森長可

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「鬼武蔵なら何をやっても仕方ない」
森長可の関所潰し について、織田信長
「鬼武蔵なら何をやっても仕方ない」
森長可の京馬揃えにおける狼藉 について、織田信長
在りし日の鬼武蔵こと森長可。

森 長可(もり ながよし 1558年 - 1584年)とは、16世紀に活躍した気違い戦国武将。通称鬼武蔵

生涯[編集]

幼少期編[編集]

美濃国出身。織田信長の家臣である父・森可成の次男としてこの世に生を受ける。幼名は勝蔵。美濃と近江のゴロツキや流れ者を寄せ集めて結成された森軍団に囲まれてスクスクと育った勝蔵は、ジャイアンもびっくりの傍若無人な若者に育つ。だが、比較的家を留守にする事が多かった可成はそんな事も知らずに戦に明け暮れていた。

しかし、13歳の時に可成と兄の森可隆が二人ともバタバタと死んだ為に家督を相続する羽目となる。ぶっちゃけ美濃の森家ではまさか勝蔵が家督を相続する事になるとは思っておらず、油断していた為に色々と教育不足のまま戦国社会の荒波へと放り込まれる事となる。

戦国デビュー編[編集]

早く戦に出て人をSATSUGAIしたくてウズウズしていた勝蔵は、毎年のお年玉をコツコツと溜めて買った凄まじい突き味の十文字槍「人間無骨」を携えて、1573年の長島一向一揆討伐で初陣に出る。そこで勝蔵は織田信忠の「向こう岸の一揆マジ邪魔くせぇ…」という独り言を耳ざとく聞き付けると、そこら辺にあった舟を盗んで漕ぎ出し単身で怒鳴り散らしながら目に付いた一揆衆らへ無差別に襲い掛かり、その場で27人をSATSUGAIするという衝撃のデビューを飾る。 また、このデビュー戦によって勝蔵を小僧と舐めきって飴玉をあげるなどしていた可成時代の老臣たちも、その実力を認めてちゃんと様付けで呼んでくれるようになったという。

信忠軍団編[編集]

その後に「長可」と名を改め信忠の傍に常に付けられると、自分が一応は一軍を預かる身であるという事も忘れ、人をSATSUGAIする為に真っ先に単身で敵に襲い掛かり、後から家臣が慌てて付いてくるという斬新な戦術で次々と功績を挙げる。流石の信長も自重するよう薦める程の猪武者ぶりであったという(ただし信長の忠告は全て無視)。

また、味方であっても長可を邪魔する奴はSATSUGAIの対象である。関所では「信長様の命令でここは通せません」だのウダウダ言ってる門番を「人間無骨」で突き殺し門に放火しして無理やり押し通ったり、橋を渡るときにも「信長様の(ry」とゴチャゴチャとやかましい番人を「人間無骨」で突き殺し川に投げ捨てて勝手に渡るなど、やりたい放題にも程がある有様であった。

しかし注意すべき立場であるはずの信長はといえば、長可の弟である森蘭丸の尻の魅力でメロメロであり、「長可のする事だししゃーない」などとやる気の無いセリフばかりで、一度もまともに処分を下す事が無かった。当然他の家臣とも揉めるのだが、腕っ節もそれなりに強いし、何より瞬間湯沸かし器並にすぐに沸騰するので面倒な存在であり、あえて喧嘩を売ろうという人間も居なかった。

武田攻め編[編集]

「かがみん」と呼んではいけない。鬼兵庫である。

武田家をひねり潰すべく兵を出す事にした信長から、1582年の3月に武田攻めの先鋒に任命される。 信長としては「ま、もしダメでも控えはいっぱい居るし、武田攻めは若手起用で行くよww」ぐらいの心構えでの任命であったが、この歳になってもSATSUGAIをしたくてしたくて仕方ない長可はもの凄い勢いで武田領をレイプし始め、「ちょw罠なんじゃないの?」と信長も勘ぐるぐらいあっさりと落城させていく。

そうこうする内に遂には武田領の生命線である高遠城まで辿り着いた長可は、信長の「城攻め、ちょっと待ってね☆」という命令を完全に無視して鉄砲を撃つなど、ここでもやはりやりたい放題であったという。しかし、高遠城の守備兵もそれなりに頑張っており、信忠の本隊やらが色々合流して人数が揃うまで城は持ちこたえていた。そして遂にやってきた運命の高遠城総攻撃の日。他の部隊が張り切って城攻めする中で、長可の部隊は…サボっていた。

そんな時、森家の家老である各務元正は、こっそりと高遠城三の丸の様子を偵察に行った際、九尺(2m70cm)もあるとてつもなく長い指物を背中に指しており、それが木に引っかかってすっ転び三の丸内部に転落してしまう。これで死んだかと思われた元正であったが、ヤケクソになって周りの高遠城兵を無差別に無双するリーサルウェポンと化し数多の敵兵をSATSUGAIした。こうして混乱し始めた三の丸に信忠は総攻撃を掛ける。

そんな折、長可は急に三の丸屋敷の屋上に上がって屋根瓦を投げ捨てて屋根を叩き壊し、その隙間に銃を差し込むと、「いいこと思いついた、お前ら城内に射撃しろ。」と阿部さんばりに豊かな発想力で中にウジャウジャといる城兵やその家族である老若男女に狙いを定めた。

「おい、シューティングゲームの始まりだ。士は5点。小姓は3点。女は1点。老人はハズレな」

そう言うとニヤニヤ薄ら笑いを浮かべながら反撃不能の城内へと銃を乱射しはじめた。森家の武将達も基本的にゴロツキなので、「さっすが武蔵さん、最高のショーだぜ、ヒャッハー!!!」とか言いながら長可を真似て銃を差し込み、城内の人間を的に見立てた大射的大会を開催する。これで三の丸内部は見るも無残な血の海地獄となったが、森家の人間はどうとも思わず当主含めて自分たちの得点を計算しているだけであった。

さらに、よく考えたら高所でとてもいい位置取りだったので、三の丸の屋根の上からシューティング第2ステージを始め、必死に白兵戦で頑張る信忠軍の他の人間を尻目に手柄を横取りしまくり大層恨まれたが、森家の人間は相変わらず点数の集計に忙しく全く取り合わなかった。

そんなこんなで暴れ回る内にいつの間にか武田家はMETSUBOUしており、若手を起用したら後詰めを出さずにそのまま片付けてしまって、信長は大層ご満悦であった。

信長「よーし信長、頑張った鬼武蔵に北信濃全部あげちゃう!あ、お蘭には武蔵が居た金山城そのままあげるからね。」

越後乱入編[編集]

命令違反を叱る事もすっかり忘れて褒めっぱなしの信長により、ついに5万石から20万石の大名格へと成長した長可。信長の家臣において20代の武将では最大の所領を得るまでとなった。蘭丸は長可の旧領5万石を得た直後に謎の1万石を加増され、森家の所領は合わせて26万石となり、丹羽長秀池田恒興といった織田家重臣より給料が高くなるなど、まさに絶好調であった。

このように信濃に所領を得た長可であったが、そこで待っていたのは国人一揆の嵐であった。 しかしながらSATSUGAI大好きな長可はかえってテンションが上がり、8000人の一揆勢に3000人で突撃して壊走させる。更に、逃げ惑う一揆勢を馬で追い回して、8000人の内2400人をNADEGIRIにするなど豪快な挨拶をし、武田旧臣や上杉景勝からの刺客を恐怖で黙らせ無理やり統治を開始する。さらに領内の国人を恫喝して人質をかき集め海津城に集合させるなど、この頃になるとそれなりに悪知恵も働くようになっていた。

とりあえず信濃の国人が大人しくなったので、越後に突入して上杉景勝に佐々成政との連携嫌がらせプレイを食らわせると、ついでに越後の町でも略奪した後に放火して更地にして周るなど、相変わらずやりたい放題であった。しかし、ここで転機が訪れる。本能寺の変である。

信濃撤退編[編集]

本能寺で信長(とついでに弟の蘭丸)が死んだという知らせを聞いた長可は、信濃に引っ込む。信長が死んだと聞いてテンションの上がった反・織田の国衆が各地で暴れ始めたからである。日頃の恨みを晴らさんとする信濃国人に対し、長可は海津城から数千人の人質を出し、それを盾にしながら撤退を始めた。

長可「もう少し南まで行ったら人質開放するから、うん。だからさ、待ってて」

信濃国衆「さぁ、もう南まで来たぞ。さっさと開放しろ」

長可「ああ、約束通り返してやんよ。首だけな!ヒャッハー!」

と、当たり前のように人質を一人残らずSHIMATSUし、素早く北信濃から離脱した。

だが、木曽福島城の木曽義昌も味方のふりをしつつ長可の命を密かに狙っていた。そこで長可は「○日にあなたのお城へ行きます」という手紙を送って、あえて迂回したりせずに一日早く堂々と義昌の城へと行くという手段を取る。

門は固く閉ざされていたが、気にせず攻城用の装備でブチ壊して真夜中の城内にズカズカと上がりこみ、「今夜は涼しいからつい早く来ちゃった☆」などと言って勝手にくつろぎ始めた。さらに、どさくさに紛れて家臣に義昌の息子を連れて越させ、「おお、なんと聡明そうなお子!いきなりだけどこの子は俺の養子にしちゃうっ♪」などと無茶苦茶な事を言いながら厳重に縄で縛って人質にしてしまう。

その後は人質を盾にしながら進軍し、義昌が「息子が!息子が死んじゃうから手を出さないで!」と泣き付くので誰も手出しが出来ずにいるうちに、ついに美濃まで辿りつくと、とたんに態度を豹変させ「あ、やっぱ養子とか要らねぇや。さっさと歩いて帰れや糞ガキ」と人質を大井宿に捨てて、さっさとかつての自領である金山へと帰っていった。

しかしこの道中、一人だけ離反せずに道案内までやってくれた出浦盛清さんには鬼武蔵もやっぱり嬉しかったようで「これ、俺だと思って大事にしてくれよな」と別れ際に脇差をプレゼントしたらしい。

東美濃動乱編[編集]

どうにか美濃まで帰ってきたものの、美濃も相当マズい状況であり、気づけば周りの旧・家臣たちがみな敵になっていた。「よし、潰す!」と長可は決意し、近くの城から順番に攻め始め、一ヶ月で6つぐらい城を落とす。弟(蘭丸)の葬式の日も、弔問客に挨拶しながら城を攻め続けた。

しばらくして秀吉がねんがんの三法師をてにいれたことを知ると、いとも簡単に信孝を見捨ててしまう。その後は秀吉派閥に付き、信孝に従う元同僚の城を襲い始め、遠藤慶隆らを降伏させている。このあたりからはちょっと弁護できない。

結果、わずか1年足らずで10以上の城を攻め落とし、周りに逆らう人間は誰も居なくなっていた。あまりに城が多すぎて、管理が面倒くさくなって、一部をぶっ壊すというおまけつき。

小牧・長久手編[編集]

秀吉が家康を攻める際に「遠江と駿河をやるから俺に味方しろ」と言われたが、長可は厚かましくも「甲斐もよこせよ」と駄々をこねる。当たり前だが軽く流され、遠江駿河の2ヶ国を貰う条件で渋々秀吉に味方する。さらに姉婿の関長安と遠藤慶隆を引き連れて尾張に出撃すると、現地の神社の蛇神を殺して生で食うなどの奇行をし、早速周りの人間の度肝を抜く。 この辺りから、正統的な歴史学者ですら「長可はうつ病か何かで既に正気を失っていたのではないか」と頭を抱えるに至る奇行が続出するのである。その奇行の最たるものが、下記に記すあまりにも異常な遺言状である。なお、この古文書「狂気の遺言状」は、日本歴史学会が発行した『演習古文書選』にも掲載されている、「日本の歴史の基本となる古文書」で、例の「武功夜話」などよりも遥かに素性の正しい、有名文書として学界では高く評価されている。以下、現代語訳を付す。


一・オレが死んだら、まあそれまでだ!オフクロと弟のセンは秀吉様の方で養っといて下さい。
(もし討ち死に候はば、此分に候。母に候人は、堪忍分秀吉様へ御もらい、京に御入り候へく候。
せんは今の如く御側に奉公の事。)
一・オレ内政とかマジで嫌なんで。誰か別の人にやらせて。
(我々の跡目くれぐれ嫌にて候。この城(兼山城)は要にて候間、確かなる者を秀吉様より置かせられ候へと
御申之事。)
一・ツイーツ(笑)どもは全員大垣へ逝ってよし!!
(女共は急ぎ大垣へ御越候へく候。)
天正十二 三月廿六日あさ     むさし
尾藤甚右衛門(知宣)さま 申給へ
まあオレ負けないと思うけど、負けたらお前ら全員放火して死んで。マジで死んで。
(十万に一つ百万に一つ総負けになり候はば、皆々火をかけ候て御死に候へく候。)
娘のおひさにもいっといた。以上。


当時の武士は領地を命に換えても守ろうとしたことは「一所懸命」という言葉の由来でもあるからアタリマエのことだが、長可は「内政嫌いだから」という前代未聞の理由でこれを拒絶した上、一族に全員自害を要求したわけで、これは正気ではなく、完全にSATSUGAI以外のことを考えていなかった証左といえる。

その後、家康が小牧山に現れたという報を聞くと、いつも通りSATSUGAIしたくて堪らなくなったので、いつも通り勝手に出撃するが、尾張の人たちに動きをチクられもの凄い勢いでフルボッコにされてしまう。 地味に人生で初めての負け戦だった為に、流石にショックを隠しきれず、挨拶しなかっただけで蒲生氏郷に喧嘩を売るなんて八つ当たりをするなどいつも以上にDQN丸出しの行動を取るようになる。

後日、三河中入り作戦で家康の岡崎城を目指している時に家康部隊に追いつかれ戦闘になる。今まで職務を誠実に全うしただけなのに殺された門番達、虐殺された非戦闘員や人質達の無念の怨霊によって愛馬・百段をぬかるみに沈められてしまい、動けなくなった所をひこにゃんの鉄砲隊にシューティングゲームの的にされて、長可は射殺された。 直後脱出した百段・レクイエムのスタンド攻撃により首は守られた。

戦国でも稀に見るDQNの死に、討ち死にの一報を受けた家康側はもちろん、秀吉側も全身全霊でガッツポーズを取ったのち赤飯を炊いて大宴会を催したと言う。いくら乱世とはいえ、味方から死を喜ばれた武将は他に例がない。これこそ鬼武蔵にふさわしい手向けである。

注:アンサイクロペディアは、嘘と出鱈目にまみれています。
ここに書かれた内容も嘘や出鱈目である可能性が高いです。
…と、言いたい所ですが、アンサイクロペディアにあるまじき事態なのだが……以上の森長可の生涯は全て事実なのである。

その後の森家・編[編集]

その後、森家は二代目鬼武蔵こと弟の森忠政が継いだが、こやつもガキの頃から手癖が悪く、信長の小姓時代にちょっかいを出してきた同僚を、信長の面前で鉄扇でいきなりボコって3日で国へ返されたという大変な男である。無論、兄と同様の立派なDQNに成長した。信濃川中島藩に転封された直後、兄貴の敵を探しだして一族郎党全部SATSUGAIという事を見てもDQNぶりは明らかであろう。(それにしても、信長に何故斬られないのだろう…)

 領地の信濃川中島藩では、「右近検地」と呼ばれる信濃4郡全てを対象とした総検地を実施。領内の領民に多大な増税を課す事になった。領民はたまらず検地のやり直しを求める嘆願などを出したが、あまりにも相手が悪すぎた。忠政は当たり前のように無視。圧政に耐えかねた領民はついに一揆を起こし、これは4郡に波及する大規模な全領一揆となった。 これに対して忠政は大喜び。

「ヒャッハー!!NADEGIRIバンザイ!」 一揆を徹底的に殲滅。捕縛された一揆衆も鳥打峠で数百人単位で磔に架けられ処刑され死者は600人余り。川中島はすっかり荒野と化した。なお、未だに犠牲者は善光寺に供養碑が立ち供養が続けられている。

事態を重く見た幕府は、捨て童子こと松平忠輝に領地を与え、忠政一派は厄介払いのため備中津山に転封した。驚いたのは備中津山藩の領民である。 「うわ、最悪じゃねえか!!なんでSATSUGAIされなきゃいけないんだよ!」と、 転封当日に領内に森一派転封大反対の一揆が起こり、土豪の難波宗守らは一斉に蜂起した。

 ところが、悪知恵の働く忠政は、一揆の一味・菅(有元)佐政を寝返らせることに成功。その後反対派をことごとくSATSUGAIして津山を支配した。ちなみに、菅佐政はあの菅直人の先祖に当たるらしい。

 なお、津山に入ってからはSATSUGAIに飽きたのか、なぜか忠政は善政を施している。かつての領国美濃国から人員を呼びこんでの「美濃職人町」や京や大坂・尾張から人員を招致しての「新職人町」の形成、久世牛馬市の創設などを始めとする経済の振興や、吉井川の堤防工事の実施とそれに伴っての河原町・船頭町の設置、美作の道路網の整備とそれに沿った宿場の新設、農業用水路の確保などの公共事業など多種多様な政策を計画・実行に移したとウィキペディアに書いてあるが、ホンマかいな。幕府はこの善政を知ると、なんと出雲・石見・隠岐の3ヶ国への加増転封の話を森忠政に持ちかける。  「ヒャッハー!!!これで山陰地方でまたSATSUGAIできるぜ!」 とぬか喜びしていた森忠政であったが、その直後に急死。死因は信濃や美作で殺された人々の怨念によるものとされている。  藩はひ孫の森衆利(あつとし)の時、取り潰しとなり滅亡した。原因は衆利が桑名で参勤交代中に発狂したためだとされている。

 ところが森一派は、なんと分家が山ほどあり、旗本や小藩、他藩の武士として生き残った連中も結構いたのだった。ヒャッハーの血が騒いだのか、子孫の一人横川勘平宗利などは赤穂浪士に加わり吉良家の罪のない人々をSATSUGAIしている始末である。そのうちの一人、赤穂藩主の森忠敬(ただたか)は、森長可に心酔しているアブナイ武士であり、なんと「森長可君事跡」を含む『森家先代実録』なる書物を残した。長可のDQN行為や犠牲者の数がよくわかっているのはそのせいである。森家は幕末まで血の気が多い連中ばかりだったらしく、分家・三日月藩ではなんと代々、あの暗殺剣「裏柳生」を藩士全員で練習していたという。この三日月藩は「SATSUGAIの為なら手段は選ばねえ!!」というロックな藩風で、他の藩に先駆けて小藩にもかかわらず西洋銃を大量に買いつけ、戊辰戦争時には十四代目鬼武蔵・森俊滋(とししげ)が「他の藩は藩主が戦わねえけどよぉ、オレっちが戦わないのは鬼武蔵の血を引くものとしてヤベえし」という理由で、進んで新政府軍に入り、越後長岡城、出羽庄内まで遠征してヒャッハーしまくっていた。もう一つの森家、赤穂藩では廃藩置県直前までお家騒動が続き、家老2名がSATSUGAIされ、家老の息子が刺客集団を逆に逃亡先の高野山まで追っていってSATSUGAIするという禍々しい事件さえ引き起こしている。

 なお、藤沢周平原作の時代劇「腕におぼえあり(用心棒日月抄)」には、森忠政家臣の細谷源太夫という立派なDQN武士が登場している。森衆利発狂の後で浪人になった人物だが、雲つくように体が大きく、頭が弱くてSATSUGAI大好きという、見事なまでに張飛という凄い人である。作中でも旧森藩士が複数登場するが、「SATSUGAIに慣れているようで、刺客をサクサクと片付けてあっさり処置していた」という、さすがに藤沢周平らしく、上記の史実を踏まえた造詣がなされている。

 この他、基地外放送局として名高い日本放送協会が現在制作・放映している「酔いどれ小籐次」という時代劇では、森長可に心酔する子孫の森忠敬が、海賊とエロ漫画で有名な村上水軍にヒャッハー行為を仕掛けまくる話になっており、監督は腕におぼえありと同じ人である。ただ、さすがに森家からクレームが付いたのか、原作の森忠敬の名前などは差し替えられている。

人物[編集]

  • 上記の経歴は9割方事実で出来ている。なので本来ならばウィキペディアに書かれるべき記事である。しかしウィキペディアに事実をありのまま掲載しても、常識的に考えてありえないことばかりなので、オフィシャルに「要出典」印の嵐をお見舞いされた挙句、削除再編集で大人しい文章にされてしまう。アンサイクロペディアに事実をありのまま掲載しても、2ちゃんねるネタ扱いされる始末である。
  • 間違いなく20歳までに40人、死ぬまでに100人は自分の手でSATSUGAIしているシリアルキラーである。
  • 門番キラーとして恐れられており、長可が通行する際は職務を取って死ぬか、見てみぬふりをして職務怠慢で上司に処罰されるかの二択を迫られる事になる。
  • 野武士真っ青の乱暴狼藉の限りをつくした武将だが、部隊長としては優秀であった。※但しDQN部隊に限る。森家滅亡後に浪人になった細谷源太夫すら、「用心棒としては最強武将なので、口入れ屋が手放さない」と言われたほどである。
  • まごうことなきDQNだが、書や茶道には妙にうるさい。報告書という名のSATSUGAI記録をこまめに書き、秀吉に借金してまで茶器を購入したほど。
  • スッポンの妖怪と戦った伝説が残るがダサいのでちっとも知られていない。
  • 這坂や物狂坂や鉄砲池など聞くからに物々しい地名を後世へといくつも残した。
  • 森一族ではあったが信長に尻を捧げる係ではなかった。家を早々に継いだという事情もあるが、そもそもこんな気の利かない小姓は不要である。
  • 本能寺の変で弟の蘭丸をSATSUGAIした安田国継を手下にした。当然、周囲に反対されるが「武功は武功だから仕方ない」とまるで耳を貸さなかった。
  • 戦国DQN四天王東の鬼武蔵」とは彼の事である。四天王で一番早く死んだがインパクトなら劣らないという事での選出と相成った。
  • 馬型のスタンドを扱う(百段)銃で撃たれ死亡したあとレクイエムの発現により彼の首は守られる
  • 鋼の胃袋の持ち主であり、「寄生虫も胃酸でジェノサイドできる」という理由で生肉を平気で口の中へと放り込んでしまう癖があった。

愉快な家臣達[編集]

各務元正
新ジャンル:ドジっ子猛将。鬼兵庫。数々の死線を潜り抜けた漢であるが小牧・長久手では何故か留守番を命じられる。
林通安
享年100歳超えも噂されるスーパージジイ。長可の祖父の代から仕えていた模様。小牧・長久手では何故か留守番を命じられる。
林為忠
通安の息子。後年、弟の忠政が九州征伐をサボった時に代理で出るなど戦上手であったが小牧・長久手ではry
伴惟安
甲賀忍者の名家出身の男。情報収集から戦の指揮もやれる便利な忍者。忠政を岐阜城から盗み出す。でも小牧・長久手ry
安田国継
作兵衛。本能寺で蘭丸を討ち取った張本人だが何故か召集されいつの間にか家臣に。ついでに小牧ry。長可死後に行方をくらます。