」という題名でDVD化されている。その挑発芸は敵のみならず傍観している味方さえも激怒させたというのだから只者ではない。主である家康も「頼もしい部下のはずなのに、何故か腹立たしい感情が湧き上がってくる」と述べている。
  • かつては無個性、存在感が空気と呼ばれる事が多かった。それを気にした康政は自分に注目を集めるべく毒を吐いたりやたらと挑発などの過激なパフォーマンスをするようになった。
  • 晩年、病床の康政は家康に対して「もう死期が近い、私は肝が腐って死ぬ」と言った。康政は同じ武人肌の本多忠勝同様、家康の側近であった能吏本多正信と仲が悪かったという話は有名であり、「肝が腐る」というこの表現は「肝の腐ったような奴=正信」への当て擦りであった。これを聞いた家康は「小平太の減らず口も衰えたものよ」と呟いたという。しかし、齢を重ね頭の切れが衰え、皮肉のセンスが低下していることは康政自身一番承知していることだった。「肝が腐る」という彼の言葉は、正信への皮肉と見せかけて、実は「感(肝)が衰え、自慢の減らず口も冴えなくなってしまった」という自虐も含有していたのである。家康はそれに気付かなかったようだが、傍で聞いていた正信だけは康政の裏に隠されたもう一つのメッセージを読み取った。しかしあえて口に出す事はしなかった。