柿崎景家

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柿崎 景家(かきざき かげいえ)は、上杉謙信に心酔していた越後国の変態戦国武将。謙信に対して忠誠を通り越した危ない感情を抱いており[1]、しばしばストーカー行為を繰り返していた。

人物[編集]

謙信との運命的な出会い[編集]

柿崎氏は越後の土豪であり、戦国時代の当主景家は越後守護代長尾為景晴景の2代に仕えた。後に晴景は弟の景虎(上杉謙信)と内乱を起こし、景家を含む越後の国人達は晴景に付くか、景虎に付くかを迫られていた。中条藤資など剛の者揃いの越後国人の中にあっても景家はとりわけ武勇の誉れ高く、景家さえ抑えれば晴景との戦いをかなり有利に進められると思った景虎は、自ら景家の元に赴き、自分に協力するよう懇願した。景虎の姿を目にした景家はそのあまりに神々しい姿に一目ぼれしてしまい、景虎のカリスマに心服した彼は逸早く旗幟を鮮明にした。これによって景虎の勝利が決定的になったとかならないとか。以降、景家はその卓越した武勇を遺憾なく発揮し、数々の合戦で多大な武功を挙げた。謙信に対する敬意が強ければ強いほど、謙信の敵に対する殺意は増幅し、合戦では鬼のような面で全身に殺気をみなぎらせて太刀を振るう景家は、敵味方問わず恐れを抱かせ戦慄させた。

敬愛のあまりストーカー行為を繰り返す[編集]

しかし、景家には少し問題のあるところがあった。あまりに彼は謙信を敬慕するあまり、謙信に対してストーカーまがいの行為を繰り返していたのである。謙信に不貞の輩が近づかないように常に周辺を警護するのが家臣の勤めである、というのが本人の弁であったが、謙信がかわやに行く時まで一緒についてきたり、今にも襲い掛かりそうな目つきでよだれをたらしながら謙信を見つめているものだから、さすがの謙信も気が参ってしまったらしく、「あの男に分別さえあれば非の打ち所の無い武将であるというのに」と嘆いている。

景家の謙信に対する敬愛の心は年を重ねるごとに増し、川中島の合戦の直後には、謙信の寝床の前の廊下で謙信の寝顔を覗き見しながら自慰をしているところ、謙信の目が覚めたためバレテしまい叱責されるという不祥事も起こしている。この時の謙信の狼狽振りは尋常ではなく、太刀を手に取り奇声を発しながら景家を斬り殺そうとした。止めに入った直江景綱は「御館様は常日頃から気違いで、戦の時はさらにその狂人振りに拍車がかかるが、あの時の狂いっぷりはその比ではない、まるで悪鬼羅刹が乗り移ったかの如くであった」と述懐している。目が覚めたらいかつい顔面の男が涎をたらし、自慰しながらこちらを怪しい目で見ているなどという状況下に置かれたら、毘沙門天の化身と言えど取り乱してしまうのも無理は無い。

この事件以降、謙信は景家を敬遠し、その武勇ゆえ戦でこそ重用したものの、僻地に左遷するなどして遠ざけた。疎遠された景家は次第に寂寥感を募らせ、謙信の肖像画を描いて一人寂しく自慰に耽る毎日を過ごした。ちなみに自慰の為に謙信の肖像画を描いている内に画才が開花し、景家は画家としても名を高める事となったが、もっぱら彼の描くのは謙信の肖像画ばかりであった。

不遇の晩年、そして…[編集]

近年まで景家の死については、「織田信長に内通したため、謙信に粛清された」というとんでもない説がまかり通っていたが、無論これは俗説に過ぎない。真実はむしろ逆で、景家の方が突然自殺したのである。愛する謙信から敬遠され精神的に病んでしまっていた事もあるが、「謙信が樋口与六という10代半ばの美男子を侍らせている[2]」という話を耳にし、絶望したのが自殺の動機とされている。このことからも、謙信に対して敬慕を通り越して恋愛感情を抱いていたことは間違いないだろう。一種のヤンデレである。謙信を殺して自分も死のうかとも思ったらしいが、仮に謙信を殺せば上杉家は大混乱に陥り、お家の滅亡に導きかねないという理知的な判断と、景家の最後の良心が凶行を踏みとどまらせた。謙信の「分別さえあれば~」という言葉から、景家はしばしば思慮の足りない短気な男と思われがちだか、実際にはとても思慮深い男だったのである。

ちなみに景家が自殺したのは越中攻めの陣中であり、陣中で突然景家が自殺した事で上杉軍は大混乱に陥り、この越中攻めは頓挫した。謙信の死によって起こる家中の混乱は想像できても、自分の死によって陣中に混乱が生ずる事は予測できなかったらしい。

景家死後の柿崎家[編集]

景家死後、家督は息子の柿崎晴家が継承した。数年後、謙信が急死すると、養子の上杉景虎上杉景勝との間で家督争いである御館の乱が勃発する。この時、晴家は弟の憲家と共に当初は景勝側に付いたが、父の自殺の原因とも言える樋口与六こと直江兼続が今や景勝の側近として幅を利かせていることを知ると激怒し、突如景虎側へと寝返った。この内乱は最終的に景勝が制したものの、突然の晴家の裏切りによって景勝は一時期窮地に立たされた。

当然ながら、景勝は自らを裏切り窮地に追い込んだ晴家並びに柿崎家に対して強い憤怒を抱き、史料を改竄して柿崎景家という人物を徹底的に悪人として貶めた。景家が信長に内通したため謙信に粛清されたというエピソードも景勝が捏造したものである。ちなみに柿崎家自体は、晴家の弟憲家が景勝を支援したことが幸いして存続を許されたが、兄晴家の裏切りは重石となり、主君の信頼を失った柿崎家は凋落していった。当初、景勝は晴家の裏切りに激怒し、兄に追従して裏切ることなく最後まで自分に忠誠を誓った憲家をも斬首しようとしたが、直江兼続の取り成しによって事無きを得た。裏切りこそしなかったが、憲家も兄同様父の自殺の原因を作った兼続を快く思っておらず、いわば仇に命を救われる形となり屈辱を感じたことは間違いないだろう。

ちなみに景家自殺の原因となった「謙信が兼続を小姓として重用しており、両者は性的な関係にあった」と言う話は、景家が内通で粛清されたという話同様俗説に過ぎない[3]。景家の自殺も、晴家の裏切りも全ては思い込みによるものであった。

現代に伝わる景家像[編集]

景勝が捏造し、柿崎家を徹底して貶める記述をした史料は、不幸にも天と地とを執筆する際の参考資料として海音寺潮五郎に目をつけられてしまった。果たして天と地との景家は、勇猛だが粗暴で寝返り癖のある女狂いとして描かれてしまい、大衆歴史作家が景家をこのような人物に描いてしまったせいで、粗暴で薄情な蛮勇というイメージが定着してしまった。正式な史料を調査せず歴史小説や講談に典拠の多いコーエー史観にもこのイメージは受け継がれ、信長の野望では「武勇は高いが政治は低く、智謀にあっては2桁あればマシな方」という散々な扱いを受けている。[4]

注釈[編集]

  1. ^ それは一線を越してしまったモーオタジャニオタ、かつて「福山雅治は悪霊に取り付かれている」などという意味不明な妄言を口走った元オタ女の精神に酷似している。
  2. ^ 実際に謙信が侍らせていた10代半ばの美男子は、樋口与六ではない。詳細らしきものは後述。
  3. ^ そもそも、樋口与六こと兼続が小姓として仕えていたのは謙信では無く景勝であるが、後世の現実を受け入れられないファンにより、「謙信が兼続を(以下略)」という捏造が流布された。逆に当然景勝と兼続は(以下略)
  4. ^ この傾向は福島正則などにも伺える。

関連項目[編集]

Wikipedia
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