格式

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「格式」の項目を執筆しています。

格式(きゃくしき)とは、律令制で、律令の追加法や施行細則等を定めた法律のことである。

律令格式[編集]

律令法はその名の通り律(刑法)と令(行政法)によって構成されるが、これだけでは実務上の手続きの規則や新たな先例などを網羅することは、とうてい不可能であった。そこで、律令を補うために作られた法律群が格式である。格は律令の追加法を、式は施行細則を意味し、律令と合わせて律令格式と総称される。

日本の格式[編集]

格式は本来律令のおまけであり、律令を否定するような格を作るくらいなら律令の改正を行うのが筋というものである。実際、本家律令制の国である唐では玄宗皇帝の時代まで数度にわたって律令の改訂が行われている。しかし日本では、養老律令の施行以降律令の改訂は行われず[1]、どんなに大掛かりな追加法であっても格式の型式で出されるようになった。律令制崩壊の第一歩である三世一身の法[2]などがその例である。また、時代とともに格と式の区別も曖昧になっていった。

律令の重要な規定でさえも、格式によって覆されるという格式偏重の政治が行われ、平安時代以降は一部の法律家(明法家)以外は本来の律令法典を知るものも少なくなり、法律行政はもっぱら格式を基板とするようになっていった。根幹である律令が人々から忘れられ、おまけであるはずの格式が幅を利かせるようになったのだから、本末転倒と言うほかない。

このように、平安期以降の日本は異常に格式にこだわって、律令の抜本的な改正を怠っていた。しかし、いくら格式によって法律を追加しても、律令そのものを見なおさない限り、体制の変革などありえないのである。その結果生まれたのが、藤原氏などの政治改革に否定的な世襲貴族が跋扈する、停滞した社会であった。法の支配ならぬ「格式による支配」の進行が、世襲貴族政治の展開と時期を同じくしていることは、決して偶然ではない。最終的に格式偏重政治によってもたらされたのは、律令制の変革ではなく、崩壊であった。

その後武家時代になったが、武家が御成敗式目などの革新的な法律によって社会情勢の変化に対応していったのに対し、公家たちはいつまでも公家法、つまり格式にこだわっていた。彼らが明治維新まで停滞し続け日本史にろくな業績を残せなかったのも、まったく当然な話である。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 奈良時代末期に律令の追加法として刪定律令刪定令格が作られたものの短期間で廃止されている。
  2. ^ もっとも、三世一身の法の施行(723年)は養老律令の施行(757年)以前のものである。