林彪

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林彪(りん・ぴょう 1907?~71)同志とは、中華人民共和国の人民を餌に、大量のエクストリーム・大虐殺を先導した末、最後に毛沢東に狩られたことで没後西側世界に「共産主義の犠牲者」というイメージを植え付けることにまで成功した血に飢えるヒョウである。

生い立ち[編集]

林彪同志は清封建王朝のあった20世紀初頭、湖北省の山林でヒョウとして生まれた。同志は付近の住民を餌に大きく成長したが、1923年に社会主義青年団の放った罠にかかって捕えられあわや銃殺されるところだったが、その獰猛さを認められて、上海黄埔軍学校に送り込まれ、周恩来校長のペットとなった。林彪という名前は、生息地にあやかって校長先生が命名したものである。林彪同志は自分を捕えた社会主義思想にヒョウの心をもって心酔し、自分も人間になれたら彼らの仲間になりたいと強く願った。

しかし、ここで小日本の田中隆吉少佐がおかしなヒョウが上海にいるとの情報を聞きつけ、上海クーデターのどさくさに紛れて林彪同志を誘拐、上司だった「神農以来の神医」石井四郎公のもとに送った。同志はしばらく小東京の上野動物園で飼育されていたが、情け深き石井公は故地に帰してやるのが得策と考え、1933年満洲に行く機会を得ると、7月31日最初の被検体として、林彪同志を対象に人間への改造実験を実行、みごと成功させて大人の人間としたのだった。

新中国の建国[編集]

林彪同志は石井公から日本語と中国語を仕込まれたが、心はヒョウの頃に体感していた社会主義思想の方を向いていた。そんな時、周恩来校長ら栄光の社会主義軍団が「泥沼の魔術師」蒋介石山の中を追い回されていることを知る。同志は彼らの苦境に胸を痛め、偉大なる関東軍の神策的謀略網をかいくぐって毛沢東の下に駆け付けた。

毛沢東は「あの関東軍から逃走するとは彼は軍略の天才に違いない」と考え、林彪同志は延安の地で中国人民抗日紅軍大学の校長に指名された。さてもその頃、小日本の軍隊は蒋介石の軍隊に宣戦布告し、南京での勇ましき解放作戦により、30万ともいわれる人民を殺害し、虐殺を好む人民から熱狂的な歓迎を受けていた。林彪同志はこの知らせを聞き、以下のように訓示した。

「あの小日本でさえ30万も殺すことができるのだ。君達は偉大なる大中華帝国の人民の軍隊だ。人民軍たる君達はもっと殺さなければならない。ヒョウから人間になった俺様ならこの程度のことはたやすい。さあ若人よ、君達も俺様の後に続くのだ!」

ここで、人民に尽くす気もないくせに社会主義思想を盲信する青白き者たちが「憎しみの連鎖を断ち切れ!」とか訳の分からぬことを言い出して、反発してきた。そこで林彪同志は落ち着いた風を吹かせて、彼らを黄河の泥の中に落とした。真の人民勢力は風に乗って青白き者を哄笑し、みんなそろって武器をとり、小日本勢力を追い出し、ついでに金持ち封建勢力の首魁蒋介石も台湾へ追い払った。毛沢東は林彪同志を称賛し、1949年の建国後国防部長の座につけた。

大躍進政策での神言[編集]

新中国の成立後は偉大なる馬列主義の考えに従い、農民の集団化が進行した。毛沢東は人民の圧倒的支持を背景にブレーンの意見を取り入れ、大躍進政策を敢行したが、党内に潜む守旧派たちが徹底的なサボタージュを呼び掛けたので、政策はどこまでも失敗した。

間もなく、生産現場を仕切った責任者が呼び出され、林彪同志立ち会いの下人民裁判が行われた。責任者はこのように述べて謝罪した。

「同志、このたびの失敗はすべて私個人の責任でございます。どうか私を殺して下さい」

ここで林彪同志は以下のような歴史的名言を発した。

「貴様、そういえば何をしても助かると思っているな。この守旧分子め!人民たちよ、今から新時代の共産主義というものを見せてやろう。これ以降、このようなことを述べて謝罪する封建主義反動は、文字通りに腹を切らねばならない。見ていろよ!」

林彪同志はヒョウのような牙をむき、責任者の足を刈り取った。人民は熱狂して前に出た。人民が去った時、責任者の身体は一かけらも残っていなかった。これこそ毛沢東同志の切り開いた偉大なる価値観だ。人民は林彪同志の発言を神言と呼び、ますます共産主義思想に熱狂し、どんな危ない道でも左折して、人民の海へと入っていった。

天才なる主席への賛辞[編集]

ところが、鄧小平劉少奇は人民のそのような姿勢に疑問を抱き、左への道を封鎖して、右への道を開放しようとした。人民の真なる感覚に応えるために、毛沢東は文化大革命を号令して、大勢の若い紅学生を農村に解き放ち、左の原点に返れば泥んこの女と一緒に働けるようになると人民を扇動した。人民はまたしても熱狂し、北朝鮮の静かな嬢様に夢中だった彭徳懐将軍や劉少奇、鄧小平らを反動分子扱いして人民裁判にかけた。

どこまでも人民の真の声に応えることができる毛沢東に対し、林彪同志は「偉大なる天才」と美化の限りを尽くし、毛に異議を唱える者をどんどん薙ぎ倒していた。そして革命翌年の1969年、同志は「毛沢東の偉大なる戦友」と党規に明記され、いよいよ禽獣のヒョウから皇帝へと上り詰めた史上最強の出世人としての地位を確保したかに思われた。

ところがここで、文化政策担当の陳伯達が異議を唱える。林彪同志は毛沢東に国家主席の座に就くよう要請したのだが、陳はなんとこれが「毛よ、お前も劉少奇と同じように失脚してしまえ。お前は天災だ」というのが林彪同志の真の意図だと毛沢東に諫言したのだ。毛沢東は古代中国の偉大なる謀略の数々に長じていたので、林彪同志の発言を自分への謀反宣言だと判断した。そして、毛は林彪が抗日戦争中関東軍と内通して人間になったという「信頼できる消息筋」からの情報を流し、林彪を甜菜にしてしまえと壁新聞で紅衛兵たちに訴えた。

鮮やかすぎる最期[編集]

この情報を聞くなり、林彪同志の頭には関東軍の偉大なる英雄たちの記憶が蘇った。そして、天に召された林銑十郎将軍の英霊が降りてきて、以下のように林彪同志に助言した。

「名字を同じくする林彪同志よ、今こそ越境の時だ。今西方に逃亡すれば、たとえ失敗しようとも君は西方で毛沢東に狩られた悲劇のヒョウになれよう。俺は今日本を越境してモンゴルの大草原で遊牧民の馬を食い逃げしている。ここまで越境して来ればこの俺が皇帝食い逃げアイドルのゴナナイチを手配してやろう」

そして、紅衛兵が糾弾する中、林彪同志は一人飛行機を操縦してモンゴルの大地に向かった。しかし、国境を越えたところで土肥原賢二将軍の怨霊が違法にも降りてきて、「貴様は溥儀よりも自立している。利用価値はない」と総括して引導を渡し、飛行機を墜落させた。墜落した地はなんと「膿んでる・ハーン」。正に「草原の王者」ヒョウから身を起こした林彪同志にとって、これ以上なく劇的な死に場所であった。

文革終了後、周恩来の弟子たちは林彪と4人組に文革のあらゆる罪を着せ、人民の圧倒的支持のもと中国共産党の全体責任を回避した。4人組は悪のままだが、林彪同志だけは最期の様子のおかげで西方から温かい眼差しで迎えてもらえることになった。4人組の中の江青夫人は獄中で今も以下のように叫んでいる。

自分だけ良い思いしやがって!林彪、貴様~!

関連項目[編集]